第10話 すきなもの

 それから一週間が経った。相変わらず、みおは学校に行かなかったし、パパもママも何も言ってこなかった。パパはこのところ不在がちで、ママはずっと、何か言いたそうな顔でみおを見ていた。言ってこなかったけれど、でも目がうるさかった。みおはそんな目から逃げるように、自分の部屋にこもった。ちょっと前までは、パパの水槽部屋でぼーっとする毎日だったが、最近はずっと自分の部屋で、ふぐの助としゃべっていた。


「みおは何が好きなの?」


 ふぐの助は、放っておいたらずっと喋り続ける。ありとあらゆることに興味があるみたいで、みおとは大違いだ。


「何が好きって?」

「好きなものだよ。趣味とか食べ物とか。ちなみにぼくは、乾燥エビ!」


 あれから、みおは何度か人口飼料をふぐの助に食べさせようとした。しかし、ふぐの助は食べなかった。パパから借りた雑誌には、乾燥エビに人口飼料を仕込むと、食べることもあると書いてあった。しかし、ふぐの助はエビだけ食べて、人口飼料は「あっ間違えた!」という感じで吐き出してしまうのだ。やっぱり嫌なやつだ。


「ねえ、何が好きなの?」

「とくにない」

「そんなことないでしょ! 好きな食べ物は?」

「ない」


 みおがきっぱりそう言うと、ふぐの助はえーっと声を上げた。ないものはないのだから仕方がない。前は、給食でカレーが出ると、嬉しいとかそういうのがあった。でも今ではもうない。晩ごはんにカレーが出ても、ああカレーだなとしか思わなくなった。


「じゃあ、ぼくのことは?」


 ふぐの助は、キラキラした目でみおを見つめた。みおは言葉につまったが、宝石みたいな目で真っすぐ見つめられると、言わない訳にはいかなかった。


「まあ……嫌いでは、ない」

「やったー!」


 ふぐの助は、跳びあがって水槽のフタに頭をぶつけた。前言撤回(この言葉はふぐの助から教わった)、きっと悪いやつではないのだろう。


***


 土曜日。みおは初めて、一人で水槽の水換えをした。いつもはパパと一緒にやるのだけれど、パパは今日、どこかに出かけてしまっていた。どこに行くのかは教えてくれなかった。


 仕方がないので、みおは一人で水を換えることにした。やり方は教えてもらったので大丈夫なはずだ。

 まずは、水槽の水を抜く。灯油ポンプみたいなやつの、棒の方を水槽に入れて、サンゴ砂に刺す。ホースの方は、バケツに入れる。ポンプを何度か押すと、水とゴミが一緒に持ち上がって、バケツに出た。

 三分の一ほど抜くと、今度はバケツに水道水を入れる。そこに、熱湯を入れた袋を入れて、水の温度を少しずつ上げる。水槽の水と同じ温度になったら、袋を取り出して、薬を入れる。

 薬は三種類。まずは、カルキ抜き入りの粘膜保護剤。水道水の中にある、カルキという魚に悪い物を消してくれて、病気にもかかりにくくしてくれる。次に、コケの抑制剤。ガラスに張り付く緑や茶色のコケを、生えにくくしてくれる。それから、ミネラルの栄養剤。フグの場合は、他の魚の二倍入れるらしい。

 水ができたら、ちょっとずつ水槽に注ぐ。ふぐの助は、やっぱりびっくりして跳びあがった。けれど、水を抜いていて水面が低かったので、頭はぶつけずに済んだ。ぶーぶー文句は言っていたけれど。

 今日もふぐの助はよく喋る。もうちょっと優しくしてとか、水の温度がどうだとか。パパと一緒の時は、一言も喋らないくせに。


***


 その日の夜、水槽に乾燥エビを入れると、ふぐの助が食べながら言った。


「いやー、人間って大変だよねぇ」

「何が?」

「ぼくはずーっとここでごはんを貰えるけど、人間って大人になったら働いて、自分でごはんを手に入れないといけないんでしょ? みおも大変だなぁ」


 ふぐの助が同情するように言った。みおは一瞬、息が止まった。

 あまり考えないようにしていたことだけれど、確かにふぐの助の言う通りだ。でも、学校にすら行けない自分が、大人になって働いている姿なんて、想像すらできない。

 みおは、急に不安になった。この先、自分はどうなるのだろう。小学校は、あと四年もある。そのあとは、中学校に三年も通わないといけないし、高校にだって行かなければならない。そして、自分の好きなことや得意なことを見つけて、働かなければならない。パパやママだって、ずっとごはんを作ってくれる訳じゃない。

 みおは、何一つできる気がしなかった。


***


 リビングに行くと、パパがココアを飲んでいた。パパはママと違ってお酒が飲めないので、夜になるとよく、ココアやホットミルクを飲んでいる。


「みおも飲む?」

「のむ」


 パパはキッチンに立つと、マグカップに牛乳を入れて、レンジで温めはじめた。ママはいなかった。多分お風呂に入っているのだろう。


「パパは、学校に行った方がいいと思う?」


 みおがそう聞くと、パパは物凄くびっくりした顔をした。同時に、レンジが鳴った。パパはレンジからマグカップを取り出すと、そこに砂糖とココアパウダーを入れて、スプーンをさしてからみおに渡してくれた。甘く、ほっとする匂いだ。


