『月の円環 ~かぐや姫を愛した少年~』

Naga

『月の円環 ~かぐや姫を愛した少年~』

 月の都には、音がなかった。


 風も、雨も、鳥の声も。生きとし生けるものの息吹すらも。


 都には、白い建物が整然と並んでいた。均一な道、同じ形の住居。そこに住む者たちは、誰とも干渉せず、ただ静かに存在していた。


 少年は毎日、都の端を抜け、荒涼とした平原を歩いた。地球が見える崖の縁まで。


 そこにはいつも、一人の姫がいた。


 かぐや姫。


 彼女は地球を見つめていた。青と白の美しい星を。


 その横顔は、地球の青い光を浴びて透き通るように白く、長い黒髪が風もないのに揺れているように見えた。目は深い闇のように黒く、その奥には何か言葉にならないものが宿っていた。


 少年は、彼女を見るたび、言葉を失った。


 そして時折、その完璧な顔に、一筋の光が伝った。


 なぜ泣くのだろう。


 月の者は泣かない。老いることも、悲しむこともない。永遠に変わらぬ姿で、永遠に変わらぬ日々を送る。


 けれど、かぐや姫は泣いていた。


 記憶は消されているはずだった。月に戻る時、天人たちが彼女に着せた着物が、地球でのすべての思い出を吸い取ったはずだった。


 それなのに。


「また、泣いているのですね」


 少年の声に、かぐや姫は振り向いた。その瞳には、月の住人が持たないはずのものがあった。


「わからないの」


 かぐや姫の声は、囁きのように小さかった。


「どうして涙が出るのか。どうしてあの星を見ると、胸が苦しくなるのか」


 少年は何も言えなかった。ただ、自分の胸の奥が熱くなるのを感じていた。


 これは何だろう。この感覚は。


 彼女の悲しみが、自分の悲しみになる。彼女の涙が、自分の涙になる。


 それは、月では許されないことだった。


 月の世界に、干渉はあってはならない。誰かを想うことも、誰かのために心を痛めることも。誰もが個で完結し、誰とも関わらず、心の平穏と永遠の調和を保つべきだった。


 でも、少年の胸は静かではなかった。


 かぐや姫を見るたび、鼓動が速くなった。彼女の声を聴くたび、時が止まるような気がした。静寂の中で目を閉じても、彼女の横顔が浮かび、眠れなかった。


「あなたは」


 かぐや姫が少年を見た。


 その唇が震えた。


「あなたも、変わってしまったのね」


「変わった?」


 少年は、かぐや姫の瞳を見つめた。


 そうだ。自分も変わってしまった。


 彼女を見た時から——。


 かぐや姫は、わずかに視線を伏せた。


「月の者は、誰かを見つめたりしない。誰かのそばに、こんなふうに立ったりしない」


 答えられなかった。


 少年自身も、月の住人らしからぬ姿をしていた。


 中性的な顔立ちは、男とも女ともつかぬ美しさを湛えていた。切れ長の目、繊細な鼻筋、柔らかな唇。肩まで伸びた銀色の髪が、地球の光を反射して輝いていた。


 それらは一見、月の住人のそれととてもよく似ていたが、纏っているオーラはまるで違った。その瞳には時折、月の者が決して見せない光が宿っていた。


「私も」


 かぐや姫は再び地球を見た。


「変わってしまった。あの星から戻ってから、ずっと」


 言葉にならない空白が、そこにあった。


「何かが違う。何かが、足りない……」


 二人の間に、沈黙が降りた。


 遠く、地球が青く輝いていた。





 月の中心には、白い塔が立っていた。そこに、月を統べる者たちがいた。


 彼らは月に秩序をもたらし、永遠の時間を創り出していた。


 塔の周りには、白い住居が放射状に整然と立ち並び、月の人々が住んでいた。


