口裂け女

「先輩、聞きました?」


 昼休みの屋上。


 澪は、いつもより声を潜めて言った。

 ――と言っても、元々あまり潜んでいない。


「最近、帰り道で声かけられるらしいですよ」


「……何を」


「『私、きれい?』って」


 嫌な予感しかしなかった。


「……それで?」


「マスクした女の人!」


 澪は、びしっと指を立てる。


「口裂け女です!」


「……今どきか」


「今だから、ですよ!」


 澪は楽しそうだった。


「マスク文化、完全に味方じゃないですか」


 軽い。


 あまりにも。


「でですね」


 澪は、

 ノートをぱらぱらめくる。


「この学校の噂、ちょっと変なんです」


「どう変だ」


「声をかけられるの、

 “帰り道の一人のとき”じゃないんです」


 俺は、黙って続きを待った。


「校内なんですよ」


 澪は、にこっと笑う。


「しかも、

放課後の屋上付近」


 背中に、冷たいものが落ちた。


「……やめろ」


「え?」


「それ、調べるな」


 澪は、一瞬だけきょとんとして、

 すぐに首を傾げた。


「先輩、珍しく本気で止めますね」


「危ない」


「今までだって、危なかったですよ?」


 正論すぎて、

 何も言えない。


「大丈夫です!」


 澪は、またそれを言った。


「口裂け女って、

 “見る人”を選ぶんですよね?」


「……ああ」


「じゃあ、私には見えません!」


 だから大丈夫、

 という理屈らしい。




 放課後。


 空は、

 少しだけ曇っていた。


 屋上から階段を下り、人気のない廊下を歩く。


「静かですねー」


 澪は、あくまで軽い。


「ホラー的には満点です」


「……集中しろ」


「はいはい」


 その時だった。


 廊下の向こう。


 非常階段の影に、

 女が立っている。


 マスクをしている。


 長い髪が、

 顔を半分隠していた。


「……澪」


「はい?」


「……下がれ」


「え?」


 女が、ゆっくりこちらを向く。


 視線が、

 一直線に――俺に向いた。


 澪じゃない。


 俺だけを見ている。


「……っ」


 足が、一歩、勝手に後ろへ下がる。




 女が、一歩、近づく。


 距離が、

 


 縮まる。


「……先輩?」


 澪が、不安そうに俺を見る。


「どうしたんですか?」


 言えなかった。


 “そこに女がいる”と。


 だって、澪には見えていない。


「……私」


 女が、低い声で言った。




 ——きれい?


 マスク越しの声。


 それなのに、やけに鮮明だった。


「答えるな」


 俺は、小さく呟いた。


「……先輩?」


 澪が、さらに近づこうとする。


「来るな!」


 思わず、強く言ってしまった。


 澪は、一瞬止まる。


「……あ」


 その隙に。


 女が、マスクに手をかけた。


「……っ」


 裂けた口。


 異様に、

 大きく開いた口。


 その口が、

 俺に向かって、

 笑った。


 ——これでも?


 頭が、真っ白になる。


 次の瞬間。




「先輩!」


 澪の声が、

 現実に引き戻した。


 澪は、俺の袖を掴んでいた。


「行きましょう!」


 引っ張られる。


 俺は、半ば引きずられるように、

 その場を離れた。


 背後で、女の気配が揺れる。



 ――逃げるんだ。


 声が、聞こえた気がした。


 屋上まで戻ると、空気が一変した。


「……はぁ……」


 澪は、

 息を整えながら言う。


「今の、なんだったんですか」


「……見えなかったか」


「はい」


 即答。


「何も」


 その言葉が、逆に重かった。


「……私、

 先輩だけ見てる“何か”って、

 初めて感じました」


 澪は、珍しく真剣な顔をしていた。


「トイレの花子さんも、階段も」


 ノートを抱きしめる。


「どっちも、



  “場所”の話でした」


「……」


「でも今のは」


 澪は、ゆっくり言った。


「人でした」


 その通りだ。


 あれは、


 俺を“人”として見ていた。


「……先輩」


 澪が、小さく笑う。


「もしかして先輩、

 めちゃくちゃモテてます?」


「……ふざけるな」


「だって、狙われてますよ」


 冗談めかした言い方。


 でも、その目は冗談じゃない。


「先輩」


 澪は、はっきり言った。


「これからは、

 私が記録します」


「……何を」


「先輩のことも、です」


 屋上に、

 影が伸びる。


 やっぱり、

 ひとつだけ。


 それなのに。


 さっきの女は、

 確かに俺を見ていた。


 数えられない存在を、

 正しく見つけてしまった

 ――そんな目だった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る