第4話 resonance

レンの指先は、コンソールの上で所在なげに彷徨っていた。

 ブースの向こう側で、ユウは再び目を閉じ、次の咆哮を待っている。その姿は、神殿を破壊しに来た異教徒のようでもあり、あるいは、自らを焼き尽くそうとする殉教者のようでもあった。


「……録音を、回せ」


 ユウの低い呟きが、マイクを通じてレンの脳髄に直接突き刺さる。

 レンは震える手で、真紅に灯る録音ボタンを押し込んだ。


 再び流れ出す、完璧な伴奏トラック。  それはレンが心血を注ぎ、一分の隙もなく構築した、現代音楽の結晶だ。一切の濁りがないその音の海に、ユウの声が、今度は躊躇なく「楔」を打ち込んだ。


 ――それは歌というよりも、魂の剥落だった。


 ユウは叫んでいた。  楽譜に記された音程を、彼女は意図的に、かつ残酷なまでに踏みにじる。感情の昂りに合わせて声は割れ、掠れ、微かに震える。

 その歪んだ波形が、レンのモニター上に、これまでの「正解」を嘲笑うかのような不気味なノイズとして描かれていく。


「……っ」


 レンは、喉の奥が焼き切れるような感覚に襲われた。  聴いていられない。この音は、自分が積み上げてきたキャリアを、秩序を、そして「音楽とはこうあるべきだ」という臆病な信念を、根底から否定している。


 しかし、彼の手は止まらなかった。  いや、止めることができなかった。  モニターに映る「汚れた波形」から、目が離せない。    レンの脳裏で、何かが爆ぜた。  それは、彼が長年自分を閉じ込めてきた、強固な檻が崩壊する音だった。   「刺さるのが、怖いんじゃない……」    レンの口から、掠れた声が漏れる。   「俺は、刺されるのが……、自分という存在が、たった一音で書き換えられてしまうのが、死ぬほど怖かったんだ」


 彼は気づいてしまった。  自分が「ノリが良いだけの音楽」を量産していたのは、そうすることでしか、自分の内側にある「空虚」を守れなかったからだ。誰の心にも触れない音楽を作ることで、自分の心もまた、誰にも触れさせずに済んでいた。


 だが、ユウの声は、その防壁をやすやすと飛び越え、彼が一番隠したかった場所に、冷たく鋭い刃を突き立てている。


「……面白い」


 レンの瞳に、見たこともないような昏い光が宿った。  彼は狂ったようにマウスを掴み、フェーダーを跳ね上げた。    これまでの彼なら、即座に削除していたはずの「声の割れ」を、彼はあえて強調し、歪みを増幅させた。  ユウの絶唱に合わせて、彼は自分が作った完璧なオーケストレーションを、自らの手で切り刻んでいく。   「もっとだ……もっと汚せ! もっと、取り返しのつかないほどに!」


 レンの声は、もはや理性のそれではない。  彼はイコライザーを極端に操作し、美しいシンセサイザーの音を、悲鳴のような金属音へと変貌させた。    調律されたピアノの音を、彼はデジタル処理で引き裂き、あえて「外れた音」を重ねる。  それは、彼がずっと否定し続けてきた、あの古いアップライトピアノが持つ「死の香り」だった。  

 スタジオのスピーカーが、限界を超えた音圧で悲鳴を上げる。  ブースの中のユウと、コンソールの前のレン。

 二人の狂気は、音楽という名の媒介を通じて、一つの巨大な「不協和音」へと溶け合っていった。


 レンは笑っていた。  頬を、熱い涙が伝っていることにも気づかずに。    彼は今、生まれて初めて、自分自身の手で「毒」を練り上げていた。  聴いた瞬間に、その人の人生が二度と元に戻らなくなるような、美しくも残酷な毒。  それはもはや消費されるための娯楽ではない。  現代という、乾ききった砂漠に放たれる、黒い「雨」だった。


「これだ……これが、俺がずっと殺し続けてきた、俺の音楽だ……!」


 レンの指先は、もはや正確なリズムを刻むことをやめていた。  ただ、心の奥底で鳴り止まない「祈り」に似た絶望を、目の前の機械に叩きつけ続けていた。

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Between the Lines of Dissonance――あるいは、祈りのデシベルについて【短編】 比絽斗 @motive038

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