『月の円環 ~かぐや姫を愛した少年~』
Naga
『月の円環 ~かぐや姫を愛した少年~』
月の都には、音がなかった。
風も、雨も、鳥の声も。生きとし生けるものの息吹すらも。
都には、白い建物が整然と並んでいた。均一な道、同じ形の住居。そこに住む者たちは、誰とも干渉せず、ただ静かに存在していた。
少年は毎日、都の端を抜け、荒涼とした平原を歩いた。地球が見える崖の縁まで。
そこにはいつも、一人の姫がいた。
かぐや姫。
彼女は地球を見つめていた。青と白の美しい星を。
その横顔は、地球の青い光を浴びて透き通るように白く、長い黒髪が風もないのに揺れているように見えた。目は深い闇のように黒く、その奥には何か言葉にならないものが宿っていた。
少年は、彼女を見るたび、言葉を失った。
そして時折、その完璧な顔に、一筋の光が伝った。
なぜ泣くのだろう。
月の者は泣かない。老いることも、悲しむこともない。永遠に変わらぬ姿で、永遠に変わらぬ日々を送る。
けれど、かぐや姫は泣いていた。
記憶は消されているはずだった。月に戻る時、天人たちが彼女に着せた着物が、地球でのすべての思い出を吸い取ったはずだった。
それなのに。
「また、泣いているのですね」
少年の声に、かぐや姫は振り向いた。その瞳には、月の住人が持たないはずのものがあった。
「わからないの」
かぐや姫の声は、囁きのように小さかった。
「どうして涙が出るのか。どうしてあの星を見ると、胸が苦しくなるのか」
少年は何も言えなかった。ただ、自分の胸の奥が熱くなるのを感じていた。
これは何だろう。この感覚は。
彼女の悲しみが、自分の悲しみになる。彼女の涙が、自分の涙になる。
それは、月では許されないことだった。
月の世界に、干渉はあってはならない。誰かを想うことも、誰かのために心を痛めることも。誰もが個で完結し、誰とも関わらず、心の平穏と永遠の調和を保つべきだった。
でも、少年の胸は静かではなかった。
かぐや姫を見るたび、鼓動が速くなった。彼女の声を聴くたび、時が止まるような気がした。静寂の中で目を閉じても、彼女の横顔が浮かび、眠れなかった。
「あなたは」
かぐや姫が少年を見た。
その唇が震えた。
「あなたも、変わってしまったのね」
「変わった?」
少年は、かぐや姫の瞳を見つめた。
そうだ。自分も変わってしまった。
彼女を見た時から——。
かぐや姫は、わずかに視線を伏せた。
「月の者は、誰かを見つめたりしない。誰かのそばに、こんなふうに立ったりしない」
答えられなかった。
少年自身も、月の住人らしからぬ姿をしていた。
中性的な顔立ちは、男とも女ともつかぬ美しさを湛えていた。切れ長の目、繊細な鼻筋、柔らかな唇。肩まで伸びた銀色の髪が、地球の光を反射して輝いていた。
それらは一見、月の住人のそれととてもよく似ていたが、纏っているオーラはまるで違った。その瞳には時折、月の者が決して見せない光が宿っていた。
「私も」
かぐや姫は再び地球を見た。
「変わってしまった。あの星から戻ってから、ずっと」
言葉にならない空白が、そこにあった。
「何かが違う。何かが、足りない……」
二人の間に、沈黙が降りた。
遠く、地球が青く輝いていた。
◇
月の中心には、白い塔が立っていた。そこに、月を統べる者たちがいた。
彼らは月に秩序をもたらし、永遠の時間を創り出していた。
塔の周りには、白い住居が放射状に整然と立ち並び、月の人々が住んでいた。
