卵の中で安心するヒト
古 散太
卵の中で安心するヒト
一
この世に誕生してから、多くのヒトが物理法則の中で生きている、と信じている。
親のしつけや義務教育などで、しっかりと物理法則に基づく学びを受けているのだから、それはしょうがないことなのかもしれない。
日常生活の中で体験していてあからさまに気づいていることは、物理の法則に従っている事象ばかりであり、理屈の通らない体験などしていないと考えている。それが一般的であり、常識的なのだろう。
この世は科学がすべてであり、物理法則によって構築されている。
しかしそう考えているのは、科学の枠外を見たことがない、いや、見ようとしないヒトたちだけかもしれない。
科学とは学問であり、理路整然と体系づけられている。では、はたして人生は学問だろうか。理路整然と体系づけることができるだろうか。学問と見なすことができる部分もたしかにあるだろうが、それで地球上に生きる我々をひとくくりにすることはできない。
ヒトの人生や生死は、ヒトそれぞれであり、二人ほどの人数であってもひとくくりにすることはできない。ひとりひとりの人生にバックボーンがあり、その死に際もそれぞれの人生を背負った上でのこととなる。だとすれば、くくるということは不可能だろう。
すべてのヒトがひとつの個性であり、まったくおなじ人間など存在しない。ゆえにおなじ人生もあり得ないし、おなじ死に際もあり得ない。
そう考えると我々の人生は、理路整然とした科学では語れないということになる。
年齢を重ねるほど、科学という名の宗教の教えが思考にこびりついていく。
社会生活を営む上で、他人との共通項として科学は絶対的に必要である。言いかたを変えれば、共通言語として科学は存在している。
共通言語として科学が存在するからこそ、初めて会ったヒトとでも「今日は暑いですね」という会話が成り立ち、病院などで「胃が痛むんです」、「では診てみましょう」という会話ができる。
とは言え、この世は、科学だけで成り立っているわけではない。
そのときは不思議に思っていたはずなのに、すこし時間が経過すると忘れてしまっているようなことはないだろうか。
たとえば、嫌な予感がしてその後、嫌なことがあったとか、まったく見たことのない風景を見て、前に見た記憶があったなど、かなり多くの人々が体験しているのではないかと思う。
その出来事があろうとなかろうと、人生の問題になるようなことはないかもしれないが、虫の知らせや正夢など、体験者は多くいる。体験者がいるということは、それが科学で推し量ることができなくても、実際にあった出来事として、体験した人にとっては事実である。
今のところ科学で語ることができないからと言って、「無い」とは言えない。もしかしたらヒトがまだ動物だったころの名残、危険察知能力や、防御本能の一部として残っている機能かもしれない。
ただ、現代の科学においては、再現できないこと、観察できないことについては頭ごなしに否定されることが多い。
中にはしっかり研究している本物の科学者、研究者の方もいるかもしれないが、多くの科学者は長いものに巻かれるようになっていて、そういったオカルトめいたものに対して表立って研究されることはない。そして「そんなものは存在しない」という否定の断定で話が終わる。
脳の誤作動であれ、勘違いであれ、体験者がいる以上、きちんと研究がなされた上で結論を出すのが科学である。現代の科学は、一部のヒトを除いて、頭ごなしに決めつけていることが多い。怪しげな新興宗教とやっていることは変わらない。
学会などでの地位とか権力とか、そういったものが幅を利かせているのかもしれないが、本来であれば、科学者とは探究者であるはずだ。それが探究もせずに、答えの出なさそうなことはすぐに否定をするのはどうかと思う。
その否定された答えが、まるで正解であるかのように一般の人々は信じ、やがて常識という名に変わり、世の中に浸透していく。
我々が常識と信じているものの多くは、最初から偏りがあり、正解かどうかはわからない、というのが実情ではないだろうか。
「無い」のではなく、「わからない」という答えがあってもいいのではないかと思う。頭ごなしの否定は、科学が世界を支配していると勘違いしているように見える。
先ほどもすこし触れたが、人生や心、愛などについて科学で答えを導き出すことはできない。もうこの時点で、科学万能ではないということがわかる。
科学が支配しているのは「社会」だけであり、人生ではない。人生や心、愛は一般的に言われる非科学的な事象だ。割合がどうなるかはわからないが、すくなくとも、この世が科学だけで出来ている、ということはない。
本来であれば、事象があり、それについて科学が解明する、という後追いの立ち位置なのだから。
二