 彼らは感情を持たないわけではなかった。ただ、極めて薄かった。老いることも、悲しむこともない世界で、激しい感情は生まれようがなかった。


 けれど、その調和にいつしか、乱れが生じていた。


 少年は知っていた。


 稀に、激しい感情を宿した者が生まれることを。


 彼らは地球へ送られる。記憶を消されて戻される。


 それで終わりのはずだった。


 ところが、記憶を消しても、感情は消えなかった。戻された者たちは、地球を見て涙を流した。


 その涙を見た者が、また感情を持つ。


 円環は、止まらなかった。


 かぐや姫も、その一人だった。


 少年は、目を瞑った。


 彼女が地球を見て泣いている姿が、瞼の裏に蘇った。


 少年もまた、感情を持つ者の一人だった。ただ、それは心の奥深くに沈んでいた。


 彼女の涙が、少年の中で眠っていた何かを呼び覚ました。


 彼女の悲しみが、自分の悲しみになった。


 助けたい。


 彼女の涙を止めたい。彼女を笑顔にしたい。


 たとえそれが、月の調和を乱すことだとしても。





 召喚は、ある日、突然だった。


 白い塔の最上階。統治者の一人が、少年を前に立たせた。


「お前を、地球へ送る」


 声に感情はなかった。


 少年は黙って目を伏せた。予想していたことだった。


「お前は、かの姫に恋をしている」


 統治者の瞳には、何の色もなかった。


「かの姫のそばに立つ。姫を見つめる。姫の涙に心を痛める。それは、干渉だ。月の調和を乱す」


 少年は何も言わなかった。否定しても無駄だった。月の統治者たちは、すべてを見透かしていた。


「地球での生を受けよ」


 統治者は続けた。


「人間として生き、有限の時を刻め。そして、感情の重さを知れ」


 統治者は、少年を見据えた。


 その瞳には、何の迷いもなかった。


「自らの過ちを悟ったとき、記憶を消して戻してやろう」


 それは、罰だった。


 罪を犯した者は、月の着物を剥ぎ取られる。そして裸のまま、地球へ落とされる。それが、月の掟だった。


 だが、少年の心は、奇妙な高揚に包まれていた。


 地球へ行ける。かぐや姫が愛した場所へ。彼女が涙を流すほど、心を奪われた世界へ。


 そして——。


 もし、かぐや姫を連れて行くことができたなら。


「準備をせよ。三日後に、地球への門を開く」


 統治者の言葉に、少年は深く頭を下げた。




 塔を出る時、少年の脳裏に、一つの考えが浮かんだ。


 月の着物。


 あれには、秘密があるはずだ。





 準備の時間は、少年に考える余裕を与えた。


 地球へ送られる者は、月の着物を脱がされる。裸のまま、地球の大気に包まれ、人間の赤子として生まれ変わる。


 少年は、自分の袖を見つめた。白く、柔らかく、光を帯びた布。月の住人は皆、これを着ていた。生まれた時から、ずっと。


 そして、かぐや姫も。


 彼女が地球から戻った時、天人たちが彼女に着せたのも、この着物だった。


 その瞬間、彼女の記憶は消えた。地球での喜びも、悲しみも、愛した人々の顔も。すべてが、着物の中に吸い込まれた。




 少年は、月の図書館に足を運んだ。古い記録が、無数に並んでいる場所。


『月の着物は、時を保つ。着る者を、月の時に留める。脱げば、その者は時の流れに身を委ねる』


『着物の内側は、異界の記憶を吸収する。月の外で刻まれた記憶を、すべて』


 少年は、その文字を繰り返し読んだ。


 内側は、異界の記憶を吸収する。


 内側は——。


 その時、少年はハッとした。


 内側が異界の記憶を吸収するなら。


 外側は?