彼らは感情を持たないわけではなかった。ただ、極めて薄かった。老いることも、悲しむこともない世界で、激しい感情は生まれようがなかった。
けれど、その調和にいつしか、乱れが生じていた。
少年は知っていた。
稀に、激しい感情を宿した者が生まれることを。
彼らは地球へ送られる。記憶を消されて戻される。
それで終わりのはずだった。
ところが、記憶を消しても、感情は消えなかった。戻された者たちは、地球を見て涙を流した。
その涙を見た者が、また感情を持つ。
円環は、止まらなかった。
かぐや姫も、その一人だった。
少年は、目を瞑った。
彼女が地球を見て泣いている姿が、瞼の裏に蘇った。
少年もまた、感情を持つ者の一人だった。ただ、それは心の奥深くに沈んでいた。
彼女の涙が、少年の中で眠っていた何かを呼び覚ました。
彼女の悲しみが、自分の悲しみになった。
助けたい。
彼女の涙を止めたい。彼女を笑顔にしたい。
たとえそれが、月の調和を乱すことだとしても。
◇
召喚は、ある日、突然だった。
白い塔の最上階。統治者の一人が、少年を前に立たせた。
「お前を、地球へ送る」
声に感情はなかった。
少年は黙って目を伏せた。予想していたことだった。
「お前は、かの姫に恋をしている」
統治者の瞳には、何の色もなかった。
「かの姫のそばに立つ。姫を見つめる。姫の涙に心を痛める。それは、干渉だ。月の調和を乱す」
少年は何も言わなかった。否定しても無駄だった。月の統治者たちは、すべてを見透かしていた。
「地球での生を受けよ」
統治者は続けた。
「人間として生き、有限の時を刻め。そして、感情の重さを知れ」
統治者は、少年を見据えた。
その瞳には、何の迷いもなかった。
「自らの過ちを悟ったとき、記憶を消して戻してやろう」
それは、罰だった。
罪を犯した者は、月の着物を剥ぎ取られる。そして裸のまま、地球へ落とされる。それが、月の掟だった。
だが、少年の心は、奇妙な高揚に包まれていた。
地球へ行ける。かぐや姫が愛した場所へ。彼女が涙を流すほど、心を奪われた世界へ。
そして——。
もし、かぐや姫を連れて行くことができたなら。
「準備をせよ。三日後に、地球への門を開く」
統治者の言葉に、少年は深く頭を下げた。
塔を出る時、少年の脳裏に、一つの考えが浮かんだ。
月の着物。
あれには、秘密があるはずだ。
◇
準備の時間は、少年に考える余裕を与えた。
地球へ送られる者は、月の着物を脱がされる。裸のまま、地球の大気に包まれ、人間の赤子として生まれ変わる。
少年は、自分の袖を見つめた。白く、柔らかく、光を帯びた布。月の住人は皆、これを着ていた。生まれた時から、ずっと。
そして、かぐや姫も。
彼女が地球から戻った時、天人たちが彼女に着せたのも、この着物だった。
その瞬間、彼女の記憶は消えた。地球での喜びも、悲しみも、愛した人々の顔も。すべてが、着物の中に吸い込まれた。
少年は、月の図書館に足を運んだ。古い記録が、無数に並んでいる場所。
『月の着物は、時を保つ。着る者を、月の時に留める。脱げば、その者は時の流れに身を委ねる』
『着物の内側は、異界の記憶を吸収する。月の外で刻まれた記憶を、すべて』
少年は、その文字を繰り返し読んだ。
内側は、異界の記憶を吸収する。
内側は——。
その時、少年はハッとした。
内側が異界の記憶を吸収するなら。
外側は?
