第3話 The invasion of a rusty voice

その夜、スタジオの重厚な防音ドアを開けたのは、一陣の不吉な風のような女だった。


 名前をユウといった。  事務所の担当者が「掘り出し物だ」と連れてきたその女は、最新鋭の機材が整然と並ぶスタジオの中で、酷く場違いに見えた。着古された黒いパーカーのフードを深く被り、その下からのぞく瞳は、獲物を値踏みする獣のように鋭く、そしてひどく濁っている。


「……あなたが、レン?」


 女の声は、低く、微かに掠れていた。  レンはコンソールから目を離さず、ただ顎をしゃくってブースの方向を指し示した。


「挨拶はいい。指示に従って、譜面通りに歌え。感情の解釈は俺がやる。お前はただ、正確なピッチとタイミングを提示すればいい」


 レンの冷淡な言葉に、ユウは鼻で笑ったような気配を見せた。  彼女はゆっくりと、防音ガラスの向こう側――歌い手のための孤独な聖域、レコーディング・ブースへと入っていく。    レンはヘッドフォンを装着し、マイクの感度を調整した。  高性能なコンデンサーマイクが、ブース内の微細な音を拾い上げる。ユウがヘッドフォンを耳に当てる衣擦れの音、そして、彼女が深く吸い込んだ、重い肺の呼吸音。   「始めるぞ」


 レンがスイッチを押すと、スタジオに無機質なガイドメロディが流れ出した。  それはレンが計算し尽くした、現代的な「最適解」の旋律だ。聴き手の耳を心地よく愛撫し、何の引っ掛かりもなく脳へ浸透していく、完璧なまでの平坦。


 ユウが、唇を開いた。


「――っ」


 スピーカーから溢れ出したその第一声を聴いた瞬間、レンの指がコンソールの上で凍りついた。


 それは、レンが想定していた「歌」ではなかった。    音程は、レンが指定したグリッドから、わずかに、しかし致命的に外れていた。  いや、外れているのではない。彼女の声は、楽譜という記号の枠組みを内側から食い破ろうとするような、暴力的な質量を持っていた。  声の芯には、まるで古い鉄錆が混じったようなザラつきがあり、それが鼓膜を、そしてレンが守り続けてきたスタジオの秩序を、容赦なく削り取っていく。


「ストップ。……ストップだ!」


 レンはインターコムのボタンを叩きつけるように押した。  音楽が止まり、スタジオに刺すような沈黙が戻る。


「……何の真似だ、これは。俺が指示したのは、もっとクリアで、抜けの良い、消費しやすい高音だ。今のはただの『雑音』だぞ。ピッチも補正しきれないほど揺れている。そんな汚い声、誰が聴くと思っている?」


 ブースの中で、ユウがゆっくりと顔を上げた。  マイクを睨みつける彼女の瞳に、激しい火花が散る。


「綺麗な声なんて、その辺の機械にでも出させればいいじゃない。……あんたの作ったこの曲、死んでるわよ」


「何だと?」


「死体みたいに冷たくて、ツルツルしてて、掴みどころがない。どこを聴いても、誰の心にも触れない。あんたは『消費される音楽』を作ってるつもりかもしれないけど、私にはこれが、音楽の墓場に見える」


 ユウは一歩、マイクに詰め寄った。その距離があまりに近く、近接効果によって彼女の低い吐息が、レンの脳内に直接流し込まれる。


「あんた、怖いんでしょ。本当は。……誰かの心の奥底に、取り返しのつかない傷を付けてしまうのが。だから、そうやってバリアを張るみたいに、音を綺麗に整形して、自分を守ってるんだわ」


 レンの奥歯が、ギリリと音を立てた。  図星だった。  彼は、音楽の持つ「毒」を知っている。一度刺されば一生癒えない、あの狂おしいまでの共鳴を知っている。だからこそ、彼はその毒を中和し、無害な娯楽へと作り替えてきたのだ。


「……黙れ。お前は、俺が作った『正解』に従えばいいんだ」


「断るわ。私は、あんたの正解をぶち壊すためにここに来たのよ」


 ユウは不敵に微笑むと、再びヘッドフォンを耳に押し当てた。


「もう一回回して。今度は、あんたが一生忘れられないような、最悪な『不協和音』をあんたの綺麗な世界に叩き込んでやるから」


 レンの手が、微かに震えていた。  それは怒りか、それとも――久しく忘れていた、未知の旋律に対する恐怖と歓喜か。    彼は荒い呼吸を整え、再び「録音」のボタンに手をかけた。  スタジオの温度が、一気に数度上がったような錯覚に陥る。  完璧な秩序の崩壊が、今、始まろうとしていた。

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