今どき、科学万能と考えている人もそう多くはないだろうが、それでも知らないあいだに科学という信仰が浸透しているので、判断や決断の瞬間、科学的な知識が割り込んでくる。
科学を避けようにも、日本では科学を元にした義務教育から始まっているので、社会全体が科学によって構築されて、避けることができないのが実情である。
とは言え、社会と人生は別物である。
人生や心、愛などは科学で答えが出せないということを踏まえても、人が生きるということについては、科学とはまた別のアプローチが必要になる。
そのアプローチとは、「心」である。
「心」というと胡散臭く感じられるかもしれないが、自分の中に心がある、ということは誰もがわかっていることだと思う。心の有無は置いておいて、有るという前提で話を進める。
脳と心は別物である。大雑把になるが、脳は思考を担当し、心は気分を担当していると考えると、簡単にわけられる。
ヒトが何かの出来事に遭遇したとき、まず最初に反応するのが心だ。
肉体には五感というセンサーがついていて、刺激を電気信号に変えて脳に送る。脳は受け取った信号を、これまで体験してきた過去のデータと比較して、「大丈夫」とか「危険」といった命令を出し、それがまた電気信号に変換されて肉体の各パーツへと流される。それを神経から受け取った筋肉がそれぞれ、信号に従って行動を起こしたり、反応したりする。簡単に言えばこんな感じになるだろう。
それに対して心は、五感センサーが刺激を受けた時点で、即座に反応する。だが、理論的に解釈して反応するのではなく、感情となって反応する。
たとえば、強烈に美しい風景を見て感動するとか、この上なく自分の口に合った美味しいものを食べて興奮するとか、言葉にすることができない感情の動き、これが心の仕事である。
つまり、心=感情がまず動いて、その理屈を脳が言語化している。
心で感じていることを言葉にすることはできない。もし言葉にできたのなら、それは脳に信号が伝わったあとの話になる。
心で感じていることを言葉にするには、言語野の機能が必要である。そして言語野は脳にはあるが、心にはない。よく「心で思った」などという表現があるが、それはあり得ない。
何かを考える前に感情が動いている。それは脳を通していない、もっともピュアな反応であって、それこそが自分の本質、あるいは本心と言える。
現代を生きるヒトの多くは、科学信仰が浸透しているために、つい脳で考える。心が動いているのに、そこは無視して、理屈で考えて文章になったものが心の動きだと理解して納得するようになってしまっている。
だが、ヒトも動物の一種だと考えると、そこまで言語野の発達していない野生動物たちが、理屈をこねて自分を納得させるなどということは、おそらくない。その動物が持っているもっともピュアな本質である、本能で反応しているのだから、ヒトにもそういう本質的な、あるいは本能的なピュアな反応があってもおかしくはない。
すべてが科学で構築されていると考えて生きているがゆえに、もっとも自然な部分を見ないように、もしくは気づかないままに生きようとしてしまっているのが、現代を生きる我々なのかもしれない。
そのせいで、「因果律がすべて」という思考になってしまい、科学では観測することのできない「縁」の入るすき間が失われてしまった。
実際に縁が失われたわけではない。人生において、縁がなにひとつないということはあり得ない。なぜなら、生きていること自体が縁によるものだからだ。しかしその縁を無視して因果の理屈だけが正しいと信じてしまい、もっとも本質的な反応すらも気づかないまま無視してしまっている。
ヒトが持つ本質とはある意味、動物的な本能みたいなものかもしれない。そう考えると現代社会においては、あまり必要性を感じられないかもしれない。
とは言え、思考だけでヒトは生きられない。肉体的な成長だけであれば可能かもしれないが、誰かとのコミュニケーションや娯楽などがあってヒトは生きていける。そこにあるのは、縁であり、心の動きである。心が空っぽなどということはあり得ないが、そのように感じたまま、何十年も生きようとすれば、おそらくいずれ精神疾患になってしまうだろう。
またヒトの本質は、むき出しの自分であり、自分でも気づかないレベルでの本音の部分である。社会の中で本音を出すことは難しいだろうが、その人の本当の生きかたがそこにあるとしたら、自分の本質と社会性のギャップで苦しむことになる。そうして現代人は、自ら心を壊しているように思えてくる。
三
ここ数十年ほどのあいだによく「自分の居場所がない」という言葉を耳にするようになった。家庭、学校、会社など、その空間に馴染めないヒトたちというのが、一定数はいるようである。
好きでその空間に入ったのなら、問題にならないかもしれないが、もしそうではなかったら、最初から居場所などなかったのかもしれない。