もしかしたら、外側は記憶を放出するのではないか。
でも、月では誰も触れ合わない。誰も、他人の着物に手を伸ばさない。
そして——。
少年の指が、わずかに震えた。
誰も、自分の着物を裏返して着ようとは思わない。
なぜなら、月では着物を脱ぐことすら、稀だったから。
ましてや、裏返して着るなど。
でも、もし。
もし、かぐや姫が自分で裏返して着たとしたら。
胸が、高鳴った。
これだ。
これなら、かぐや姫の記憶が戻るかもしれない。
◇
出立の前夜。少年は、崖の縁へ向かった。
かぐや姫は、そこにいた。いつものように、地球を見つめていた。
白い着物が、地球の光を受けて輝いていた。黒髪が、彼女の背を流れ落ちていた。
「明日、地球へ行きます」
少年の声に、かぐや姫は振り向いた。
「あなたも」
彼女の声が震えた。
「あなたも、罰を受けるの」
「ええ」
音のない世界で、二人だけが呼吸をしていた。
「地球は」
かぐや姫は再び、青い星を見つめた。
「美しいところでした。きっと」
「覚えているのですか」
「いいえ」
彼女は首を振った。
「ただ、そんな気がするだけ」
地球の青い光が、月の灰色の大地を照らしていた。
「一つ」
少年は、自分の声が震えているのを感じた。
「試してもいいですか」
「何を」
静けさが、二人を包んだ。
「あなたの着物を」
少年は、かぐや姫の目を見つめた。
「裏返してみたいのです」
かぐや姫の目が、見開かれた。
「どうして」
少年の胸が、激しく打っていた。
もしかしたら——。
「記憶が、戻るかもしれない」
かぐや姫は、しばらく少年を見つめていた。月明かりの中で、彼女の顔は透き通るように白かった。その美しさに、少年は息を呑んだ。
「試してみましょう」
◇
着物を脱ぐのは、月では誰もしないことだった。
でも、二人きりの崖の縁で、誰も見てはいなかった。ただ、地球だけが、遥か彼方から二人を見下ろしていた。
かぐや姫は帯に手をかけた。ゆっくりと、丁寧に。
着物が肩から滑り落ちた。
その下には、光でできたような肌があった。月の住人の体は、人間とは違った。もっと儚く、もっと美しく、そしてもっと冷たかった。
少年は着物を受け取った。手の中で、布が微かに震えているように感じた。
いや、震えているのは自分の手だ。
丁寧に、着物を裏返した。
内側が、外側になった。
そして、かぐや姫の肩に、そっと掛けた。
瞬間——。
かぐや姫の体が、内側から光を放つように輝いた。
目を見開き、口を開き、何かを言おうとして、言葉にならなかった。
涙が溢れた。
地球の光を反射して、ダイヤモンドのように煌めく涙が、頬を伝って落ちた。
「思い、出した」
かぐや姫の声は、震えていた。
「竹林……」
「
「空、雲……。風、雨……。花……鳥……」
彼女の声が、途切れ途切れになった。
「すべて……。すべて……」
彼女は少年を見た。その瞳には、月が、地球が、そして無数の記憶が映っていた。
「ありがとう」
かぐや姫は、涙を浮かべたまま微笑んだ。
少年は、彼女の手を取った。冷たかった。でも、そこには生きる力があった。
「一緒に、行きましょう」
「地球へ?」
「はい。私は明日、地球へ送られる」
少年は、かぐや姫の目を見つめた。
「あなたも、一緒に」
「でも」
「このままここにいても、あなたは泣き続ける。記憶があっても、なくても」
少年の手が、かぐや姫の手を強く握った。
「ならば……。記憶を持ったまま、地球で生きましょう。もう一度」
かぐや姫は、長い間、少年を見つめていた。
地球の青い光が、二人を照らしていた。海の青、雲の白、その狭間に見える緑の大地。あの星には、すべてがあった。変化が、生命が、そして——終わりが。
でも、だからこそ。
彼女は頷いた。
◇
自分の部屋に戻った少年は、独り考えていた。
白い壁が四方を囲み、白い床が冷たく広がっていた。天井からは、均一な光が降り注ぎ、影もなく、音もない空間。
少年は、壁に背を預けて座っていた。
膝を立て、両腕で抱えていた。
明日、地球へ落ちる。
赤子に戻る。何もかも忘れる。
