ショートカットの魔法、あるいは二人がかりのレタッチ
小紫-こむらさきー
第1話 白い檻
ミフユさんと僕が、初めて「あるべき姿に戻す」という方法で怪異を救った、あの日から三日後のことだった。
その日、アトリエの床は、奇跡的に床が見える状態を保っていた。
元アトリエだった倉庫を、高見さんの厚意でミフユさんが借り受けている住居兼仕事場だ。広さだけは十分にあるものの、主の生活能力が壊滅的なせいで、足の踏み場もないゴミ屋敷と化していたのだ。
数日前、軽く掃除をした。
カビ臭い倉庫の空気も、換気扇を回し、埃を掃き出すことで幾分かマシになっている。
ただ、部屋の主の格好だけは、相変わらず目に痛いほど派手だった。
数週間前、ミフユさんにスカウトされてから、僕は仕事のオフや就業後にここに来るようになった。彼はスマホで怪異を加工し、僕がその画面を見ることで現実に反映される。僕の目がトリガーなのだ。
「……ミフユさん」
「あ? なんだよヨータ」
ソファに寝転がり、スマホをいじっていたミフユさんが、気だるげに顔を上げる。
今日の彼は、目が覚めるような極彩色のシルクシャツに、幾何学模様の入ったモードブランドのスラックスを合わせていた。首元や手首には、シルバーのアクセサリーがジャラジャラと重なり合い、動くたびに涼やかな、しかし騒々しい音を立てる。
そのアクセサリーの隙間から覗く手の甲には、幾何学模様のタトゥーが刻まれている。
どこかのファッション誌から飛び出してきたような、あるいは南国の鳥が迷い込んできたような佇まいだ。
病的なまでに白い肌と、作り物めいて整った顔立ち。腰まである艶やかな黒髪は、後頭部で無造作にお団子状にまとめられている。
切れ長のつり目は、猛禽類のように鋭く、それでいてどこか艶めかしい。
薄暗い倉庫の中では、彼自身が発光体のように浮いて見える。
「その服の組み合わせ……ちょっと、派手すぎませんか?」
僕が恐る恐る指摘すると、彼は心外そうに眉を寄せた。
「あ? 俺が着たいから着てんだよ。他人の評価なんざ知るか」
鼻を鳴らし、再びスマホの画面に視線を落とす。
その横顔には、世間の常識や「普通」という枠組みに対する、明白な無関心が張り付いていた。
他人の顔色ばかり窺って生きてきた僕とは正反対だ。
でも、不思議と嫌な感じはしない。むしろ、その揺るぎない「自分勝手さ」が、今の僕には眩しく、少しだけ羨ましくもあった。
僕が淹れたコーヒーを彼が受け取ろうとした、その時だった。
サイドテーブルに放り出されていたミフユさんのスマホが、着信を告げて震えだした。
ディスプレイに表示された名前を見て、ミフユさんが露骨に顔をしかめる。
「……チッ。過保護野郎か」
高見さんからだった。
迎えに来た高見さんの愛車は、今日も滑るように静かだった。
高級車の革シートに身を沈めると、外の熱気が嘘のように遮断される。車内には微かに高そうなコロンの香りが漂い、快適な空調が肌を撫でる。
ハンドルを握る高見さんは、完璧だった。
仕立ての良いダークネイビーのスーツに、塵一つないシャツ。髪は整髪料でタイトに撫で付けられ、後れ毛一本許されていない。
いつもの穏やかな笑顔を浮かべているが、バックミラー越しに目が合うと、その瞳の奥に微かな疲労と、焦燥のような色が滲んでいるのが分かった。
「急に呼び出してすまないね。……少し、厄介なことになっていて」
高見さんが向かっているのは、奥多摩の山奥だという。
彼が新しくオープンさせる予定のプライベート美術館『ブラン・エ・ノワール』。フランス語で「白と黒」を意味するその場所で、プレオープン中のスタッフたちが次々と体調を崩しているらしい。
「体調不良、ですか?」
「精神的なものだよ。『自分はダメだ』『もっとちゃんとしなきゃ』と言って泣き出したり、中には自分の顔を爪で傷つけようとしたり……」
高見さんの声が、痛ましげに低くなる。
「原因は分かっているんだ。……メイン展示の絵画だ」
「絵画?」
「『淑女の肖像』。……あるオークションで手に入れた、曰く付きの作品だよ。前の持ち主たちは皆、発狂したり失踪したりしているらしい」
僕は思わず眉をひそめた。
「……それなのに、買ったんですか?」
危険だと分かっているものを、なぜわざわざ。
高見さんは苦笑した。自らの愚かさを嘲るような、乾いた笑いだった。
「呪いなんて、信じていなかったんだよ。……いや、信じたくなかったのかな」
信号待ちで車が止まる。
高見さんはハンドルを握る手に力を込め、フロントガラスの向こうを見つめた。
「あの絵を見た時、僕は思ったんだ。『完璧だ』って。……弟が求めていたものが、そこにあるような気がした」
