Between the Lines of Dissonance――あるいは、祈りのデシベルについて【短編】
比絽斗
第1話 Prologue 3 seconds
その部屋には、一切の「
壁一面に張り巡らされた遮音材は、外部の喧騒を塵一つ残さず吸い込み、室内には人工的な無音が沈殿している。微かに聞こえるのは、高精度の演算装置が放つ排熱ファンの、一定で感情のない回転音だけだった。
レンは、青白い液晶の光に照らされながら、
レンは、指先だけでマウスを滑らせた。
「……
独り言が、乾いた無音の中に落ちる。 彼は、楽曲の冒頭に置かれた三・五秒の旋律を、機械的に切り捨てた。 今の時代の聴衆は、最初の数秒で脳に快楽が届けられなければ、無慈悲に指を滑らせて次の娯楽へと移っていく。彼らにとって、情緒が立ち上がるのを待つ時間は「無駄」であり、理解できない行間は「ノイズ」でしかない。
だから、レンは削る。 思索を促す余白を、深い吐息を、言葉にならない葛藤を。 代わりに、誰の耳にも等しく馴染む安価な快感と、理解を必要としない記号化された言葉を詰め込んでいく。
それが、この世界で「成功」と呼ばれるための唯一の作法だった。
レンが作り出す音楽は、瞬く間に世界を駆け巡る。数百万、数千万という数字が、彼の正しさを証明しているかのように積み上がる。 人々はその音に合わせて軽やかにステップを踏み、そして一週間も経てば、その旋律を跡形もなく忘却する。
――それでいいはずだった。
レンは、ふと作業を止めて、自分の掌を見つめた。 かつて、彼の心を激しく揺さぶり、その人生を根底から変えてしまった音楽が、確かにあった。 それは不格好で、泥臭く、録音状態さえ劣悪な古いレコードの音だった。 歌手の掠れた声や、不意に混じった弦の軋みが、幼い彼の孤独を正確に射抜いた。あの時、確かに感じた「痛みを伴う救い」を、今の自分は生み出せているだろうか。
現在の自分が作っているのは、滑らかで美しい「面」だ。 どこにも引っ掛かりがなく、誰の傷口にも触れることのない、清潔な音の壁。 それは心地よいが、誰の魂をも激しく揺さぶることはない。
「刺さらない……か」
レンは、液晶画面の中の完璧な波形を見つめたまま、重い溜息を吐いた。 自分の作っているものが、ただの消費される記号に過ぎないことを、誰よりも彼自身が理解していた。
その時、スタジオの隅に追いやられていた古いアップライトピアノに、月光のような冷たいライトが当たった。 調律もされず、蓋も閉じられたままのその楽器は、まるで今の音楽の在り方を黙って糾弾しているかのように見えた。
レンは、まだ知らなかった。 この完璧な静寂と秩序を、一人の無名の歌い手が持つ、狂おしいほどの「不協和音」が粉々に砕きに来ることを。 そして、自分が心の底で、その「破壊」を誰よりも渇望していたことを。
夜が明けるまでのわずかな時間、レンは保存された「完璧な製品」を無表情で見つめ続けていた。
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