拳を、ぎゅっと握った。爪が手のひらに食い込んだ。痛みはなかった。月の体は、痛みを知らなかった。
でも、胸は痛かった。
忘れたくない。
彼女を。
この想いを。
けれど——これで彼女は、地球へ帰れる。
翁様、媼様に、また会える。
それだけは、確かだった。
少年が罰を受けるからこそ、それができる。
ならば、これでいい。
そう思おうとした。
でも、胸の奥が冷えていく。
赤子になれば、彼女は知らない人になる。
抱かれても、見上げても、その時にはもう、誰だかわからない。
怖い。
でも——。
少年は、ゆっくりと顔を上げた。
壁に、小さな窓があった。そこから、淡い光が差し込んでいた。
地球の光だった。
青く、柔らかく、部屋の白さを染めていた。
あの星へ、彼女と行く。
彼女のことを、忘れることになっても。
少年の唇が、わずかに動いた。
この感情が本物なら——あるいは……。
地球の光が、静かに床を照らしていた。
◇
地球への門は、月の端に開いた。
統治者たちは、少年一人が降りていくものと思っていた。
門が開く。
少年が、裸で立っていた。
その背後に——。
白い影。
かぐや姫だった。
「待て」
統治者の声が響いた。
かぐや姫は、一瞬躊躇した。
この人を、赤子に戻してしまう。
少年は、咄嗟にかぐや姫の手を取った。
気がつくと、二人はもう、門の中へ飛び込んでいた。
落ちていく。
青い星へ。
月が、遠ざかっていく。銀色の平原が小さくなり、やがて夜空に浮かぶ一つの円になった。
一瞬のようにも、永遠のようにも感じた。
地球の大気が、二人の体を包んだ。
温かかった。
◇
地球は、温かかった。
風があった。匂いがあった。音があった。
少年の体は、みるみる小さくなっていった。月の時を保つ着物を脱いだ者は、地球の時に巻き戻される。大人の姿が、子供に、幼児に、そして——。
赤子の泣き声が、竹林に響いた。
かぐや姫は、小さな命を抱きしめた。彼女の着物は、月の力を保っていた。だから、彼女の姿は変わらなかった。
「ごめんなさい」
彼女は囁いた。
「あなたは、私のために」
赤子は泣きやんだ。大きな瞳で、かぐや姫を見上げた。
何も覚えていない瞳。
でも、不思議と、その瞳は笑っているように見えた。
かぐや姫は、赤子を抱いて歩き始めた。
覚えている道を。
懐かしい場所へ。
竹林を抜けると、小さな家が見えた。
炊事の煙が上がっていない。庭の花が枯れている。
胸騒ぎがした。
◇
静けさが、家を包んでいた。
かぐや姫は、戸に手をかけた。
「翁様」
声が、震えた。
「媼様」
戸を開けると、薄暗い部屋の奥に、二つの小さな影があった。
翁と媼。
二人は、布団の上で横たわっていた。息をしているのがやっとの、弱々しい姿で。
枯れ木のような手。落ち窪んだ頬。
かぐや姫の足が、震えた。
「翁様」
かぐや姫の声に、翁の目が、ゆっくりと開いた。
最初、彼は夢を見ているのだと思った。
「かぐや、姫」
「ただいま戻りました」
涙が、翁の目から溢れた。枯れ木のような手が、震えながら伸びた。
「帰ってきて、くれたのか」
「はい」
媼も目を開けた。かぐや姫を見て、声を上げて泣いた。
「夢では、ないのだね」
「夢では、ありません」
かぐや姫は、赤子を二人に見せた。
「この子を」
彼女は、目を上げた。
「一緒に育てていただけませんか」
翁と媼は、赤子を見つめた。
小さな、小さな命。
不思議と、力が湧いてくるのを感じた。かぐや姫が帰ってきた。その喜びが、渇いた井戸に水が満ちるように、二人の体に生気を与えた。
「もちろんだとも」
翁は言った。声に、張りが戻っていた。
媼も頷いた。頬に、血の気が差していた。
かぐや姫は、二人に赤子を渡した。
翁が、そっと抱き上げた。温かかった。命の温もりだった。
赤子が、小さく笑った。
その笑顔を見た瞬間、翁も媼も、また涙を流した。
その日から、小さな家に、再び笑い声が戻った。
◇
少年は、早く育った。
かぐや姫がそうであったように、月から来た者は、地球の時を駆け抜けた。
三ヶ月で、歩いた。庭を這い回り、竹を掴もうとして倒れ、でもすぐに立ち上がった。
