帰り道
彼岸花が狂ったように咲いた庭に、歯を投げる。真っ白な歯には、少し肉の痕がついている。僕の折れた歯は、宙を舞い、彼岸をころころと転がって、立ち止まる。陽が差している。僕の家は、毎年この時期に、彼岸花が咲き乱れて誰かが死ぬ。今年は僕の歯が死んだみたいだ。もう他に死ぬべき人間が消えてしまったとでも言いたげに。
そんな記憶を、駅前のロータリーでふと思い出した。僕は、そのまま目の前の見知らぬ車の後ろのドアを開けた。急いで乗り込むと運転席の男がぎょっとした顔で僕を見た。目を見開いてしわ深い顔が一斉に若返った。僕は弱々しく手を振る。
「車を出してもらえますか?」
「あんた誰だ? 鏡子じゃないだろ」
「ええ、鏡子さんではありませんね。それにあなたとは全くの見知らぬ間柄です」
「じゃあ、なんで車に乗った。警察を呼ばれたいのか?」
「まあ待ってください。実は、先ほど、思い出したんです。僕には帰らないといけない場所があるって」
「それとこれとは話が別だ。お前は何がしたいんだ」
「家に帰りたいんです」
「タクシーでもバスでも使えばいい」
「金がありません」
「じゃあ、俺が出してやるから。とっとと失せろ」
男は、ポケットから小銭をいくらか取り出すと、僕に手渡そうとした。案外、優しい人であるが、僕は首を横に振った。違うな、と思った。これはお金で解決できる問題ではないのだ。僕はそう思った。
「鏡子さんは、あなたの娘さんですか?」
「そうだ。それがどうした?」
「彼女は、あとどのくらいで来ますか?」
「知らん。うちの娘に手を出したら、殺すぞ。いいから早く受け取れ、ほら、六百円ぐらいはあるだろ」
「いいえ。いりません。僕は家に帰りたいだけなんです。送っていただけませんか?」
「馬鹿野郎。自分で帰れ」
「お願いです。僕は、死ぬんです」
「は? なんだそれは?」
「話すと長くなります。でも、僕は死ぬ。だから、あなたに送って欲しいのです」
沈黙のなかで、男は僕を見つめる目を、不確かに細めた。僕は無地のYシャツに黒いスラックスという格好だ。男は何も言わずに前を向いた。僕も黙って、その場にいた。
しばらく経つと、男の携帯が鳴った。男は、携帯を取ると、耳に当てた。ああ、わかった。ただ一言。それで電話は終わった。
「鏡子は今日も飲み会だそうだ」
「そうですか」
「お前を送ってやるのも、また一興だ」
「その気になりましたか」
「俺はクリスチャンではないが、今日は神様がいる気分だ。男ってのはたまに無性に寂しくなる生き物だ。それは理解している。だから、お前を家に送ってやる」
「ありがとうございます」
「で? 家はどこなんだ?」
「彼岸花が咲いている家です」
男は、そのとき動揺したようにこちらを見た。僕は、ああ、やっぱり、彼は憶えていると少しばかり胸をなで下ろした。男はまた目を細めた。それからハンドルに向き直り、握り直す。
「俺が知っている、彼岸花が咲いている家はひとつだけだ。あそこは狂ったようにあの赤い花が咲いとる。そこが、お前さんの言う、帰る家なのかはわからないがな。どうする? 降りるなら今のうちだ」
「降りません」
「そうか……」
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