学校や会社などの場合、本当に好きでそこを選んだのか、という疑問が生まれる。何かしらの成績などを基に、入れる学校や会社を決めてしまったのではないか。たしかにそれもひとつの基準になるだろう。誰の目にも明らかになり、対象となる人の評価をすることができる、という点では、もっともわかりやすい。
科学という名の宗教は、ヒトの価値すら数字に置き換える。わかりやすい例のひとつではないかと思う。
とくに会社は顕著で、入社試験でいい点を取ったからと言って、その人が優秀かどうかを知ることはできない。ここで言う優秀さとは人間性だ。勉強ができるのと仕事ができるのは同じことではない。
学校や塾などで学んできたものは「記憶すること」である。数学などで言えば公式などを覚えているかどうか、その上で多少の応用ができるかどうか、というもの。
たとえば夜道を歩いていて、道端に高齢男性が呻きながら倒れていたとしたら、迷わず駆け寄って声をかけたり、救急に連絡をしたりできるだろうか。こういうことは学校では学ばないので、勉強ができるのとは違ってくる。講習を受けたことがあっても、心臓マッサージやAEDなどでとっさに行動できる人はそう多くはいない。
一般的に言われる頭がいいとは、その記憶力と多少の応用力であり、対象となるヒト自身ではなく、そのヒトの脳の機能の問題だ。
どれだけ脳の機能が良くても、周囲に信頼されるかとか、協調性があるかどうかは別問題だ。しかし社会というところは、脳の機能を重視する傾向にある。そのため、どうしても成績などの数字が人選の基準になってしまう。
「自分の居場所がない」と考えているヒトは、基本的に科学で構築された社会という場所だけを指して、そう考えているのではないだろうか。すべてが数字に置き換えられた世界のことである。
好きではない空間だが、今はそれしか選択肢がないという場合、そこに「自分の居場所」というものは最初から存在しない、と考えたほうが生きやすいかもしれない。
ヒトの生きかたや思考、気持ちの在りかたなどは、完全にヒトそれぞれであり、それを個性と呼ぶ。誰もが社会性や協調性に長けているわけではないし、それがどうしても人生のマイナス要素になる、ということでもない。
ただ単に、その空間に合わないだけ、である。
「社会」と一言で片づけられるが、それぞれの社会にそれぞれの個性があり、それを地域性と呼んだりする。集落には集落のルールがあり、都会には都会のやりかたというものがある。都会に合わなかったから社会の落ちこぼれということではなく、単に都会のやりかたが自分には合わなかっただけなのかもしれない。もしそうだとしたら、別の空間に移動してみればいいだけのことで、落ちこぼれというには根拠が少なすぎる。
ヒトは集団になると、その集団が正しいという錯覚を起こす場合があり、集団の方向性の前には、モラルも常識も関係なくなることがある。そして、その枠に合わないヒトがいたら、容赦なく枠の外へはじき出し、自分たちの方向性を守ろうとする。
太古の時代、集団生活で生き永らえてきたのが人間なので、もしかしたら遺伝子的な記憶として集団を優先する傾向があるのかもしれない。しかし今は太古ではない上に多様性が叫ばれている時代だ。集団の方向性など、そこに合わないヒトからしてみればただの押し付けでしかない。
そう考えると、「今・ここ」というポイントにおいて、「何も集団の中だけが自分の居場所ではない」、「今の生活環境の中にだけ居場所があるわけでもない」と考えれば、それほど苦痛を伴うものではないのではないか。逆に苦痛を感じているのは、その空間に合わない自分を卑下してしまっているせいかもしれない。
社会や集団に合わせられない自分とか、うまく入り込めない自分などと考えてしまうと、自分がダメなヒトのように思えてくるかもしれない。だからといって、他の社会や集団にも合わないかどうかは、合わせてみなければわかりようがない。あくまでも特定のジャンルの数値が高い社会や集団であって、自分の持つ高い数値のジャンルが、そこでは使えないだけかもしれない。
見慣れた社会、見知った集団、いつもの思想といった「安心の卵」から、飛び出すことを怖れているだけだろう。
「自分の殻に閉じこもる」という言葉を耳にするが、その殻の中から見ている世界はきっと、自分の見慣れたものでありつつ、自分にとって都合のよい世界、なのかもしれない。残念なのは、その世界が、殻の外にもあることに気づいていないことだ。
四
多くのヒトが、自分の作った思い込みという卵の中で生きている。
その差はあっても、誰にでも思い込みはある。ただ、思い込みがあることや、それが自分の人生の足かせになっているということに気づいていない。