 もしかしたら、外側は記憶を放出するのではないか。


 でも、月では誰も触れ合わない。誰も、他人の着物に手を伸ばさない。


 そして——。


 少年の指が、わずかに震えた。


 誰も、自分の着物を裏返して着ようとは思わない。


 なぜなら、月では着物を脱ぐことすら、稀だったから。


 ましてや、裏返して着るなど。


 でも、もし。


 もし、かぐや姫が自分で裏返して着たとしたら。


 胸が、高鳴った。


 これだ。


 これなら、かぐや姫の記憶が戻るかもしれない。





 出立の前夜。少年は、崖の縁へ向かった。


 かぐや姫は、そこにいた。いつものように、地球を見つめていた。


 白い着物が、地球の光を受けて輝いていた。黒髪が、彼女の背を流れ落ちていた。


「明日、地球へ行きます」


 少年の声に、かぐや姫は振り向いた。


「あなたも」


 彼女の声が震えた。


「あなたも、罰を受けるの」


「ええ」


 音のない世界で、二人だけが呼吸をしていた。


「地球は」


 かぐや姫は再び、青い星を見つめた。


「美しいところでした。きっと」


「覚えているのですか」


「いいえ」


 彼女は首を振った。


「ただ、そんな気がするだけ」


 地球の青い光が、月の灰色の大地を照らしていた。


「一つ」


 少年は、自分の声が震えているのを感じた。


「試してもいいですか」


「何を」


 静けさが、二人を包んだ。


「あなたの着物を」


 少年は、かぐや姫の目を見つめた。


「裏返してみたいのです」


 かぐや姫の目が、見開かれた。


「どうして」


 少年の胸が、激しく打っていた。


 もしかしたら——。


「記憶が、戻るかもしれない」


 かぐや姫は、しばらく少年を見つめていた。月明かりの中で、彼女の顔は透き通るように白かった。その美しさに、少年は息を呑んだ。


「試してみましょう」





 着物を脱ぐのは、月では誰もしないことだった。


 でも、二人きりの崖の縁で、誰も見てはいなかった。ただ、地球だけが、遥か彼方から二人を見下ろしていた。


 かぐや姫は帯に手をかけた。ゆっくりと、丁寧に。


 着物が肩から滑り落ちた。


 その下には、光でできたような肌があった。月の住人の体は、人間とは違った。もっと儚く、もっと美しく、そしてもっと冷たかった。


 少年は着物を受け取った。手の中で、布が微かに震えているように感じた。


 いや、震えているのは自分の手だ。


 丁寧に、着物を裏返した。


 内側が、外側になった。


 そして、かぐや姫の肩に、そっと掛けた。


 瞬間——。


 かぐや姫の体が、内側から光を放つように輝いた。


 目を見開き、口を開き、何かを言おうとして、言葉にならなかった。


 涙が溢れた。


 地球の光を反射して、ダイヤモンドのように煌めく涙が、頬を伝って落ちた。


「思い、出した」


 かぐや姫の声は、震えていた。


「竹林……」


おきな様、おうな様……」


「空、雲……。風、雨……。花……鳥……」


 彼女の声が、途切れ途切れになった。


「すべて……。すべて……」


 彼女は少年を見た。その瞳には、月が、地球が、そして無数の記憶が映っていた。


「ありがとう」


 かぐや姫は、涙を浮かべたまま微笑んだ。


 少年は、彼女の手を取った。冷たかった。でも、そこには生きる力があった。


「一緒に、行きましょう」


「地球へ?」


「はい。私は明日、地球へ送られる」


 少年は、かぐや姫の目を見つめた。


「あなたも、一緒に」


「でも」


「このままここにいても、あなたは泣き続ける。記憶があっても、なくても」


 少年の手が、かぐや姫の手を強く握った。


「ならば……。記憶を持ったまま、地球で生きましょう。もう一度」


 かぐや姫は、長い間、少年を見つめていた。


 地球の青い光が、二人を照らしていた。海の青、雲の白、その狭間に見える緑の大地。あの星には、すべてがあった。変化が、生命が、そして——終わりが。


 でも、だからこそ。


 彼女は頷いた。





 自分の部屋に戻った少年は、独り考えていた。


 白い壁が四方を囲み、白い床が冷たく広がっていた。天井からは、均一な光が降り注ぎ、影もなく、音もない空間。


 少年は、壁に背を預けて座っていた。


 膝を立て、両腕で抱えていた。


 明日、地球へ落ちる。


 赤子に戻る。何もかも忘れる。


 拳を、ぎゅっと握った。爪が手のひらに食い込んだ。痛みはなかった。月の体は、痛みを知らなかった。


