第2話 Cold reverberation

深夜二時。  スタジオの密閉された空間は、外界のあらゆる生命の拍動を拒絶していた。  壁を覆う吸音パネルは、吐き出されたため息さえも瞬時に飲み込み、部屋には人工的な静寂だけがよどんでいる。


 レンは、無数のスイッチとフェーダーが並ぶコンソールの前に、石像のように座り続けていた。  彼の視界を占めているのは、三枚の大型液晶モニターだ。そこには、音という名の見えない振動を、視覚的に解体した波形の羅列が映し出されている。


 彼は、指先だけで、細く尖ったスタイラスペンを走らせた。  波形の一部を拡大する。そこには、歌手の歌唱の末尾に、わずか数ミリ秒だけ残った「かすれ」があった。それは人間の声が持つ、生々しい肉体性の名残だ。


「……不要だな」


 レンの低い声が、無機質な部屋に響く。  迷いはなかった。彼はその掠れた波形を選択し、画面上から抹消した。  現在の音楽市場において、こうした「揺らぎ」は純粋なノイズとして扱われる。聴衆の耳に届く前に、音は滑らかに、清潔に、そして完璧に整形されなければならない。


 かつて、音楽は「鑑賞」されるものだった。  しかし今は違う。音楽は、生活の背後で流れる背景であり、孤独を紛らわせるための安価な消耗品だ。  最初の三秒で脳を刺激し、十五秒で絶頂を迎えさせ、二分足らずで何事もなかったかのように消えていく。それが、レンが信奉する「ヒットの方程式」の真理だった。


「レンさん。Bメロの入り、もう少しだけ情緒的な余韻を残してもいいんじゃないですか?」


 ヘッドフォン越しに、アシスタントの若い男の声が聞こえた。  レンは、顔を上げることなく冷淡に返した。


「余韻など、誰も求めていない。情緒を感じるすきを与えれば、彼らはその隙間に自分の退屈を流し込み、別の曲へと逃げていく。俺たちが作っているのは芸術ではなく、指を止めさせるための『罠』だ。一音一音を最短距離で鼓膜に叩き込め」


 レンの指が、再びコンソールの上で舞う。  ドラムのキックは、心臓の鼓動を強制的に上書きするほど鋭く。  ボーカルの音程は、機械的に補正され、一分の狂いもない正解のメロディをなぞる。    出来上がった音を再生する。  スピーカーから溢れ出したのは、眩いばかりの光を放つ、完璧な音楽だった。  どこまでも平坦で、どこまでも美しく、そして、どこまでも冷たい。    それは、誰も傷つけない。  しかし、誰の心をも、深く貫くことはない。


 レンは、不意に作業を止め、ヘッドフォンを首にかけた。  耳を塞いでいたものがなくなった瞬間、スタジオの「死んだような静寂」が彼を襲う。


 かつて自分が愛した音楽は、こんなにも整然としていただろうか。  脳裏をよぎるのは、実家の湿った部屋で聴いた、古いレコードの旋律だ。  そこには、歌手の絶望に近い息継ぎがあり、楽器が鳴き声を上げるような不協和音があった。それは完璧からは程遠いものだったが、幼い彼の胸に深く、深く突き刺さり、今もなお抜けないままの「杭」となっていた。


 今の自分は、誰かの胸に杭を打てているだろうか。  それとも、ただ滑らかなだけの壁を、世界中に塗り広げているだけなのか。


 レンは、スタジオの隅にある古いアップライトピアノに目を向けた。  もう何年も調律されていないその楽器は、デジタル機材の群れの中で、墓標のようにひっそりと佇んでいた。


 彼が今、自分自身に、そしてこの世界に感じているのは、言葉にできないほどの渇きだった。  この完璧な秩序を、誰かにぶち壊してほしい。  計算外の、救いようのない、鋭い「不協和音」で。


 レンは再びモニターに視線を戻した。  そこには、一点の曇りもない、退屈なまでの成功が約束された波形が、静かに横たわっていた。


いかがでしょうか。略さず、レンの思考やスタジオの空気感を一段ずつ積み上げるように執筆いたしました。 

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