先述したように、科学がすべてを解き明かしているわけではない。何事かあって、それを科学の知識で解いていく、と考えると、まだ起こっていないことについては何も知らないということになる。すでにこの世で起こることがすべて起こったわけではないのだから、人間の知らないことなどまだまだたくさんある、ということを理解していない。
また人生における出来事の数々は、直線的な因果律で起こっているわけではない。原因と結果のあいだにかならず縁がはさまっていて、事を起こそうとしたとき、予想していた結果にならないことも多々あるだろう。ヒトの行いは縁がはさまってくることで、良い方向にも良くない方向にも進んでしまう、ということを理解していない。
さらに、自分という存在の大きさに気づいていない人が多い。自分で選んだか、流れでそうなったのかは別にして、その与えられた時空間がこの世のすべてである信じてしまい、そこで自分の身の丈を決めてしまう。例えるなら、小学生が、小学校に関わることが世界のすべてだと感じてしまうのと同じだ。社会に出て会社に入れば、会社がすべてになってしまう。自分の身の丈を決められるほど、自分はこの世や世界を知らない、ということを理解していない。
この理解していないということが、思い込みで生きているという証拠になるのではないだろうか。
自分の思い込みという殻で作った卵の中で外の世界を見つめ、嫉妬したり、不安になったり、怖れたりしている。その反動で、恨んでみたり、怒ってみたり、威圧してみたり、脅してみたり、マウントを取ってみたり、ということが起こる。
自分が幸せになるために、他人の足を引っ張っても、上からその対象が落ちてくるだけで、自分が上にあがるわけではない。それどころか、自分のしたことはかならず返ってくるので、いつかいちばん調子の良いときに、誰かに足を引っ張られるようなことになるだろう。
卵の中から外を見ているかぎり、その先にある事実を見ることはない。卵の中から見ているものは、殻というフィルターを通した自分に都合のよい世界でしかない。見たくないものは見ずに、見たいものだけ見る。知りたい情報だけ知って、知りたくない情報には目もくれない。ネット社会が発達した今、多くのヒトがそういう傾向にあるのではないかと思う。
自分に都合のよい世界では、本当に正しいことさえもわからなくなる。ここで言う本当に正しいというのは、科学によってしっかりと証明されていることであり、たとえるなら「一+一=二」だ。それすらも自分の都合に合わせた解釈になる。
そんなことはあり得ない、と思った方もいるかもしれない。しかし、あまりにも事がうまく運ばなくなったりして心が弱ってくると、そんなことも起こり得るものだ。もっとも分かりやすい例が、怪しげな新興宗教や霊感商法ではないだろうか。常識的に考えて騙されるはずがないと思っても騙されて、搾取され続けても、まだ有り難がっていたりする。これこそ思い込みの極みなのかもしれない。
大切なことは、自分に関わるすべてをネガティブにとらえないこと、である。
卵の中ということは、身を屈めているということ。その状態で身の丈を知ろうとしても本当に自分の身の丈などわかるはずもない。殻を割って卵の外に出たとき、初めて本当の自分の身の丈を知ることができる。
卵の外に出ることで、殻というフィルターがなくなり、身の丈だけではなく、本当の世界を体験することができる。見ているだけの世界はいくらでも都合よく解釈することができるが、テレビなどで見る北国の寒さは、実際に自分の身で体験してみなければわからない。もちろん、他人とのつきあいやコミュニケーションも、想像しているより面倒かもしれないが、逆に友情や愛情を感じることもできる。想像だけの愛で感じる喜びや幸せは、実際の体験をしてみればその比ではないことがわかる。
思い込みの卵は、そういった人生で体験するべき本当の幸せや喜び、楽しさや面白さを、すべてスルーさせてしまう。親の保護下にあるような年齢であれば仕方のないことだが、人生は自分で選択して、肉体的に体験をし、心を満たす作業である。
ヒトそれぞれ、さまざまな種類の卵があるが、本当の意味で自分を成長させようとか、真の幸せを体験したい、ここは自分の居場所ではない、といったことを考えるのであれば、自分が卵の中の安心感に満足しているだけであることに、一刻も早く気づいたほうがいいだろう。そして今が、殻を割るときなのかもしれない。
五
卵の中の安心感は、ただの慣れである。そう考えると、時間や空間、環境に対しても、慣れてしまえば安心感は得られるということになる。
ではなぜ、ヒトは卵の中に居続けようとするのか。
自分の意志として居続けようとする人もいるだろうが、自分がまだ卵の中にいることに気づいていない、というのが大多数ではないかと思う。
つまり、思い込みである。ヒトによっては執着かもしれない。
