ペイン
十八のとき、深い谷のうえにそびえる精神病棟に俺はいた。あのときは安定剤が俺を支配していた。三月もなかば近くだった。咲いた梅の口紅が灰色の空に燃えていた。
暗い独房のような部屋には窓とベッドがそれぞれ一つあった。それだけで充分だった。
俺はほとんどの日中を、クビを吊るやつがいないように足を切り落としたベッドに腰掛けて過ごした。薬品と冷えた水の匂い。気温は十度を下回っていた。俺は幻覚をみていた。カベに張り付いた悪魔が囁いてくる。
「お前が捨てたんだよ」
床に転がったのは、人形だった。どれも細長く白い手足をしていて、頭の部分には写真が貼られていた。見たくもない顔ぶれだった。どれも目の部分がくり抜かれていた。
そのとき、誰かが肩を叩いた。振り向けば母がいた。母は指を差す。俺は指の先に目を向けた。谷があった。
谷は霧がかり、灰色の明かりが漂っていた。険しい谷の岩肌はキラキラと湿っていて、底では川が流れていた。
川からは、水の削る岩の音がした。流れる水は止まることを知らず、その固い岩を長い年月をかけて丸くしていった。
川辺に小さな女の子が佇んでいる。ナナ。その顔は相変わらず端正だ。白いワンピースを着ている。手にはニンジンと、皮むきに使うピーラーを持っている。
長い時間を使うの。ナナは笑う。ピーっとニンジンの皮が剥かれていく。長い時間を使って、あなたの身体を削っていくの。想像してみて。肉が下ろされていく感覚。肌から肉がみえて、次第に骨がでてくるの。痛い? ウルセーよ。これはあなたの妄想よ? ウルセーって。
イマジネーションは時として、牙をむく。俺は痛みにもだえる。肌にできた無数の痕は全部俺が俺につけたペインだった。
「お前が望んだのさ」悪魔が笑う。ドケよ。
窓に向かう。モザイクガラスにはカーテンがない。その窓のフチを掴み、開こうとした。だが自殺防止のロックがかかり、爪が割れた。銀色の淵に染みる赤い血。服にこすると、割れた爪先が繊維に引っかかる。服がやぶけても、気にせず、わずかな窓の隙間に顔を近づける。酸素を吸い込むように。
途端に乾いた雨の匂いが凍てつく空気とともに押し寄せた。昨日の雨の名残り。見える外はひらけた駐車場と冬の山だった。
ここに来たときはもっと暗かったはずだ。
それが今じゃ、あの陰気な山の空の雲が、俺の爪みたく割れてきた。西の麓の、山の傾斜に生えた、落葉を終えた木々に、光が注いで輝いた。キレーだなって、思った。
いつだって自然は俺を構いやしない。泣きたいときに雨が降ったりはしない。自然ってやつは、もっと理不尽だ。けど押しつけたりはしてこない。俺の気分がナーバスなときも、晴れ渡ったスカイブルーだって、何度も経験してきた。
だから、はじまりはいつだって雨だった。
濡れた身体が熱く鼓動を弾ませ、俺はいつも遠くへ遠くへと走ってきた。
あの日置いてきた少年が未だ燃える家のまえで泣いている。いつか迎えにいくから、今は前だけをみる。大丈夫。お前の未来を今明るくしている最中だ。そう囁いて。
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