第8話 かわいそう
この日の晩ごはんは、ママと二人きりだった。パパは残業で遅くなるらしい。メニューは、白ご飯と、豚の生姜焼きと、かぼちゃの煮物と、朝のお味噌汁のあまりだった。
「これは栗かぼちゃだから、甘いわよ」
ママは、かぼちゃの煮物を出す時、毎回そう言う。みおは、この煮物もあまり好きではなかった。甘いのなら、お菓子とかにしてくれた方がいいのに。
「そういえば、次の土曜日、お花教室にさやかちゃんが来るらしいわよ。みおも来る?」
かぼちゃに箸を伸ばしたみおを見ながら、ママが言った。お花教室というのは、ママの趣味の集まりのことだ。さやかちゃんは、みおの同級生。保育園が一緒だったので、前はよく遊んでいた。
「行かない」
「どうして? 久しぶりにお友達に会いたくない?」
どうして、と言われても、上手く答えられない。お花教室では、ケーキを食べて、お茶を飲んで、おしゃべりしながらお花を活ける。ママの友達は、みんなおしゃべりだ。そしてみんな、ママに似ていた。
――学校はどうしたの、ダメよ逃げてちゃ、ちょっとのことぐらい我慢しなきゃ、まだ二年生でしょ、大丈夫すぐ行けるようになるから――
一度だけママについて行った時、そんな感じのことを口々に言われた。みおは、次から次に降って来る言葉で、おぼれそうだった。なんだかとても、息苦しかった。
でもママは、「あなたも大変ね」と言われて、泣きそうな嬉しそうな、変な顔をしていた。それを見て、みおは余計に息苦しくなった。だから行かない。絶対に、もう行かないのだ。
「……そうだ、お魚の世話はちゃんとしてる?」
黙り込んでしまったみおを見かねて、ママが話を変えた。みおはちょっとだけママを見て、かぼちゃに視線を落とした。
世話も何も、水換えは週に一度だし、今日はごはんをあげただけだ。しかし、説明するのが面倒だったので、みおは黙ってうなずいた。
「お魚って、かわいそうよね。狭い水槽に一生閉じ込められて。だからママ、本当はあんまり好きじゃないんだけど、パパったら次から次に増やしちゃって……」
ママがひとり言みたいに言った。ママは、パパがいないとしょっちゅう愚痴を言う。本人に言ったらいいのに、と思ったけれど、面倒なので、みおは黙っていた。
***
「ねえ、ふぐの助ってかわいそうなの?」
晩ごはんの後、自分の部屋に戻るとすぐに、みおはふぐの助に話しかけた。パパはまだ帰っていない。
「何? 藪から棒に」
「やぶからぼうって何?」
「なんで急にそんなこと聞くの、ってこと!」
「ママが、お魚は一生狭い水槽に閉じ込められて、かわいそうだって言ってた」
「きみのママって、いやなやつだな」
それは、みおもちょっと思っていたことなので、なんだか可笑しかった。でも、ふぐの助だっていやなやつじゃん。そう思ったけれど、また面倒になりそうだったので、みおは言わなかった。
「少なくとも、ここにいたら敵に食べられる心配はないし、ごはんも貰えるし、万々歳じゃん」
「ばんばんざいって何?」
「めっちゃいいってこと! それに、みおだって同じだろ?」
「何が?」
「学校にも行かずに、ずっと家にいるんだろ。それってぼくと同じじゃないか」
みおは、言葉を失った。
***
次の日の朝、みおは七時ちょっと前に目を覚ました。開けっ放しにしていた窓から、音楽と楽しそうな声が流れ込んで来る。ラジオ体操だ。そうだ、そう言えば、今日から夏休みだった。
みおは、お休みの日が好きだ。みおは学校に行っていないから、お休みも何もないのだけれど、自分だけじゃなく皆が学校に行っていない日は、なんだかちょっと、息がしやすい。だから、夏休みが少しだけ待ち遠しかった。
「……」
そのはず、だったのだけれど。
階段を下りて、みおはパパの水槽部屋に向かった。パパはいなかった。
「こんなところにいたの」
ママがバタバタとやってきた。スーツ姿だ。パパは? と聞くと、昨日遅くに帰ってきて、さっき仕事に出かけたと教えてくれた。
「ママも今日はもう出ないと。ごはんはラップしてあるから、温めて食べてね」
そう言うと、ママはみおの返事を待たずに、さっさと行ってしまった。