 でも、胸は痛かった。


 忘れたくない。


 彼女を。


 この想いを。


 けれど——これで彼女は、地球へ帰れる。


 翁様、媼様に、また会える。


 それだけは、確かだった。


 少年が罰を受けるからこそ、それができる。


 ならば、これでいい。


 そう思おうとした。


 でも、胸の奥が冷えていく。


 赤子になれば、彼女は知らない人になる。


 抱かれても、見上げても、その時にはもう、誰だかわからない。


 怖い。


 でも——。


 少年は、ゆっくりと顔を上げた。


 壁に、小さな窓があった。そこから、淡い光が差し込んでいた。


 地球の光だった。


 青く、柔らかく、部屋の白さを染めていた。


 あの星へ、彼女と行く。


 彼女のことを、忘れることになっても。


 少年の唇が、わずかに動いた。


 この感情が本物なら——あるいは……。


 地球の光が、静かに床を照らしていた。





 地球への門は、月の端に開いた。


 統治者たちは、少年一人が降りていくものと思っていた。


 門が開く。


 少年が、裸で立っていた。


 その背後に——。


 白い影。


 かぐや姫だった。


「待て」


 統治者の声が響いた。


 かぐや姫は、一瞬躊躇した。


 この人を、赤子に戻してしまう。


 少年は、咄嗟にかぐや姫の手を取った。


 気がつくと、二人はもう、門の中へ飛び込んでいた。


 落ちていく。


 青い星へ。


 月が、遠ざかっていく。銀色の平原が小さくなり、やがて夜空に浮かぶ一つの円になった。


 一瞬のようにも、永遠のようにも感じた。


 地球の大気が、二人の体を包んだ。


 温かかった。





 地球は、温かかった。


 風があった。匂いがあった。音があった。


 少年の体は、みるみる小さくなっていった。月の時を保つ着物を脱いだ者は、地球の時に巻き戻される。大人の姿が、子供に、幼児に、そして——。


 赤子の泣き声が、竹林に響いた。


 かぐや姫は、小さな命を抱きしめた。彼女の着物は、月の力を保っていた。だから、彼女の姿は変わらなかった。


「ごめんなさい」


 彼女は囁いた。


「あなたは、私のために」


 赤子は泣きやんだ。大きな瞳で、かぐや姫を見上げた。


 何も覚えていない瞳。


 でも、不思議と、その瞳は笑っているように見えた。


 かぐや姫は、赤子を抱いて歩き始めた。


 覚えている道を。


 懐かしい場所へ。


 竹林を抜けると、小さな家が見えた。


 炊事の煙が上がっていない。庭の花が枯れている。


 胸騒ぎがした。





 静けさが、家を包んでいた。


 かぐや姫は、戸に手をかけた。


「翁様」


 声が、震えた。


「媼様」


 戸を開けると、薄暗い部屋の奥に、二つの小さな影があった。


 翁と媼。


 二人は、布団の上で横たわっていた。息をしているのがやっとの、弱々しい姿で。


 枯れ木のような手。落ち窪んだ頬。


 かぐや姫の足が、震えた。


「翁様」


 かぐや姫の声に、翁の目が、ゆっくりと開いた。


 最初、彼は夢を見ているのだと思った。


「かぐや、姫」


「ただいま戻りました」


 涙が、翁の目から溢れた。枯れ木のような手が、震えながら伸びた。


「帰ってきて、くれたのか」


「はい」


 媼も目を開けた。かぐや姫を見て、声を上げて泣いた。


「夢では、ないのだね」


「夢では、ありません」


 かぐや姫は、赤子を二人に見せた。


「この子を」


 彼女は、目を上げた。


「一緒に育てていただけませんか」


 翁と媼は、赤子を見つめた。


 小さな、小さな命。


 不思議と、力が湧いてくるのを感じた。かぐや姫が帰ってきた。その喜びが、渇いた井戸に水が満ちるように、二人の体に生気を与えた。


「もちろんだとも」


 翁は言った。声に、張りが戻っていた。


 媼も頷いた。頬に、血の気が差していた。


 かぐや姫は、二人に赤子を渡した。


 翁が、そっと抱き上げた。温かかった。命の温もりだった。


 赤子が、小さく笑った。


 その笑顔を見た瞬間、翁も媼も、また涙を流した。


 その日から、小さな家に、再び笑い声が戻った。





 少年は、早く育った。


 かぐや姫がそうであったように、月から来た者は、地球の時を駆け抜けた。


 三ヶ月で、歩いた。庭を這い回り、竹を掴もうとして倒れ、でもすぐに立ち上がった。


