今宵の雨に濡れても

夏蜜

第1話

 雨は嫌いでも、無性に誰かと濡れたいときがある。



 地下鉄の出口が近づくにつれ、雨の匂いが濃くなる。咲貴さきは一瞬躊躇い、しかしながら背後から迫る人の流れには逆らえず階段を上りきった。

 覆うものがなくなった途端、髪や外套に水滴が纏わりつく。あいにく傘は持ち合わせていない。こんなことなら、通勤バッグに折りたたみ傘を入れておくべきだったと、後悔が押し寄せる。

 先週、ボルドーの傘を新調したばかりである。普段なら選ばない、咲貴にしては思いきった色の傘であったのに。

 幸いなことに、雨は急ぐほどでもない降り方をしている。咲貴は肩からずれたトートバッグをかけ直し、この街のシンボルタワーでもある電波塔を横目に家路を歩いてゆく。


 今宵の雨はなぜか冷たい。

 家族との記憶はいつも冷たい雨の中だ。


 誰しもが感じるように、咲貴も濡れるのは好きではない。とりわけ咲貴にとっては、雨は昔の傷をぶり返してくる魔物であった。大人になった今でさえ、その傷がときおり疼く。

 一方では、すっかり色をくした雨にどこか物足りなさを感じていた。むしろ枯渇しているといってもよい。咲貴は理由を知っている。ずっと心にわだかまっているものに、見て見ぬふりをしてきたことを。

 交差点の赤信号を前に咲貴は立ち止まった。随分歩いてきたが、赤橙色に点灯した電波塔がまだ視界の端に見えている。

 きっと、あの塔から望む景色に恐らく自分はいないだろうと咲貴は思う。喜びも、悲しみも、どんな些細な悩み事だって、展望台の硝子には映らない。ただ雨に溺れる不夜城が見渡せるだけだ。

 周囲が俄にざわめいたかと思うと、雨脚が一気に強くなった。こういうときに限って赤信号は一向に変わってくれない。

 結局、今夜もこの不本意な雨にやられてしまう。それなら、せめて傘のない日は塔の真上まで連れていってと願う。

 ひとりで濡れるのは、もう寂しいから。


 点滅する信号機目がけて、商用車が交差点に駆けこんできた。速度超過の車体は横断歩道の手前にいる咲貴を狙う。

 あっという間だった。誰かに腕を引かれていなければ、事故に遭っていたかもしれない。水飛沫を前面に浴びただけで済んだのは幸運といえるだろう。外套だけでなく、ストッキングやパンプスにまで雨水が浸入してずぶ濡れであったが、気にならなかった。

 歩行者用信号機は青へと移り、周りの歩行者たちが次々に横断歩道を渡りはじめる。咲貴が呆然としていると、腕を掴まれたまま斜め後ろから声をかけられた。


「大丈夫?」


 我に返った咲貴は、自分を救ってくれた相手へようやく顔を向けた。雨の街にはあまりにも鮮やかな赤色が目に飛びこみ、その際立った色の傘が背景の電波塔を霞ませる。 

 目が合った瞬間、雷に襲われたような衝撃が走った。どこか懐かしい面影を残した双眸に、激しく心が揺さぶられる。

 この女性とは、既に出逢っている。咲貴はそんな気がしてならなかった。


「最低よね、さっきの車もこんな天気も」


 女性は濡れそぼった咲貴の腕を引き、自身の傘へ招きいれる。腕同士が密着する。相手のほうがやや背が高い。香色の長髪からは香しい匂いが漂い、咲貴はつい鼓動を早まらせた。


「ありがとうございます……」

「いいえ。ひとりで傘を差していても寂しいもの」


 気がつけば周りの歩行者に置いてけぼりにされ、信号機は再び赤を灯していた。狭い空間にふたりだけとなり、咲貴は軽い罪悪感を覚えて身を縮こまらせる。


「ごめんなさい。わたしの所為で足留めさせてしまって」

「いいの、いいの。信号なんて気まぐれでね、進みたいときは進めないし、止まりたいときに限ってずんずん進むものなのよ」


 屈託のない笑顔で話す女性に、咲貴はいくらか安堵した。綺麗にカールされた睫や、ほどよく紅をさしてある唇が、人前に出る職業に就いていることを暗示している。


「とりあえず、横断歩道を渡りましょう。数百メートル先を左手に行くと、車を駐めてある駐車場があるから」


 女性の視線が指す場所に、月極駐車場があるという。普段その手前で反対方向に道を折れるので、咲貴は知らずにいた。


「……あの、わたしと一緒にいると貴女まで汚れてしまうわ。だって、思いきり水を被ったから」

「それならこっちも同じ。見てよ、下ろし立てのコートだったのにな」


 女性は着ているノーカラーコートの裾を手でひらひらさせた。ちょうどやってきた会社員の壮年男性に水滴が飛び散る。咲貴は自分のことでもないのに、睨まれて居心地が悪くなった。

 早くこの場を去りたい。

 そんな気持ちを汲みとったのだろうか、「もう、渡っちゃおうか」と、交通が途切れた一瞬の隙を狙い、女性は咲貴の肩を抱いて赤信号を渡ってゆく。


「あ、ちょっと……」

 咲貴は戸惑いつつ、不思議と胸が高なっていた。

 水たまりをばしゃばしゃと駆ける爽快感。

 社会人としてのちょっとした後ろめたさと、それに相反する軽い興奮。

 まるで学生時代、ひとときの季節を〝彼女〟と過ごした日々が蘇ってくるようだ。

 そうだ、この女性は親友に──。

 大袈裟なクラクションが鳴り響いたが、女性はものともしない。渡りきったあと「さあ、行きましょうか」と、咲貴を連れて何事もなく歩きだす。なんとも強引だが、嫌な感じはしない。


 束の間の喧騒も、交差点を離れるほど平穏になる。いつもの帰り道とは違う方角。アパートまで延びる曲がり角が遠のいてゆく。

 照明の乏しい路地に入る。目と鼻の先で、月極駐車場の看板がぼんやり道端を明るくしている。女性の歩調が次第に緩やかになり、咲貴もそれにつられる。

 束の間の沈黙だった。


「ねえ、あなたは雨って好き?」


 唐突な問いに、咲貴は言葉を詰まらせた。以前、親友に同じ質問をされたことがあった。であるならば、咲貴はこの言葉の意味を知っている。


「好きじゃない。……好きになんてなれない」


 女性は咲貴を向き合わせた。雨は鼓動よりも不規則な音を立てて傘の上で弾けている。


「ねえ、嫌いなだけ?」

「怖い。でも、ひとりでなければ……怖くなんてないわ」

「よかった。それが知りたかったの」


 名前もまだ訊いていない。素性だってよくわからない。

 それにも拘らず、親友を彷彿とさせる目の前の瞳にすっかり虜になっていた。そんな咲貴の肩に手を添え、彼女は口許を寄せて囁くのだった。


 だったらその濡れた身体、ワタシがなんとかしてあげる。


 少しだけ人目につかない場所でのやりとり。冷えきった身体が熱くなる。

 咲貴は今夜は家に帰れないと、直感的に思った。

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