第2話 あくあしょっぷ

 一週間後。みおとパパは、ママに内緒で熱帯魚屋に向かった。

 ママは毎週土曜日になると、趣味の集まりというやつのために、朝からいなくなる。みおも一度だけ行った事があるが、あまり良い思いはしなかったので、もう二度と行かないと心に決めている。

 ママは土曜日は車を使わない。ママが出かけてしばらく経ってから、みおとパパはこっそり車に乗り込んだ。「バレるとうるさいからな」とパパがいたずらっぽく笑う。みおも同じ気持ちだった。

 太陽がじりじりと光っていて、とても暑い日だったのだけれど、パパとのお出かけはそんなに嫌じゃなかった。

  

 熱帯魚屋は、家から二十分くらいの所にあった。二階建ての建物の、地下一階がお店だ。入口に続くレンガの階段には、ラッピングされたままの綺麗な水槽や、水草の入った大きな水槽、メダカのいる鉢などが置いてある。

 見上げると、木で出来た大きな看板に『あくあしょっぷ 水の森』と書いてあった。


「パパはいつも、ここで買い物をしてるんだ」


 自動ドアのスイッチを押しながら、パパが声を弾ませて言った。

 ガラスのドアが開くと、ぬうっとぬるい空気がみおを包み込んだ。ぽこぽこ、ちょろちょろという安心する音。それから、パパの部屋と同じ、温かい水の匂い。


「パパ、ちょっとお店の人と話してくるから。お魚を選んでてね」


 そう言うと、パパはさっさとお店の奥に行ってしまった。他にお客さんはいないようで、みおは一人になってしまった。

 お店の中には、パパの部屋の何倍も、水槽が置いてあった。同じ大きさの四角い水槽が、縦にも横にもずらりと並んでいる。みおの背丈の倍以上はあって、見上げても、上の方は全く見えない。

 魚のアパートみたいだ、とみおは思った。一部屋ごとに、色々な魚が暮らしている。見たことのない魚がいっぱいだ。チョコレートみたいな色で、ひげが生えているやつや、ナイフみたいな形で、お腹にひらひらがついているやつ。身体が透明で、骨が見えているやつなんかもいる。

 見たことのある魚もいた。青く光る夜みたいな魚や、ドレスを着ている人魚姫みたいな魚。どれもパパの部屋にいるやつだ。


(あれはネオンテトラ。あれはグッピー。あの地べたにいるやつは、なんだっけ。おと……おと……)


 正直なところ、みおはそこまで魚に興味がなかった。水槽部屋の居心地が良いというだけで、魚自体が好きという訳ではなかったのだ。

 魚は、何を考えているのかわからない。目がまんまるで、口はパクパクしていて、皆がみんな、同じ表情。どうせ飼うなら、犬や猫の方がよかった、というのがみおの正直な感想だ。だから、選んでと言われても、困ってしまう。

 みおはもうずっと、自分で何かを選ぶということがなかった。何かをやりたいと、思うこともなかった。

 ママは、いつもみおに何かをやらせたがっていた。塾やピアノ教室。水泳やそろばんなど。みおは全部、嫌だった。学校に行かず、ずっと家でじっとしているみおを、ママは心配している。それは、みおにもなんとなくわかっていた。けれどどうしても、嫌だった。塾もピアノもそろばんも、やってみることすら嫌だった。

 学校に行かない理由を、ママは何度も聞いてきたけれど、パパは聞いてこない。だから、みおはパパの方が好きだった。パパの提案になら、乗ってあげてもいいかなと思って、遠路はるばるここまでついてきてあげたのだ。


「どの子にするか、決めた?」


 パパがやってきた。すぐ後ろには、クマみたいな男の人がいる。きっと店長さんだ。ぱつぱつのTシャツを着て、汗をかいている。色が変わっていてわからなかったが、よく見ると、Tシャツには魚の絵が描いてあった。

 みおは少し後ずさりしてから、黙って首を横に振った。


「店長にも相談したんだけどね、最初はやっぱり、簡単なグッピーやプラティなんかがいいかなって思うんだけど……」


 店長さんは、何も言わずにじっとみおを見ている。みおは急に、自分はここにいてはいけないのではないかという気がしてきた。バチガイ、というやつだ。みおはこの言葉をよく知っている。学校にも塾にも行かないくせに、こんな所にいるなんて、自分はとても、バチガイなんじゃないか。


「ねえみお、この子たちはどう?」


 そんなみおの気持ちを知ってか知らずか、パパは笑顔で水槽を二つ指さした。

 グッピーとプラティ。どちらもパパの部屋にいる魚だ。小さくてカラフルな魚が、ぼーっとした顔で泳いでいる。

 そうだ、魚を選ばないと。はっとして顔を上げると、店長さんと目が合った。みおはその視線から逃げるように、ぐるりと店内を見回した。

 すると突然、笑顔の魚と目があった。


「ああ、それはフグだね」


 みおの視線を追って、店長さんが言った。


「フグって、丸くなるやつ?」

「そうそう」


 四角い水槽の中で、十センチぐらいのフグが、小さなひれを動かして、ぱたぱたと宙に浮いている。黄緑色で、黒いまだら模様。お腹は真っ白で、触るとすべすべしていそうだ。


「インドトパーズパファーっていうんだよ」


 熊みたいな店長さんの声は、みおが想像していたよりずっと優しかった。


「トパーズ?」

「宝石のことだね。パファーはフグっていう意味。インドにいる宝石みたいなフグっていうことだよ」


 水槽の中のフグは、宝石みたいな目をキラキラさせながら、みおを見ていた。その口元は、他の魚と違って、にっこりと笑っている。


「この子がいい」


 みおは水槽の中のフグの目を真っすぐ見ながら言った。するとパパはえっと驚いて、うーんとうなった。


「うーん、フグはちょっと難しいからなぁ」

「むずかしい?」

「うん。パパも何度も落としちゃって……」


 そう言うと、パパは考え込んでしまった。落とすって何だろう。水槽からフグが落ちるということだろうか。みおも考え込んでしまった。

 するとそんな二人を見て、店長さんが笑いながら言った。


「まあまあ、何事も経験ですよ。気にいった子を連れて帰るのが一番じゃないですか」


 パパはまたうーんとうなって、みおとフグの顔を交互に見た。パパは珍しく、難しい顔をしている。


「じゃあ、がんばってみる?」

「うん」

「じゃあ、今日は予約ということでいいかな?」


 店長さんが言った。パパもうなずいた。みおは驚いてしまった。


「えっ、今日、つれて帰れないの?」

「まずは、先におうちを作ってあげなきゃいけないんだよ」

「みおだって、何もないおうちにいきなり住めって言われたら、困るだろう?」


 店長さんとパパが交互に言う。いまいちよくわからなかったけれど、二人が言うんだから、そうなんだろう。みおは黙ってうなずいた。


 それから、たくさん買い物をした。まずは、水槽。縦も横も三十センチの、正方形の水槽を買った。小さいけれど、水は沢山入るからおすすめだと店長さんが言っていた。それから、水槽の底に敷く、サンゴ砂。水に空気を送るためのエアポンプ。水をきれいにするためのろかフィルター。水温計。ヒーター。照明。水に入れるためのお薬などなど。

 みおは全部自分で持ちたかったが、到底持てる量じゃなかった。

 

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