半年で、言葉を話した。「かぐや」「じい」「ばあ」。拙い言葉が、家の中に響いた。
一年で、竹を運ぶ手伝いをした。小さな手で、竹を掴んでは籠に詰めていた。
翁は、少年に様々なことを教えた。竹の見分け方、筍の採り方、刃物の使い方。
媼は、優しく少年を見守った。食事を作り、服を繕い、夜は子守唄を歌った。
そして、かぐや姫は——。
少年のそばにいた。いつも、そばにいた。
竹を割る時、筍を採る時、庭で遊ぶ時。
静かに微笑みながら、少年を見守っていた。
少年は、かぐや姫を見るたび、胸が温かくなるのを感じていた。
なぜだろう。
この人の声を聞くと、安心する。
この人の笑顔を見ると、嬉しくなる。
この人と、前に会ったことがあるような気がする。
いや、それ以上の何か——。
でも、記憶はなかった。
少年は、この家で生まれ、この家で育ったことしか知らなかった。
◇
桜が散る頃、少年の背は翁の肩を越えた。
顔立ちは日を追うごとに整い、中性的な美しさが際立っていった。白い肌、長い睫毛、そして銀色の髪。近所の人々は、少年を見るたびに「美しい子だ」と囁いた。
「この子にも、そろそろちゃんとした名をつけてやらねばな」
翁が、
「名前?」
少年が、箸を止めた。
「お前には、まだ正式な名がなかったわね」
媼が優しく笑った。
「月の夜に、かぐや姫と共に来た子。月の御影のような子」
「みかげ、というのはどうだろう」
翁が言った。
「かぐや姫と、対になる名だ。正式には、みかげ彦と」
少年——いや、みかげは、その名を口の中で転がした。
「みかげ」
「気に入ったかい?」
みかげは頷いた。
かぐや姫も、微笑んでいた。
「良い名ね」
彼女は囁いた。
「とても、良い名」
◇
夏が深まる頃、みかげの声は低くなった。
竹林に蝉の声が響き、日の光が竹の葉を照らしていた。
「かぐや」
ある日、みかげは縁側で言った。
「なあに」
「あなたは、月のことを覚えているのですか」
かぐや姫は、空を見上げた。
「ええ。帰ってからのことは」
「どんな、ところでしたか」
「静かな、ところよ」
彼女は、小さく呟いた。
「音もなく、風もなく、何も変わらない」
みかげは、蝉の声に耳を傾けた。
「ここは、違いますね」
「ええ」
かぐやは微笑んだ。
「ここには、すべてがあるわ」
二人は、庭を眺めた。
夏の日差しが、竹林を照らしていた。
蝉の声が、途切れることなく続いていた。
◇
ある夜、二人は縁側に座っていた。
虫の声が、あちこちから聞こえた。鈴虫、松虫、様々な音色が重なり合っていた。風が、竹林を揺らした。葉擦れの音が、さらさらと響いた。
「月が、きれいですね」
みかげは言った。
かぐやは、空を見上げた。丸い月が、夜空に浮かんでいた。雲一つない、澄んだ空。月の光が、二人を照らしていた。
「ええ」
彼女の声が、小さくなった。
「でも、もう泣かないわ」
「泣いていたのですか」
「昔はね」
かぐやは、微かに笑った。
「月を見ると、涙が出たの」
「でも、今は違う。今は、ここにいられることが嬉しい」
みかげは、かぐやの横顔を見つめた。
月明かりに照らされた、美しい横顔。長い睫毛が、影を作っていた。
胸が、苦しかった。
いつからだろう。
この人を見ると、息ができなくなる。
この人と、ずっと一緒にいたい。
「私は」
みかげの声が、震えた。
「あなたを、愛しています」
かぐやは、ゆっくりと振り向いた。
目が、合った。
みかげの整った顔が、月明かりに照らされていた。その中性的な美しさは、いつの間にか一人の青年のものとなっていた。銀色の髪が、風に揺れていた。
「私も」
彼女は囁いた。
「ずっと前から。ずっと、ずっと前から」
みかげの手が、かぐやの手に触れた。
冷たかった。でも、温かかった。月の者の冷たさと、人間の温もりが、混ざり合っていた。
「一緒に、いてください」
「ええ」
かぐやは頷いた。
「ずっと、一緒に」
二人の手が、固く結ばれた。
虫の声が、祝福するように響いていた。
◇
翁と媼は、少し離れた部屋から、二人を見守っていた。
障子の隙間から、月明かりに照らされ寄り添う二人の姿が見えた。
「良かったのう」