 半年で、言葉を話した。「かぐや」「じい」「ばあ」。拙い言葉が、家の中に響いた。


 一年で、竹を運ぶ手伝いをした。小さな手で、竹を掴んでは籠に詰めていた。


 翁は、少年に様々なことを教えた。竹の見分け方、筍の採り方、刃物の使い方。


 媼は、優しく少年を見守った。食事を作り、服を繕い、夜は子守唄を歌った。


 そして、かぐや姫は——。


 少年のそばにいた。いつも、そばにいた。


 竹を割る時、筍を採る時、庭で遊ぶ時。


 静かに微笑みながら、少年を見守っていた。


 少年は、かぐや姫を見るたび、胸が温かくなるのを感じていた。


 なぜだろう。


 この人の声を聞くと、安心する。


 この人の笑顔を見ると、嬉しくなる。


 この人と、前に会ったことがあるような気がする。


 いや、それ以上の何か——。


 でも、記憶はなかった。


 少年は、この家で生まれ、この家で育ったことしか知らなかった。





 桜が散る頃、少年の背は翁の肩を越えた。


 顔立ちは日を追うごとに整い、中性的な美しさが際立っていった。白い肌、長い睫毛、そして銀色の髪。近所の人々は、少年を見るたびに「美しい子だ」と囁いた。


「この子にも、そろそろちゃんとした名をつけてやらねばな」


 翁が、夕餉ゆうげの席で言った。


「名前?」


 少年が、箸を止めた。


「お前には、まだ正式な名がなかったわね」


 媼が優しく笑った。


「月の夜に、かぐや姫と共に来た子。月の御影のような子」


「みかげ、というのはどうだろう」


 翁が言った。


「かぐや姫と、対になる名だ。正式には、みかげ彦と」


 少年——いや、みかげは、その名を口の中で転がした。


「みかげ」


「気に入ったかい?」


 みかげは頷いた。


 かぐや姫も、微笑んでいた。


「良い名ね」


 彼女は囁いた。


「とても、良い名」





 夏が深まる頃、みかげの声は低くなった。


 竹林に蝉の声が響き、日の光が竹の葉を照らしていた。


「かぐや」


 ある日、みかげは縁側で言った。


「なあに」


「あなたは、月のことを覚えているのですか」


 かぐや姫は、空を見上げた。


「ええ。帰ってからのことは」


「どんな、ところでしたか」


「静かな、ところよ」


 彼女は、小さく呟いた。


「音もなく、風もなく、何も変わらない」


 みかげは、蝉の声に耳を傾けた。


「ここは、違いますね」


「ええ」


 かぐやは微笑んだ。


「ここには、すべてがあるわ」


 二人は、庭を眺めた。


 夏の日差しが、竹林を照らしていた。


 蝉の声が、途切れることなく続いていた。





 ある夜、二人は縁側に座っていた。


 虫の声が、あちこちから聞こえた。鈴虫、松虫、様々な音色が重なり合っていた。風が、竹林を揺らした。葉擦れの音が、さらさらと響いた。


「月が、きれいですね」


 みかげは言った。


 かぐやは、空を見上げた。丸い月が、夜空に浮かんでいた。雲一つない、澄んだ空。月の光が、二人を照らしていた。


「ええ」


 彼女の声が、小さくなった。


「でも、もう泣かないわ」


「泣いていたのですか」


「昔はね」


 かぐやは、微かに笑った。


「月を見ると、涙が出たの」


「でも、今は違う。今は、ここにいられることが嬉しい」


 みかげは、かぐやの横顔を見つめた。


 月明かりに照らされた、美しい横顔。長い睫毛が、影を作っていた。


 胸が、苦しかった。


 いつからだろう。


 この人を見ると、息ができなくなる。


 この人と、ずっと一緒にいたい。


「私は」


 みかげの声が、震えた。


「あなたを、愛しています」


 かぐやは、ゆっくりと振り向いた。


 目が、合った。


 みかげの整った顔が、月明かりに照らされていた。その中性的な美しさは、いつの間にか一人の青年のものとなっていた。銀色の髪が、風に揺れていた。


「私も」


 彼女は囁いた。


「ずっと前から。ずっと、ずっと前から」


 みかげの手が、かぐやの手に触れた。


 冷たかった。でも、温かかった。月の者の冷たさと、人間の温もりが、混ざり合っていた。


「一緒に、いてください」


「ええ」


 かぐやは頷いた。


「ずっと、一緒に」


 二人の手が、固く結ばれた。


 虫の声が、祝福するように響いていた。





 翁と媼は、少し離れた部屋から、二人を見守っていた。


 障子の隙間から、月明かりに照らされ寄り添う二人の姿が見えた。


