トイレの花子さん

翌日の昼休み。


俺は、いつも通り屋上にいた。


昨日の出来事を、夢だったと思うには、少しだけ現実味がありすぎた。


「先輩ー!」


 扉が勢いよく開く。


 振り返るまでもない。

 声で分かる。


「いた!

 やっぱり今日もいました!」


「毎日来る気か」


「もちろんです!」


 澪は、息を切らしながら屋上に飛び出してきた。


「オカ研、活動開始ですから!」


「誰が入部したと言った」


「先輩、昨日否定しませんでしたよね?」


 にこにこしながら、

 都合のいい解釈をしてくる。


「それに」


 澪はノートを開いた。


「今日のテーマ、

 もう決めてきました!」


 嫌な予感しかしない。


「……何だ」


「トイレの花子さんです!」


 元気よく言い切った。


「ベタすぎるだろ」


「王道ですよ、王道!」


 澪は、楽しそうにページをめくる。


「旧校舎三階、女子トイレの三番目の個室。

 ノックして『花子さん、いますか?』って聞くと――」


「出る、だろ」


「はい!」


 即答。


「でもですね」


 澪は、顔を近づけてくる。


「最近、ちょっと違う噂があるんです」


「違う?」


「呼び方が、

 “花子さん”じゃないらしくて」


 背中に、嫌なものが走った。


「何て呼ぶ」


「“そこにいる人”です!」


 満面の笑み。


「なんか怖くないですか?」


「……やめとけ」


「えー」


 澪は、唇を尖らせた。


「調査しないと、

 オカ研じゃないじゃないですか」


「危ない」


「大丈夫です!」


 根拠のない自信。


「先輩が見えるなら、

 危険かどうか分かりますよね?」


 ……それを言われると、

 弱い。


放課後。


 旧校舎三階。


 人の気配は、ほとんどない。


「静かですねー」


 澪は、妙に楽しそうだった。


「テンション上がります!」


「下げろ」


「無理です!」


 女子トイレの前で立ち止まる。


 古い蛍光灯が、

 じじっと音を立てている。


「……ここです」


 澪は、

 三番目の個室を指差した。


「先輩」


「なんだ」


「中、どうですか?」


 俺は、目を凝らす。


 見えている。


 個室の奥。

 便器の上に、

 小さく丸まる影。


子どものような、

 女の子の気配。


 ……いる。


「いる」


「わ!」


 澪は、目を輝かせた。


「やっぱり王道は裏切らないですね!」


「喜ぶな」


「でも、怖がってる感じじゃないですよね?」


「……ああ」


 その影は、

 こちらをじっと見ているだけだった。


「じゃあ」


 澪は、深呼吸してから、

 ノックした。


 コン、コン、コン。


「花子さん、いますか?」


 ……反応はない。


「もう一回」


 澪は、

 今度は少し声を張った。


「そこにいる人ー!」


 その瞬間。


 空気が、ひやりと変わった。


 影が、

 ゆっくり顔を上げる。


 俺は、

 思わず澪の前に立った。


「澪、下がれ」


「え?」


 ――コン。


 内側から、

 ノックが返ってきた。


「わっ!」


 澪は、一歩下がる。


 それでも、

 逃げなかった。


「……返事、しましたね」


「したな」


「でも、これ」


 澪は、震えながらも、

 ノートを開いた。


「記録、しないと」


 個室の中から、

 小さな声が聞こえた。


 ——いる。


 澪は、

 ごくりと唾を飲み込む。


「……女の子の声、ですよね」


「ああ」


「先輩」


「なんだ」


「この子」


 澪は、

 怖がりながらも、

 どこか優しい声で言った。


「出たくて出てるんじゃ、

 ない気がします」


 俺も、そう思った。


 ただ、

 呼ばれたから出てきただけだ。


「……今日は、ここまでだ」


 俺は、

 はっきり言った。


「これ以上は、踏み込むな」


「……分かりました」


 澪は、珍しく素直だった。


 廊下に出た瞬間、

 空気が元に戻る。


「はあ」


 澪は、大きく息を吐いた。


「思ったより、

 ちゃんと怖いですね」


「当たり前だ」


「でも」


 澪は、

 すぐに笑った。


「すごいです!」


「何がだ」


「先輩がいたから、

 ちゃんと戻ってこれました!」


 その言葉に、

 胸の奥が少しだけ、

 ざわついた。


 屋上に戻る。


 夕日が、

 フェンスを赤く染めていた。


 澪は、

 ノートに今日のことを書きながら言う。


「花子さんは、

 呼ばれると出てくる」


「でも」


 ペンを止めて、

 にっと笑う。


「ちゃんと記録したら、

 それ以上、何もしませんでした!」


「……それが分かっただけでも、収穫だ」


「ですね!」


 澪は、

 満足そうに頷いた。


「オカ研、

 順調なスタートです!」


 屋上に、

 影はひとつしかない。


 それでも。


 澪が隣にいる間だけ、

 俺はそのことを、

 不思議と気にしなくなっていた。


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