2話

邪獣じゃじゅう


 国際的には『ダークビースト』と呼称されているその人類脅威は、人を喰らう。

 その姿は、誰の眼にも視えるわけではない。

 視えるのは、強弱の個人差はあれど対抗する力に目覚めるか、不運にも邪獣に触れてしまうか、そのどちらかを経た者だけ。


 今、邪獣を認識することができているのは、圧倒的に前者たちだ。

 なぜならば、後者の場合、それが起きるのは大抵、邪獣によって喰われるときだからである。つまり、視えるようにはなっても、すでに生きてはいないのだ。


 後者の原因で視えるようになった者で、今も存命な者のうちその代表ともいえる存在は、各国の首脳や大臣級、国連のトップ層である。

 それらの立場に就いた人物たちは、就任したその日に、各国に、国連に、遥か昔から設置されている『対邪組織』によって、捕縛されている邪獣と接触させられるのだ。

 これは、対邪組織による、世界平和のための、人類存続のための、連帯の儀式。


 対邪の世界では、【対邪の条約】と呼ばれている。


 政治家が、権力者が、領土だの経済だの覇権だのを争って破滅的な愚行を犯せば、どの国にも勝者はいなくなる。

 それは間違いないのだ。

 なぜなら、どの国にも邪な存在と命がけで戦っている者たちがいて、もしも人間同士の愚行に巻き込まれて対邪の力を持つ者たちが被害を受ければ、その国は瞬く間に邪に喰われてしまうから。

 そしてそうなれば、その国を喰い尽くした邪は、さらに力を強め、ほかの国を襲いにかかるに違いない。

 その結果、待つのは、人類の終焉なのだ。

 どのような大国であれ、どのような強固な同盟・共同体であれ、世界中が各自、自分たちの領域を自分たちで護っている今の状況が崩壊すれば、あっという間にすべての均衡は壊れるはずだから。


 そう、あらゆる国の、あらゆる連合体の、あらゆる機関の頂点やそれに近しい立場――権力があるとされる地位に就いた者たちは、必ず、その日に『邪なモノ』の存在を知る。

 これを拒む者がいれば、どのような人物であれ、その地位に就任することはできない。たとえ国際的に見たときに強権的とされる国であっても、独裁国家と批判される国であっても、その国で強固な地位を築いている者であっても、この【対邪の条約】には逆らえない。


 人類の敵となるのなら、それは、邪獣と何も変わらないのだ。

 だったら、同じように、消すだけ。

 人類未来のため、存在しなかったことになる……それだけなのだ。


「うひぃ~、きっもぉ~い」


 隣に立つ日輪が、嫌悪感丸出しといった口調で告げた。

 口にはしていなかっただけで、流果も思いは同じだ。

 周囲を、警戒しながらも、観察する。


 地面は、赤黒い。表面は生肉のように、てらてらと、ぬらぬらとしている。ただし、柔らかくはない。水沓は自重で沈んでいる感じはない。その場で足踏みしてみても、同じ。伝わってくる感触としては、日常的に歩いているアスファルトやコンクリと変わらない。


「なんかぁ、生臭くないですかぁ?」


 すんすん、と鼻を鳴らした日輪が、すぐさま「うえ~」と表情を歪める。

 流果も倣ってみるが――臭いはしなかった。鼻でも詰まっているのだろうか。

 この装束を装備しているときは、あらゆる身体機能が向上するのだけれど……。


「私はしないけれど、本当にする?」

「んん~」すんすんすんすんした日輪が、腕を組んで首を傾げた。「気のせい? かもしれないですぅ。先パイが感知できなくてウチができるなんてぇ、ないでしょうし」


「その考え方はやめたほうがいいよ。あなただって立派な巫女なのだし、私もあなたのことは、能力的にも信頼しているから。私にできず、あなたにできることは、必ずあるよ」

「ルカさぁ~ん、好きぃ~」


 日輪が、両手を豊満な胸の前で組んで、腰を左右にくねらせる。甘え声も、その仕草も、本当に様になっているというか、本心はわからなくても悪い気持ちにならないのだから、困ったものだ。これも特技として、凄いと言っていいのだろう。