みおは部屋の奥に進むと、壁際にある大きな水槽と水槽の間に、腰を下ろした。ここが、みおの居場所だ。ちょっと前までは、朝から夜まで、ずっとここで過ごしていた。
ぽこぽこ、ちょろちょろという安心する音、ぶーんという、低くうなる電気の音。ぽこぽこと言うのは、水槽に空気を入れる音。ちょろちょろというのは、フィルターが、きれいになった水を吐き出す音。ぶーんというのは、エアポンプが動く音。今のみおには、わかる。ただの居心地の良い音じゃなくて、その全部に意味があるのだと、わかる。なんだか今までより、少しだけ世界がくっきり見えるような気がした。
でも、だからって、何だというのだろう。世界がくっきり見えるぶん、自分のことも、よく見えた。みおは、昨日からずっと、考えていた。
ママは魚をかわいそうだと言った。ずっと閉じ込められているから。ふぐの助は、みおも自分も一緒だと言った。同じ場所から出ないから。じゃあ、みおも、かわいそうだということなのか。学校に行けないから。ここから出られないから。
みおは、たくさん我慢してきた。上級生と、一緒の班で登校すること。休み時間に、ドッジボールをすること。図工の時間に、先生に言われた通りの色で塗ること。体育の時間のこと。知らない人と、友達になること。いっぱいいっぱい我慢してきた。だから、みおは自分は我慢が得意なのだと思っていた。けれど、ある日突然、爆発してしまった。全部がぜんぶ、嫌になってしまった。一年間も頑張った。みおは、一年間も頑張ったのだ。だから、学校に行くのをやめたのだ。
***
その日の夜、ママのただいまという声を聞きつけると、みおは走って玄関に向かった。
「ママ! わたしって、かわいそうなの?」
みおが勢いよく言った。帰って来たばかりのママは、靴を片方脱いだまま、固まった。
「何? どうしたの?」
「昨日、魚は一生水槽に閉じ込められてて、かわいそうって言ったよね。じゃあ、ずっと家にいるわたしもかわいそうなの?」
あっけに取られているママに、みおは畳みかけるようにして言った。丸一日考えて、考えて煮詰まった言葉が、どろどろとあふれ出した。
「そんなこと……それに、みおは閉じ込められている訳じゃないじゃない。出ようと思えばいつだって、」
「思えない! 思わない!」
ママの言葉を遮って、みおは自分の部屋に走った。ママは明らかに困っていた。でも知らない。何もかももう、全部、知らないのだ。
***
自分の部屋にかけ込むと、ふぐの助がまたびっくりして、フタに頭をぶつけた。
「びっくりさせないでったら!」
みおは無視して、部屋に鍵をかけた。階段の下から、ママのキンキン声と、ちょうど帰って来たパパのなだめるような声がする。みおは全部無視して、ベッドにもぐりこんで布団を頭からかぶった。
「みお、どうしたの?」
ふぐの助が言った。
「いやなことでもあったの?」
心配するような、はじめて聞く声色だった。もしかしたらふぐの助は、いいやつなのかもしれない。みおは布団から顔を出すと、小さな声で「わたしってかわいそうなんだって」と言った。
「ママに言われたの?」
「……言われてない。言われてないけど、わたしとふぐの助って一緒なんでしょ? じゃあかわいそうってことじゃない」
「そうなる? ……っていうか、ぼくはかわいそうじゃないんだってば!」
「そうなの?」
「昨日言ったじゃん。ここは安全だし、だれも傷つけてこないし」
「……そうね。ここにいたら、傷つかなくてすむもんね」
「それにさ、みおは学校に行くと、しんどいんだろ? それって、ぼくが水槽から出ると息が出来ないのと一緒だよね。適材適所ってこと!」
「てきざいてきしょって何?」
「人それぞれ向いてる場所は違うってこと!」
すると突然、ドアがコンコンとノックされた。ふぐの助が、びっくりしてフタに頭をぶつけた。
「みお?」
パパの声だった。みおは無視して、布団を頭からかぶって息をひそめた。枕が、ちょっとだけ湿っていた。
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