「良かったのう」


 翁は、目を細めた。皺だらけの顔が、笑みで更に深く刻まれた。


「本当に、良かった」


 媼も、涙を拭いた。


「これ以上の喜びはありませぬ」


 二人は、縁側で手を繋ぐみかげとかぐやを見つめた。


 月が、静かに二人を照らしていた。


「さあ、寝ましょう」


 媼が翁の肩を叩いた。


「二人の邪魔をしてはいけませぬ」


 翁は笑って頷いた。


 静かに奥の寝所へ消えていく二人の背中には、温かさが滲んでいた。





 梅の花が咲く頃、二人は結ばれた。


 庭の梅が、白い花を咲かせていた。まだ寒い季節だったが、梅の香りが春の訪れを告げていた。


 ささやかな祝いの席が設けられた。


 翁と媼、そしてみかげとかぐや。


 四人だけの、静かな宴だった。


 囲炉裏に火が焚かれ、部屋には温かさが満ちた。灯りが、四人の顔を優しく照らしていた。


「おめでとう」


 翁が、杯を上げた。酒が、月明かりのように透明に輝いていた。


「末永く、幸せに」


「ありがとうございます」


 みかげとかぐやは、深く頭を下げた。


 媼が、料理を並べた。筍の煮物、山菜の和え物、魚の塩焼き。湯気が立ち上り、良い匂いが部屋に広がった。


「さあ、食べましょう」


 四人は、囲炉裏を囲んで食事をした。


 笑い声が、部屋に響いた。翁の朗らかな笑い声。媼の優しい笑い声。みかげの穏やかな笑い声。かぐやの、鈴を転がすような笑い声。


やがて、笑い声が静まった。


かぐやは、みかげの横顔を見つめた。


火の光に照らされた、美しい横顔。


この人が、すべてをくれた。


記憶を。翁様と媼様との日々を。この温かい場所を。


この人は、何も覚えていない。


月での日々も、着物を裏返してくれたことも、一緒に地球へ落ちたことも。


でも、私は忘れない。


決して。





 桜が散り、新緑が芽吹き、やがて筍の季節が来た。


 竹林は、若葉の緑で溢れていた。朝露が葉を濡らし、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。


「筍を採りに行きましょう」


 ある朝、みかげが言った。


「いいわね」


 かぐやが頷いた。


 二人は、籠を持って支度をした。


「気をつけて行っておいで」


 翁が、縁側から声をかけた。


「朝ごはんまでには帰るのよ」


 媼が笑った。


「はい」


 二人は、手を繋いで竹林へ入っていった。


 まだ暗い早朝。空には、有明の月が残っていた。


 竹林は、静かだった。


 葉擦れの音だけが、風に乗って聞こえた。鳥が、どこかで鳴いた。


「あった」


 みかげが、地面を指さした。


 土を押し上げて、小さな筍が顔を出していた。瑞々しい緑色をしていた。


 二人は、しゃがみ込んで、丁寧に土を掘った。冷たい土の感触。朝露の湿り気。


 筍が、すっぽりと抜けた。


「立派ね」


 かぐやが笑った。


「今夜は、筍ご飯にしましょう」


 みかげも笑った。


 二人は、また歩き始めた。


 竹林を抜ける風が、二人の髪を揺らした。かぐやの黒髪が、みかげの銀髪が、風に舞った。


 東の空が、少しずつ薄紅色に染まり始めていた。


 みかげが、ふと立ち止まり、空を見上げた。


 有明の月が、薄く、白く、消えかけていた。


 胸の奥に、何かが引っかかった。


 懐かしいような、切ないような。


 でも、それが何なのか、わからない。


「月か」


 みかげが囁いた。


「誰か見ているのかな」


 かぐやも、月を見上げた。


 あの星。かつて自分がいた場所。記憶を失い、涙を流し続けた場所。


「そうね」


 彼女は微笑んだ。


「そして、きっと羨ましがっているわ」


「羨ましい?」


「ええ……。だって、私たちは」


 かぐやは、みかげの手を握った。


「こんなにも、幸せだもの」


 みかげは、かぐやの手を握り返した。


「ええ、こんなにも」


 目を細めて頷いた。


 二人は、再び歩き始めた。


 竹林の奥へ。


 筍を探しながら。


 遠くで、鳥が鳴いた。朝を告げる、澄んだ声だった。


 新しい一日が、始まろうとしていた。


 月は、静かに二人を見下ろしていた。


 そして、ゆっくりと薄れていった。


 音もなく。


 朝日に溶けるように。


 二人の笑い声だけが、竹林に響いていた。







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