第5話 おはなし

 黙り込んでしまったみおに、パパは手をのばそうとして、やめた。かわりに安心させるように微笑んで、ゆっくりとみおに話しかけた。


「この子はね、びびりなんだよ。みおが急に水槽に近づいたから、びっくりしちゃっただけなんだ」

「……ここがいやなんじゃないの?」


 みおはパパと目を合わせずに言った。


「さあ、どうだろう。もしかしたら嫌なのかもしれない。でもこの場所が、大好きになるかもしれない。それは、みお次第なんじゃないかな」


 だから優しくしてあげてね、と付け加えて、パパは口を閉じた。

 いつのまにか、フグはトンネルの中に隠れていた。トンネルの中から、おそるおそるみおを見ている。みおは、なんだか悪いことをしたような気になった。


「やさしくって、どうしたらいいの」

「うーん……びっくりさせない、ちゃんとごはんをあげる、毎週水を換える……それから、たくさん話しかけてあげる、とか」


 パパは眉間にしわを寄せて、宙を見ながら言った。


「フグに言葉がわかるの?」

「どうだろう。わかるかもしれないし、わからないかもしれない。でも確実に言えるのは、フグはみおの話を遮ったりしないってこと」

「フグに話を聞いてもらえってこと?」


 それはなんだか、違うんじゃないかとみおは思った。


「それって、フグじゃなくて私にやさしくしてるみたい」

「それでいいんだよ。フグにも自分にも、やさしくしてあげてほしいなあって、パパは思うよ」


 パパが何を言っているのか、みおにはよくわからなかった。


***


 その日の夜、みおは初めてできた自分の水槽を、じっと見ていた。フグを驚かせないように、水槽から少し離れて座った。フグも、トンネルから、みおをじっと見ていた。

 みおは、毎晩九時に寝て、朝七時に起きる。もうすぐ寝る時間だった。みおが寝る時に、水槽の照明も消すように言われていた。フグの生活リズムを整えるためらしい。


「なんだか、裏切られた気分」


 ひざに顔をうずめながら、みおがぼんやりと呟いた。フグはぜんぜんこっちにこないし、みおがちょっと動くだけで、びっくりして水槽のフタに頭をぶつける。やたらとトンネルに隠れるし、あくあしょっぷにいた時はにこにこして見えたのに、今はみおにおびえているように見える。


「それはこっちのセリフだよ」


 どこからか声が聞こえた。みおはびくっとして顔を上げた。部屋には誰もいない。ここにはテレビもラジオもないし、パパやママの声とも違う。聞こえてきたのは、男の子みたいな声だった。


「ちょっと、ムシしないでよ」


 ちょっと高くて丸っこい、少し生意気な感じの声。みおは耳を疑った。


「なに……? だれ……?」

「ここだよ、ここ!」


 ぴちゃぴちゃと音がした。見ると、フグがキラキラした目をこっちに向けて、水面で跳ねていた。みおは目を疑った。


「ぼくはあの店を気に入ってたのに、無理やりこんなところに連れてこられて、もうウンザリだよ!」

「しゃべった!」

「うわあ!」


 みおがびっくりして声をあげると、フグもびっくりして跳びあがって、またフタに頭をぶつけた。


「なんだよ、急に大声ださないでよ」

「ご、ごめん……」


 わけがわからなかった。みおは目をぱちくりさせた。そんなことあるわけない。でも確かに、フグはこっちを向いてしゃべっている。


「フグってしゃべれるの……?」

「きみだってしゃべれるでしょ、馬鹿にしてるの?」


 フグはぷりぷり怒っているようだった。みおはまだわけがわからないままだったけれど、なんだかだんだん、可笑しくなってきた。


「へんなの。フグのくせに」

「そのフグっていうの、やめてよ!」

「なんで? あなたはフグじゃない」

「きみだって、おい人間って言われたら、いやな気持ちになるだろ?」

「……たしかに」


 みおはちょっと考えた。でも、じゃあなんて呼んだらいいんだろう。


「あなたの名前は?」

「なんで聞くの? きみがつけてくれるんじゃないの?」


 どうやら、このフグは面倒なやつらしかった。みおはまたちょっと考えた。


「じゃあ、ふぐの助」

「あんまりじゃない?」

「わたしが決めたの。あなたはふぐの助」


 ふぐの助は黙ってふくらんだ。ふくれっつらだ。フグって本当にふくらむんだ、とみおは思った。


「……じゃあきみは? きみのことは、なんて呼べばいいの?」

「みお」

「ふーん。ねえみお、ぼくお腹がすいてるんだけど」


 ふぐの助はふてぶてしくそう言った。しかし、まだごはんはあげちゃいけないと、パパから強く言われている。


「だめだよ。明日まで我慢」

「なんで! ぼく死んじゃうよ!」

「死なないよ。逆に、今ごはんをあげたら死んじゃうかもしれないって、パパが言ってたよ。なんか、今日はもう刺激を与えちゃダメなんだって」

「なにそれ、意味わかんない」

「わたしもわからないよ……あ」


 ふと時計を見ると、九時を過ぎた所だった。いけない、早く寝ないと。みおは立ち上がると、水槽の照明を消した。ふぐの助はまたびっくりして、フタに頭をぶつけた。


「なんだよ! 急に消さないでよ!」

「もう寝なきゃ」

「勝手に寝たらいいじゃん。こっちは電気つけといてよ」

「だめだよ。ちゃんと決まった時間に消さないと、生活リズムが崩れるんだよ」

「なんだよ、生活リズムって」


 ふぐの助が不満げに言った。みおはだんだん、面倒くさくなってきた。


「だいたい、電気つけといてどうするの。別にやることもないでしょ」

「考え事をするんだよ!」

「どんな?」

「……これからどうやって生きていこうとか、なんか、いろいろ!」

「うるさいなあ」


 みおは、部屋の電気も消して、ベッドに潜り込んだ。ふぐの助がまた跳びあがって、頭をぶつけた。無視だ、無視。ふぐの助はまだ何か言っていたようだけれど、みおは疲れていたので、あっという間に眠ってしまった。

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