開かずの理科準備室

「先輩、今日の噂は少しだけ危ないです」


放課後の屋上で、澪はノートを抱えたままそう言った。


いつもの明るい調子ではなく


珍しく慎重な声だった。


「旧校舎の理科準備室、知ってますよね。」


「普段は鍵がかかっていて、先生でもあまり近づかない場所です」


「……ああ」


「最近、その前で倒れた生徒がいるんです」


一瞬、胸がひやりとした。


「命に別状はありません。」


「でも、倒れる直前まで、理科準備室のドアの前に立っていたそうです」


嫌な予感が、はっきりと形を持った。


「行くな」


「分かってます!」


澪はすぐに言った。


「だから“確認だけ”です。近づきません」


その言葉を信じるしかなかった。




放課後の旧校舎一階は、昼間よりずっと暗く静かだった。



理科準備室の前に立った瞬間、

空気が変わるのが分かった。



ドアの向こうから、はっきりとした気配がする。


「……ここ、いますね」


澪の声は小さい。


「ああ。中にいる」


「人の形ですか?」


「そうだ」


それだけで、澪は息を呑んだ。


鍵は確かに閉まっている。


それなのに、中に“入ってはいけないもの”が存在している。




突然、ドン、とドアを内側から叩く音がした。


「っ……!」


澪が反射的に俺の袖を掴む。


「下がれ」


俺は澪を背中に庇った。



ドン、ドン、と音が続き、ドアノブががちゃがちゃと揺れる。



「誰か……いる……」


「違う」低く言った。


「呼んでる」


次の瞬間、直接頭の中に声が響いた。


――入って。こっちに来て。


足が、勝手に前へ出そうになる。


理科準備室のドアが、ひどく魅力的に見えた。


「……っ」


歯を食いしばって踏みとどまる。


「澪、絶対に俺から離れるな」


「はい」


その直後、廊下の照明が一斉に消えた。


真っ暗な中で、呼吸音だけがやけに大きく聞こえる。


――こっち。


声が、さっきより近い。


「先輩……」


「聞くな。走るぞ」


照明が点いた瞬間、二人で一気に走り出した。


背後で、最後に一度だけ、ドアを強く叩く音が響いた。


屋上まで戻ると、澪は膝に手をついて大きく息を吐いた。


「……あれ、入ってたら戻れませんでしたよね」


「ああ」


「先輩がいなかったら、私、入ってました」


その言葉に、胸の奥が重くなる。


「先輩」


澪は顔を上げて、真っ直ぐこちらを見た。


「オカルト研究部、やめません」


「……なぜ」


「先輩が必要だからです。」


「先輩が“見る”役で、私が“記録する”役。この形、崩したくないです」


夕日が屋上を赤く染める。


フェンスの影は、今日もひとつだけだった。


それでも、澪がすぐ隣に立っているだけで、俺は少しだけ“こちら側”に戻れた気がした。

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2人はオカ研 〜見える先輩と見えない後輩〜 @hiyoko_147852

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