誰の卵の中にも「慣れ」という世界がある。それが絶対的な存在となっていると、それ以外のことは、危険に見えたり怪しげに見えたりする。常識的な判断を旨としているヒトが、霊的な話やスピリチュアル系の話に触れれば、すぐに眉をひそめる。それと同じことである。
自分の知っていること、体験があることだけが正解だと言っているようなもので、それが悪いわけではないが、実際の話として、それが世界のすべてでもなければ、自分のすべてでもない。
ひとりの人間にとって、未知の世界は無限に存在している。ヒトの可能性など自分が知っているのはほんのわずかである。すべてにおいて知らないことのほうが多い。
あくまでも個人の感想になってしまうが、真面目な人ほど、自分が卵の中に居ることに気づいていない傾向が強いように思う。
常識的な正しさや教育的な正しさが脳の中を支配しているため、それが絶対的な正しさであると思い込んでいる可能性が高く、そうなると、自分こそが正しさであったり正義であったりする。それはただの思い込みでしかない、という事実に目を向けることなく年齢を重ねていってしまうのである。
科学的であること、社会的であること、常識的であることなど、まだ発展しきれていないもの、根拠の曖昧なものを盲目的に正しいとするのは危険である。
考えてみてほしい。多くの科学的、社会的、常識的なことを自分の目で確認したことがあるだろうか。その肉体を使って体験したことがどれぐらいあるだろうか。
その多くは、学校教育や周囲の年上のヒトから言われたこと、自分たちの周辺で言われていることを聞きかじったものかもしれない。
それが自分に合っているかどうかではなく、周囲がそうなっているから合わせる、ということになっていないだろうか。それこそ卵の中である。
だからこそ、窮屈さを感じたり、不自由さを感じたりするし、自分には合っていないなどという思考に満たされ、急にすべてを放り出したくなるのだ。
そもそもヒトは自由にできている。社会的な責任は伴うが、人生における選択はいつも自由だ。自由だからこそ法律で定められていることを破るヒトがいる。
自ら自分を束縛するように、卵の中で人生を過ごすのも個人の自由だ。
しかし現状や周囲が合わないために心を病むぐらいなら、その前に思い込みの卵を蹴破って飛び出すほうがいい。
ヒトの人生は、ふり返ってみれば一本道だが、前方を見ているかぎり無限の可能性がいつも選択肢を用意して待っている。何を選択するのも自由。どんなペースで進むかも自由。「今・ここ」でどう生きているのか、それによる結果しか体験できない。これまで家でごろごろしていた人が、明日、急に宇宙飛行士になることはない。それでも選択肢はいつも目の前にある。
「今・ここ」というポイントに並んでいる選択肢を見て、本当に自分が望む生きかたを選ぶ、それが卵の殻を割るということになる。「今・ここ」は自分が生きているかぎり、つねにここにある。
自ら、自分や人生や生きかた、これからすること、そしてその結果に、制限をかける理由は何もない。どこでどんな縁が、誰かや何かとつながって、その結果がどうなるのかは誰にもわからない。未来の「今・ここ」まで待つしかない。
目で見て、耳で聞くものばかりが正しいわけではない。自分の心のささやきが正しいということも確実にある。それを一般的には直感やひらめきと呼んでいる。ちなみに、目に見えないものどうし、縁と心は相性がいい。
周囲に怯えるような生きかたは終わりにして、自らの直感やひらめきに従い、今、あなたが入っている卵にヒビを入れるときかもしれない。
繰り返しになるが、人生は科学で語れない。ということは、常識でも人生を語れない。なので、自分の体験から得た知識以外のことは何事も、一度は疑問をもって、自分にとって正しいだと判断したことだけ受け入れて、そうではないことは手放してしまえばいい。
あなたの未来に広がる可能性、あなたの人生でこれから関わる状況や状態は、今のところ何も決まっていない。
自分で、自分や自分の人生に制限をかければ、制限のある自分や人生になるし、逆に体験を最優先に一歩踏みだせば、想像を超えた体験をする。その中で本当の幸せや喜び、自分の居場所などに出会うことになる。
卵の中の安心は、いつも裏切りと表裏一体だ。世間の様子を気にしたり、周囲の人の顔色を窺ったりして手に入る安心は、いつ姿を消してもおかしくない幻想である。
本当の安心は、これまでも、これからも、あなたの中に存在している。周囲や環境への依存を手放し、あなたがまだ出会ったことのないあなた自身を、もっと信頼してみてほしい。 完
卵の中で安心するヒト 古 散太 @santafull
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