英雄は現実に帰れない
アキイロ
プロローグ
魔王の心臓を貫いた瞬間、音が消えた。
剣先から伝わる感触は、確かに「終わり」を告げていた。
硬く、重く、そして脆い。
それはこれまで斬ってきたどんな魔物よりも、人間に近い感触だった。
「……終わった」
声に出したはずの言葉は、誰の耳にも届かない。
巨大な魔王の身体が崩れ、黒い粒子となって宙に溶けていく。
勝った。
異世界に召喚され、勇者として戦い続けた長い旅は、確かに終わった。
だが、胸に湧き上がるのは達成感ではなかった。
――これで、もう誰も死ななくて済む。
それだけだった。
仲間の笑顔も、別れの言葉も、すでに遠い。
数え切れない死を見送り、考えることをやめて、ただ剣を振ってきた。
世界を救った実感など、どこにもなかった。
視界が、白に染まる。
浮遊感。
身体がほどけ、意識が引き剥がされていく。
「おめでとう、勇者」
誰かの声がした気がした。
だが、その言葉を噛み締める前に、世界は完全に途切れた。
⸻
次に意識を取り戻したとき、最初に感じたのは息苦しさだった。
胸が重い。
肺がうまく動かず、呼吸のたびに鈍い痛みが走る。
目を開けようとしても、まぶたが言うことをきかない。
全身が、自分のものではないようだった。
耳に届くのは、一定間隔で鳴り続ける電子音。
規則正しく、感情の欠片もない。
「……?」
かすれた声が漏れる。
ようやくまぶたを持ち上げると、そこにあったのは白い天井だった。
見覚えのある、あまりにも現実的な光景。
蛍光灯。
無機質な壁。
視界の端に映る、医療機器。
――病室。
「……は?」
理解が、遅れて追いつく。
剣はない。
鎧も、血の匂いもない。
代わりに、腕に刺さった点滴と、胸に貼り付けられたセンサー。
「……戻った?」
現実世界へ。
異世界での出来事が、途端に遠く感じられる。
まるで長い夢を見ていたかのように。
そうだ。
きっと夢だったのだ。
都合よくそう結論づけようとした、その瞬間。
病室の扉が静かに開いた。
入ってきたのは、数人の男女。
全員がスーツ姿で、足音ひとつ立てない。
彼らの視線は冷たく、そこに「目覚めた人間」への安堵はなかった。
まるで、動作確認をする機械を見るような目。
先頭に立つ白髪混じりの男が、淡々と口を開く。
「意識の回復を確認した。脳活動も安定している」
「……誰だ」
喉が焼けるように痛む。
それでも、問いかけずにはいられなかった。
男は名乗らない。
「君が体験していた“異世界”は、仮想空間だ」
一瞬、言葉の意味が理解できなかった。
「政府公認の実験。
正式名称は《対未知生命体戦闘適応実験》」
「……実験?」
嫌な予感が、背中を這い上がる。
男は続けた。
「現在の地球は、未知の生命体による侵攻を受けている。
既存の兵器は、ほとんど効果を示さない」
壁際のモニターに、破壊された都市の映像が映し出される。
瓦礫。炎。逃げ惑う人々。
現実の映像だということは、嫌でも分かった。
「そのため、我々は“戦闘に適応した人間”を必要としていた」
「……俺が?」
「正確には、君たちだ」
男は、視線を外さずに言う。
「被験者は、社会的に死にかけていた人間。
重篤な事故、末期の病、回復の見込みが薄い者」
胸が、ざわつく。
「仮想世界で極限の戦闘を経験させることで、脳と精神を再構築する。
英雄譚という形式は、そのための“物語”に過ぎない」
頭の奥で、何かが音を立てて崩れる。
仲間の顔が浮かぶ。
名前も、声も、今でも思い出せる。
「あれは……全部……」
「成功率は0.5%だ」
男は、まるで天気を報告するかのように告げた。
「数百名の被験者のうち、現実世界へ帰還できたのは数名のみ」
「……じゃあ、帰還できなかったやつらは?」
「精神崩壊、脳死、もしくは自死。
いずれも想定内の結果だ」
息が詰まる。
成功。
失敗。
そんな言葉で、あの時間が分類されることが、耐え難かった。
「君は“成功例”だ。
戦闘判断、恐怖耐性、即応能力――すべてが基準を超えている」
「……ふざけるな」
震える声で、絞り出す。
「俺は……ただ、流されて……必死だっただけだ」
男は、わずかに目を細めた。
「それで十分だ」
「人類を救うための犠牲は、必要だ」
その言葉を聞いた瞬間、理解した。
魔王は、倒した。
だが――あれは本当の敵ではなかった。
俺は英雄でも、選ばれた存在でもない。
ただ、壊れずに残っただけの人間。
「……最悪だ」
天井を見上げ、呟く。
それでも、身体の奥では、剣を握った感覚が消えていなかった。
この世界は、俺を解放する気など、最初からなかった。
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