「だから、自信を持って。何か感じたことは、伝えてね」

「はいっ、了解でありますっ」


 びしっと、敬礼する日輪。

 まったく、いちいちリアクションが大きいというか、反応が愛らしい子だ。


 ――ㇽゥゥ


「「ッ」」二人は揃って、表情を厳しくして、同じ方向へ睨みを利かせた。

 聞こえたのは、犬か狼の唸り声に近しいもの。

 まだ姿は見えない。唸り声も小さかったし、まだ距離が遠いのか。とはいえ、向こうがその気ならば、接敵まで猶予はないだろう。


 ……猶予? バカな。それは待つ者の言葉。早く殺してやりたいのは、こちらのほうだ。


 ぶわり、と流果の中に殺意が生まれる。

 憎しみ、怒りなど、殺意とは基本的に幾つかの感情の段階を踏んだうえで生まれる相当に強烈な感情のはずだ。しかし今、カノジョの中で、そうしたステップは踏まれなかった。


 殺しの誓いを立てているからだ。

 対象に憎しみを抱く時代も。

 対象に怒りを燃やす時代も。

 とうに過ぎた。

 憎悪も憤怒も当たり前にありすぎて、もはや、なくなった。心の一部となっている。

 だから、段階を踏む必要なんてなかった。

 ヤツらは――邪獣は、必ず、殺す。


「光術、一の法――雪刀ゆきがたな


 唱え終えた刹那、流果の右手に純白の光が集まっていく。

 光の粒が弾けたとき、その手には薄青の刃を持つ純白の刀があった。


 そのとき、視線の先に、ぬぅらりとソレは現れた。

 視界の中に立つ、多数の赤黒い柱――どれもが歪な形状をしていて、どれもが生肉や臓物で埋め尽くされたような表面をしている。極めて醜悪だ――の一本、その角から顔を出したソレは、パッと見、犬か狼の類に見えた。


 全容が露わになる。


 赤黒い頭部は、犬や狼の類だ。いや、だ、と言い切るのは違う。あくまでも、近しいという表現をすべきだろう。確かにその形状は犬や狼のようだが、目は巨大なものが一つあってその一つの内に複数の小さな目がギッシリと詰まっている。犬でも狼でもない。


 首から下、赤黒い胴体は、犬や狼のようであるけれど、やけに細長い。顔の大きさと比べたら、明らかに釣り合っていないほどに、細い。か細い。そんな、鉛筆のような体躯――それほど細くはないが、顔の大きさと比較すれば、そう言いたくなるほどに細いのだ――短い脚が十本、生えている。あまりに短足で、胴体が地面に擦りそうなほどだから、蟲の節足のように思えるけれど、しかし、あれは違う。あの造形は……亀のような脚だ。


 明らかに、流果の知るこの世の動物図鑑には含まれていない、異形の存在。

 この世の理から外れた、人類の敵。

 邪獣っ!


 目が、合った。


「ヴゥゥゥゥゥ――ダブゥ!」


 邪獣の十本の脚が、赤黒い地面を蹴った。

 猛烈な勢いで、真っ直ぐ向かってくる。

 ぐぱぁん、と赤黒い顔が横に裂ける。大口を開ける、なんて表現には荷が重いほどの大口だ。口裂け女もびっくり仰天。何が驚きかって、口の中にさらに口があって、さらにまた口があって、口があることだ。口の連続、連続、連続――そしてその中央から、何か伸び出た。


 勢いよく宙を伸びるソレは、赤黒い手だった。

 十本の赤黒い指の生えた、赤黒く細長い、にょろにょろとした手。

 向かう先は、目の合った、流果だ。


 二、一と内心でカウントを取った流果は、すかさず最小限の横移動――剣道で言う、開き足という足さばきに近しい動きだった――で、常人であれば空気が震えたこともわからずに掴まれていただろう速度で伸びてきていた赤黒い手を躱し、二度、上下に刀を振るう。


 音もなく、静かに、赤黒い手は宙で二度、斬れた。

 邪獣は「ぎゃん!」とまるで犬が散歩中に飼い主の不注意で足を踏まれてしまったときのような声を上げ、ずざざざざぁ~と突撃にブレーキをかけた。赤黒い地面を、赤黒い十本脚が擦りながら滑ってくる。


 その反応は、恐れか。

 まさか斬られるとは思っていなくて、コイツはヤバいから逃げよう!という防衛本能でも働いた結果なのだろうか。

 だとすれば、なんてお粗末。

 なんて、無様で、不快なのか。


「……消えろ」


 流果は、淡々と殺意を告げながら、敵と向き合うように体勢を変え、間髪入れずに左足で踏み切りながら、開きっぱなしの大口の中央目掛けて純白の刀を振るう。

 薄青の刃は、赤黒い肉へ美しく入り、主が加える推進力そのままに、裂いた。

 ひと息に振り抜かれた刀。

 赤黒い体躯は、滑らかに、静かに、上下に分断された。

 どちゃり――赤黒い体躯がその場に崩れる。ぴくり、とも動かない。


「お見事ですぅ」

「ありがとう。じゃあ、調査・攻略を始めましょうか」

「はぁ~い」


 流果と日輪は、赤黒く、肉や臓物をぶちまけ塗り固めたような空間を、歩んでいく。

邪界じゃかい】という、国際的には『ダークダンジョン』と呼ばれる、邪獣を産む忌々しい領域を、この世から消すために。

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