翁は、目を細めた。皺だらけの顔が、笑みで更に深く刻まれた。
「本当に、良かった」
媼も、涙を拭いた。
「これ以上の喜びはありませぬ」
二人は、縁側で手を繋ぐみかげとかぐやを見つめた。
月が、静かに二人を照らしていた。
「さあ、寝ましょう」
媼が翁の肩を叩いた。
「二人の邪魔をしてはいけませぬ」
翁は笑って頷いた。
静かに奥の寝所へ消えていく二人の背中には、温かさが滲んでいた。
◇
梅の花が咲く頃、二人は結ばれた。
庭の梅が、白い花を咲かせていた。まだ寒い季節だったが、梅の香りが春の訪れを告げていた。
ささやかな祝いの席が設けられた。
翁と媼、そしてみかげとかぐや。
四人だけの、静かな宴だった。
囲炉裏に火が焚かれ、部屋には温かさが満ちた。灯りが、四人の顔を優しく照らしていた。
「おめでとう」
翁が、杯を上げた。酒が、月明かりのように透明に輝いていた。
「末永く、幸せに」
「ありがとうございます」
みかげとかぐやは、深く頭を下げた。
媼が、料理を並べた。筍の煮物、山菜の和え物、魚の塩焼き。湯気が立ち上り、良い匂いが部屋に広がった。
「さあ、食べましょう」
四人は、囲炉裏を囲んで食事をした。
笑い声が、部屋に響いた。翁の朗らかな笑い声。媼の優しい笑い声。みかげの穏やかな笑い声。かぐやの、鈴を転がすような笑い声。
やがて、笑い声が静まった。
かぐやは、みかげの横顔を見つめた。
火の光に照らされた、美しい横顔。
この人が、すべてをくれた。
記憶を。翁様と媼様との日々を。この温かい場所を。
この人は、何も覚えていない。
月での日々も、着物を裏返してくれたことも、一緒に地球へ落ちたことも。
でも、私は忘れない。
決して。
◇
桜が散り、新緑が芽吹き、やがて筍の季節が来た。
竹林は、若葉の緑で溢れていた。朝露が葉を濡らし、太陽の光を受けてきらきらと輝いていた。
「筍を採りに行きましょう」
ある朝、みかげが言った。
「いいわね」
かぐやが頷いた。
二人は、籠を持って支度をした。
「気をつけて行っておいで」
翁が、縁側から声をかけた。
「朝ごはんまでには帰るのよ」
媼が笑った。
「はい」
二人は、手を繋いで竹林へ入っていった。
まだ暗い早朝。空には、有明の月が残っていた。
竹林は、静かだった。
葉擦れの音だけが、風に乗って聞こえた。鳥が、どこかで鳴いた。
「あった」
みかげが、地面を指さした。
土を押し上げて、小さな筍が顔を出していた。瑞々しい緑色をしていた。
二人は、しゃがみ込んで、丁寧に土を掘った。冷たい土の感触。朝露の湿り気。
筍が、すっぽりと抜けた。
「立派ね」
かぐやが笑った。
「今夜は、筍ご飯にしましょう」
みかげも笑った。
二人は、また歩き始めた。
竹林を抜ける風が、二人の髪を揺らした。かぐやの黒髪が、みかげの銀髪が、風に舞った。
東の空が、少しずつ薄紅色に染まり始めていた。
みかげが、ふと立ち止まり、空を見上げた。
有明の月が、薄く、白く、消えかけていた。
胸の奥に、何かが引っかかった。
懐かしいような、切ないような。
でも、それが何なのか、わからない。
「月か」
みかげが囁いた。
「誰か見ているのかな」
かぐやも、月を見上げた。
あの星。かつて自分がいた場所。記憶を失い、涙を流し続けた場所。
「そうね」
彼女は微笑んだ。
「そして、きっと羨ましがっているわ」
「羨ましい?」
「ええ……。だって、私たちは」
かぐやは、みかげの手を握った。
「こんなにも、幸せだもの」
みかげは、かぐやの手を握り返した。
「ええ、こんなにも」
目を細めて頷いた。
二人は、再び歩き始めた。
竹林の奥へ。
筍を探しながら。
遠くで、鳥が鳴いた。朝を告げる、澄んだ声だった。
新しい一日が、始まろうとしていた。
月は、静かに二人を見下ろしていた。
そして、ゆっくりと薄れていった。
音もなく。
朝日に溶けるように。
二人の笑い声だけが、竹林に響いていた。
了
『月の円環 ~かぐや姫を愛した少年~』 Naga @Naga3003
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