「ふぐの助が何か言ったの?」


 なんでわかったんだろう、とみおは思った。


「人間は働かなきゃいけないから大変だねって」


 パパは静かに、みおの話を聞いていた。


「でもわたし、学校にも行ってないし、好きなことも得意なこともまったくないし、いろんなことを考えてたら、ちょっと」


 怖くなった、という言葉は飲み込んだ。

 パパは眉間にしわをよせて、宙を見た。真剣に考えているようだった。


「……小学校って、義務教育じゃない」


 しばらくしてから、パパが言った。みおは一瞬、何のことかわからなかった。


「義務っていうのは、しないといけないってことだけど……なんで義務なんだと思う?」

「……わかんない」

「種まきのためだと、パパは思うんだ」

「種まき?」


 パパはまた少し黙ると、少しずつ言葉を選ぶように喋った。


「……小学校って、いろんなことを教わるでしょ? いろんな授業を受けていると、だんだん何が得意で何が苦手か、何が好きで嫌いかがわかってくるようになるんだ」


 それは、みおにもわかる。みおは体育が苦手だった。ドッジボールで、みおはまったく動けなくて、クラスメイトに文句を言われた。ドッジ大会のために、休み時間もみんなで練習をしようと言われて、みおは心臓がきゅっとなった。みおは、休み時間は絵を描いたり、本を読んだりしたかったから。


「……得手不得手ってやつだ」


 みおがぽつりとそう言うと、パパはちょっと驚いた顔をしてから、「よく知ってるね」と笑った。


「何が得意かなんて、やってみないことには、わからないよね。……自分の好きなものを見つけるための種まき、それが、学校。そして勉強は、その種に水をあげるようなことだと、パパは思うんだ」


 みおは、わかるようなわからないような、そんな気持ちだった。


「つまり、人生の味見ってこと?」

「うまいこと言うね」


 パパが笑った。けれど、みおの気持ちは暗かった。


「じゃあやっぱり、パパも学校に行ったほうがいいって思うんだ」

「そんなことはないよ」


 みおはびっくりして、パパの顔を見た。パパは、まっすぐみおの目を見つめながら言った。


「みおにとって、学校がつらく苦しい所なら、無理して行く必要はない」


 パパははっきりとそう言った。みおはなんだか急に、心臓がぎゅっとして、目の奥が熱くなった。物凄く意外だった。パパは優しいけれど、心の奥では学校に行けない自分のことを、良く思っていないんじゃないかと、みおはずっと思っていたのだ。


「ただ、パパは、みおに実りの多い人生を歩んでほしいと思うから」

「学校に行けって?」


 みおがすかさず聞いた。パパはちょっと笑った。


「違うよ。学校が種まきをしてくれない分、みおには自分で、種をみつけてほしいなって」


 みおは面食らってしまった。何もない場所に、今日から一人でやっていってねと放り出されたような気持ちだった。


「そんなの、どうしたらいいの」


 みおは泣きそうだった。パパはそんなみおの肩に手を伸ばそうとして、やめた。


「……さわっても大丈夫?」


 みおが黙ってうなずくと、パパはみおの両手を、大きな手のひらでそっと包み込んだ。がさがさしていて、温かかった。


「とにかく、なんでもいいから、いろんなことをやってみる。そして、嫌じゃないって思ったら、続けてみる。続けてみて、好きだなと思ったら、深く深くさぐっていく。その中で、できないことを見つけたら、どうしてなんだろうって考える……みたいな」

「……そんなのでいいの?」


 みおの身体に、すうっと息が入った。水面から顔を出した瞬間みたいだった。


「みおが望むなら、そういうことができる場所に、連れて行ってあげることもできるよ」

「……そういうことができる場所?」


 パパはうんと返事をして、みおに背を向けた。そして、電話機の横のレターボックスから、数枚のパンフレットを取り出した。


「好きな時間に行って、好きな勉強が出来る学校があるんだ。もしみおさえよかったらだけど……」


 水色や黄色のカラフルなパンフレットには、かわいい字でフリースクールと書いてあった。何のことかはよくわからなかったけれど、パパは今、学校と言った。

 学校。パパの言うことには、興味がある。でも、学校。みおの中で、またさざ波が立った。がっこう。ガッコウ。その波が少しずつ大きくなって、みおを飲み込みそうになった時、パパが突然、明るい声で言った。


「そうだみお、明日はフィルターを洗おう」


 みおはぽかんとした。


「藪から棒に、何?」

「ほら、水の換え方は教えたけど、フィルターの方はまだでしょ? あれも本当は、定期的に洗わないといけないんだ。多分すごく汚れてるんじゃないかなぁ」

「じゃあなんでいっぺんに教えてくれなかったの?」

「フィルター掃除と水換えは、別々にやるのが鉄則なんだ。バクテリアが死んじゃうからね」


 なんだかわかるようなわからないような、そんな感じだった。そんなのばっかりだ。


「そういえば、藪から棒なんて言葉、よく知ってたね」

「ふぐの助が教えてくれた」


 みおはちょっと、胸を張ってみた。


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