月への扉

 その扉を開けてしまえば、もう二度とは戻れない。


 だから目の前に、どんな扉が現れたとしても――――それが例え、あの夜空の月へと通じる扉だったとしても――――開けてはいけない。そう、教わった。


 祐介はその日も扉を見た。夏の夜の公園の、青々とした茂みの奥に、その扉はあった。そのとき、祐介は二十一歳であった。


 彼ははじめ、ベンチに座りこみ、瞼を閉じて耳を澄ませていた。


 最初に感じたのは、夏の虫のざわめきだった。ちちろ虫の声が聞こえた。その鳴き声は、夏の闇に針で細い穴をあけていくように、ひっそりと繊細に響いていた。


 幼い頃、父親が素手で捕まえて見せてくれたのを思い出す。その黒く艶やかな体は、父の固く大きな手の平の上で、月明かりを受けて静かな輝きを帯びていた。父親の豪胆な笑い声に、ちちろ虫は飛び上がり、青い浴衣を着た祐介の膝に乗った。


 あのときは生々しい虫の力に怯えたのが良い思い出だ。人間と虫、大きさは違えど、その生をひた走る重く巨大なエネルギーは、子どもながらに恐ろしかった。夏の声の正体を知り、虫に畏怖したあの日のことを、祐介は今も鮮明に憶えている。


 瞼を開けると、月の光の下に扉がある。薄茶色の木目をつるりと輝かせている。


 異質で奇妙な姿は、立てかけられているわけでも、捨てられているわけでもない。ただそこに在り、まるで開けてしまえば、あの懐かしい家へと繋がっているようにさえ思える。そこには幻想を一切許さないような、不思議な確かさがあった。


 地を這う低い響きが耳を撫で、どこかで火の花が咲く。遠雷に似た残響が夜空から降り注ぐようにやってくると、街路樹のケヤキがそれに呼応するかのように音を立てて揺れる。


 一年に一度、町の夜を賑わせる夏祭りは終盤に差し掛かっているようだった。

 そのためか、子どもひとり、この公園にはいない。


 祐介だけがしんとベンチに座り、扉を見つめている。


「夜の底で耳を澄ますとね、月の声が聴こえるの」


 ふと、どこからか声がした。それはいつしかの記憶。いや、あるいは、本当に月の声とやらが聞こえてしまったのか。


「でもその声はとても小さくて、きっと誰にも聞くことができない」


 気がつくと、祐介はその声に耳を奪われていた。ちちろ虫の声も、遠くの花の残響も、今は沈黙して、彼女の懐かしい声だけに体を委ねていた。


「本当に大切なことは、いつもささやき声でしか語られない」


 だから、僕らは耳を澄まさないといけないんだね。


 祐介は思わず頬を綻ばせた。もう三年前になるのだ。あのときの祐介はまだ十八歳で、彼女は二十一歳だった。ずっと年上のように思えたのに、今ではもう彼女と同じ年齢だ。


「きっと、なくしたものだけが辿りつける場所があるのよ」


 それが君にとっての月だった。


 彼女は二十二歳の誕生日を迎えるまえに、月へ帰った。もう二度とは会えないと、まるで自分自身に言い聞かせるように告げて。


「もし私がいなくなったとしても、世界の秘密がほんの少し増えるだけよ」


 青い茂みの奥の扉が、今もそこに佇立している。


 導かれるように、祐介は立ち上がった。どこかで寂しい余韻を孕んだ風鈴の音がする。


 夏が終わろうとしている。祐介は茂みへと足を踏み入れた。

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19~22才の雑文集 はる @ifharuka

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