故障

 うちの乾燥機は、いつも機嫌がいい。だが、機嫌がいいってのは、ときに厄介になる。ぼくは「故障中」の札を、その機嫌のいい乾燥機に貼り付けた。


 受付に戻って、椅子に座る。クッションなんてない、ただ固く、粒だってざらついた椅子で、ぼくは読み途中の本を手に取る。外では蝉が鳴き、午後二時のコインランドリーは冷房が効いて涼しく、客はひとりもいない。


 本を読んでいると、自動ドアが開き、いつもの老婦人が紫の花柄をしたシルバーカーを押してやってくる。途端に生ぬるい風が頬を通り、顔をあげると、老婦人はいちばん右端のドラム式洗濯機を開ける。


「あら、忘れ物よ」


 ぼくは本を閉じ、椅子から立ち上がる。どうやら洗濯機に洗濯物が残っていたらしい。ぼくは「預かりますね」と言って、それを取り出した。


 それは何の変哲もない青いシャツだった。まだ湿っていて、シャツを広げると胸にポケットがあるのがわかった。染みひとつない青さだった。


 丁寧に畳んで、忘れ物カゴにいれる。だが、そこで少しだけ違和感を感じた。胸ポケットから飛び出しているものがあった。


 ポケットに手を入れ、それを取り出す。


 それは便箋だった。ホチキスで留められた、洗って縮んだ便箋。二枚目から文字が羅列されているのが透けて見えた。


 手紙だろうか。ぼくはなんとなくランドリーを見渡す。老婦人は違う洗濯機を使って、今は中央のベンチに座っている。回転している洗濯機が、ぼくの鼓動と同じ速度で音を鳴らす。


 甲高いベルが短く鳴って、洗濯機が止まる。老婦人が立ち上がり、ぼくは咄嗟に便箋を自分のポケットに入れる。


 老婦人は気づいた様子はなかった。息を吐き出し、受付に戻る。それにしても、思わず便箋をポケットに入れてしまった。


 それからというもの、やけに鼓動がうるさく、手汗もひどかった。洗濯を終えた老婦人は帰る間際、受付へとやってきて、いつものようにレシートを頼んできた。ぼくは三ヶ月のあいだで学んだ手際で、レシートを用意する。老婦人はレシートを受け取ると、バッグからホチキスで留められたレシートの束を取り出した。


「ホチキスは嫌いなのよ。もう戻せないから」


 そんなことをぼやきながら、彼女はレシートの束からホチキスを外し、新たなレシートを新たなホチキスで留めた。ぼくは便箋を留めていたホチキスを思い返した。


 老婦人がいなくなってから、ぼくはポケットの便箋を取り出した。縮こまってはいるが、切れたり歪んだりはしていない。丈夫な紙なのだろう。


 恐る恐る一枚目をめくると、そこに文字の羅列が現れた。小さな文字だ。しかし、滲んだりはせず、読むことは可能だった。


 ぼくは一度、便箋を閉じ、辺りを観察した。誰もいない午後のコインランドリー。白い床に垂れた水滴が、光を浴びて海辺の貝殻のように輝く。


 便箋をめくり、ぼくは手紙を読み始めた。




 サキさんへ


 私事になります。私は今月で店をやめます。いままでありがとうございました。紙のほうは店長宛に出しました。ここからは私の言葉です。


 先月の朝、伝票が一枚落ちていた件は私の見落としでした。あなたが呼ばれている間、私はレジの裏で針金を伸ばしていました。助かったふりをしたのは私です。ありがとうと、ごめんなさいの二つを言えませんでした。


 私はあなたの手つきをよく見ていました。レジ袋の持ち手を固結びにして輪を作ること。左手の人にも渡しやすいように、結び目を指で一度押して、角を丸くすること。小銭は口の中で三までしか数えず、四は指で数えること。閉店前、ポスターの端を人差し指でそろえて、ほんの少しだけ右に寄せること。雨の日は前髪が額に触れて、そのときだけカウンターのペンが右から二本目にずれること。


 初めて私が遅刻した日、あなたはコイン皿を拭きながら「寝坊の罪は寝不足で償えるよ」と言いました。冗談だと思います。私はその言い方を気に入っていました。

 伝票の件で、私はあなたに背中を向けました。ここを出る理由のひとつはそれです。外へ出れば、言えなかった言葉は少し軽くなると勝手に思っています。そうでなければ、困ります。


 この便箋はホチキスで留めました。外すと穴が残ります。残らないやめ方を私は知りません。


 この紙をあなたに渡さずに帰るかもしれません。渡したとしても、返事はいりません。乾燥機の窓の前で、あなたが回転をしばらく眺めていたことを、私は覚えています。白い四角は一瞬だけ見えて、次の回転ですぐ見えなくなる。私の言葉もそうなればいいと思います。


 手紙を読み終えたバイトの帰り道、ぼくは近くにあるいくつかのコンビニへ向かい、サキさんという人はいないかと尋ねてまわった。


 結果としてサキさんは見つからなかった。ぼくは諦めて家に帰り、それから一週間のあいだ、頭のなかでその手紙のことを思い返していた。


 青いシャツに残された手紙は、座礁した船のようだと思った。行き先をなくし、さまよって、海から浜辺へと放り出されてしまった船。


 一週間後のバイトの日、忘れ物カゴにはやっぱり青いシャツが置きっぱなしであった。ぼくは受付の椅子に座り、本を手に取る。しかし、なかなか読む気にはなれなかった。本を閉じて、机に置くと、ぼくは胸ポケットからメモ帳とボールペンを取り出してみた。


 それはほんの気まぐれだった。


 手紙を書き始めると、文字はあっという間に紙を埋め尽くした。


 三十分ほどだろうか。ぼくは書いたページを破いてしまった。そして、受付の棚からホチキスを取り出し、その紙を留めた。


 乾燥機のもとへ向かう。そこには「故障中」の札が貼り付けられている。ぼくはそれを剥がしてしまった。乾燥機を開けると、ぼくはそこに先ほど書いた手紙をいれた。


 そこで自動ドアが開き、あたたかい風が頬を撫でた。振り返ると老婦人がいて、シルバーカーを押して、微笑んでいる。ぼくは微笑み返し、乾燥機のボタンを押した。


 回転するドラムのなか、白い四角が一瞬見えて、次の回転で見えなくなった。ぼくはポケットに手をいれて、その回転を眺める。ふと、老婦人が隣へやってきて、同じように乾燥機の窓の奥へ目を向けた。老婦人は静かに言った。


「直らないものも、回しておけば乾くことがあるのよ」


 ぼくはうなずくと、故障中の札をポケットにいれて、その場を離れた。すると自動ドアが開いて、また新しい客がやってきた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る