弟。
その単語が出た瞬間、車内の空気がふっと重くなった気がした。
かつて彼が守りきれずに失ってしまった、大切な家族。霊媒師だった弟は、ある依頼人と深く同調しすぎて、最期は相手の「死」まで引き受けてしまったという。
高見さんは、その絵画の中に、失われた弟が目指していた「理想」や「救い」の形を幻視してしまったのかもしれない。
完璧な美しさがあれば、もう誰も傷つかない。誰も壊れない。そんな祈りにも似た執着。
「……それ、アンタの願望だろ」
後部座席から、冷ややかな声が飛んだ。
ミフユさんが、窓の外を眺めたまま鼻を鳴らす。
「死んだ人間に理由をこじつけて、自分の好みを正当化すんな。……趣味が悪いぜ」
辛辣な言葉だった。
けれど、高見さんは怒らなかった。むしろ、痛いところを突かれた子供のように、寂しげに目を細めただけだった。
「……手厳しいな、ミフユちゃんは。でも、そうかもしれないね」
車が再び走り出す。
山道に入り、周囲の緑が濃くなっていく。
けれど、僕たちの向かう先には、そんな自然の色彩さえも拒絶するような「無機質な白」が待っている気がして、僕は無意識に自分の膝を握りしめていた。
美術館は、深い森の中に唐突に現れた巨大な豆腐のようだった。
装飾の一切を削ぎ落とした、コンクリート打ちっ放しの白い箱。窓は極端に少なく、外部との接続を拒絶しているかのようにそびえ立っている。
『ブラン・エ・ノワール』。
その名の通り、そこにあるのは「白」と「黒」だけだった。
エントランスの自動ドアが開いた瞬間、ひやりとした冷気が僕たちを出迎えた。
温度だけじゃない。空気の質感が、まるで違う。
無臭。
森の緑の匂いも、土の匂いも、完全に遮断されている。
漂白剤で何度も洗われたような、無菌室特有の乾いた匂いが鼻を突く。
「……どうぞ、こちらへ」
案内してくれたスタッフの女性を見て、僕は思わず息を呑んだ。
黒いタイトスカートの制服に身を包んだ彼女は、まるでマネキンのようだった。
髪は一筋の乱れもなくひっつめられ、顔には能面のように分厚いファンデーションが塗られている。肌の凹凸も、血色も、すべてが塗りつぶされていた。
彼女だけじゃない。すれ違う警備員も、清掃スタッフも、皆一様に同じ顔をしている。
表情がない。瞬きすら、忘れてしまったかのように少ない。
カツ、カツ、カツ。
磨き上げられた大理石の床に、僕たちの靴音だけが異物のように響き渡る。
息苦しい。
肺に酸素が入ってこないような錯覚に陥る。
喉の奥が詰まり、心臓が早鐘を打つ。
(……なんだ、これ)
ただの緊張じゃない。
肌にまとわりつく、ねっとりとした圧迫感。
無数の視線に見られているような、あるいは、巨大なプレス機の中に閉じ込められたような感覚。
冷や汗が背中を伝う。
息を吸おうとして、喉がヒュッと鳴った。
その時だった。
バン!
背中を強く叩かれ、僕は前のめりによろめいた。
「……おい。息止めんな。窒息すんぞ」
振り返ると、ミフユさんが不機嫌そうに眉を寄せていた。
その琥珀色の瞳が、僕を射抜くように見つめている。
「え……あ、すみません……」
叩かれた背中がじんじんと熱い。
でも、その痛みのおかげで、詰まっていた息が吐き出された。
ミフユさんはわざとらしく大きなため息をつくと、周囲を見回して鼻を鳴らした。
「……ケッ。ここは矯正施設かよ。空気が死んでやがる」
その言葉と共に、僕の中に得体の知れない感情が流れ込んできた。
強烈な不快感。
吐き気を催すほどの嫌悪。
そして、底知れない呆れ。
(……え?)
僕は一瞬、混乱した。これは、僕の感情じゃない。ミフユさんの感情が、僕の中に流れ込んできている?
こんな感覚、初めてだ。言葉を交わさずとも、彼の不快感や嫌悪が、直接胸に響いてくるなんて――。
霊的な感受性が高い人間同士が近くにいると、稀にこうなるらしい。お互いの感覚や感情が、無意識に流れ込んでしまう。ミフユさんは「混線」と呼んでいた。
彼もまた、この異常な空間に苛立ち、そして僕の緊張を感じ取って、わざと乱暴に振る舞ってくれたのかもしれない。
その不器用な気遣いに、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。
「……行きましょう、ミフユさん」
「おう。さっさと終わらせて、ジャンクフードでも食いに行くぞ」
僕たちは高見さんの背中を追って、さらに奥へと進んだ。
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