第3話 隣国マサール

王都に戻った翌日、健司は王宮の図書室にこもっていた。

古い書物が並ぶ薄暗い部屋。窓からの光だけが頼りだったが、健司は気にしなかった。目の前に広げられた資料に、すべての意識が集中していた。

マサール王国に関する文献。交易記録、外交文書、旅行者の手記、商人の報告書——ありとあらゆる情報を集めた。

リオンが新しい資料を持ってきた。

「健司様、国境警備隊からの報告書です。昨年一年間のマサールとの交易記録が記されています」

「ありがとう。そこに置いておいてくれ」


健司は目の前の地図から視線を上げなかった。

マサール王国の詳細地図。首都アルディア、主要都市、街道網、河川、山脈——すべてが記されている。

「人口は約三百万」

健司は呟きながら、メモを取る。

「エルスールが約百万。三倍か」

次に軍事力の資料を開く。

「常備軍五万。エルスールは二万。訓練度も装備も上。騎兵隊は特に優秀らしい」

経済資料に移る。

「主要産業は農業、鉱業、織物。特に鉄鉱石の産出量が多い。武器製造が盛ん。商業都市アルディアは、地域最大の交易拠点」


健司は資料を次々とめくっていく。

教育制度の記録。マサールには初等教育から高等教育までの体系的な学校制度がある。識字率は約四十パーセント。エルスールの十パーセントと比べれば、圧倒的に高い。

さらに驚くべきことに、マサールには大学がある。哲学、数学、医学、法学——様々な学問を教える機関だ。エルスールにはそのようなものは存在しない。

「文化水準も高い」


別の資料を手に取る。旅行者の手記だ。

「マサールの首都アルディアは、美しい都市だった。石造りの建物が整然と並び、広場には噴水があり、劇場では演劇が上演されていた。図書館は誰でも利用でき、市民たちは哲学について議論していた」


健司は資料を置き、深く息を吐いた。

圧倒的だ。

あらゆる面で、マサール王国はエルスールを上回っている。人口、軍事、経済、教育、文化——比較にならない。

「これは……」

健司は地図を見つめた。

エルスール王国とマサール王国の位置関係。両国の間には山脈が走っているが、いくつかの峠道がある。軍隊の移動は可能だ。

もしマサールが本気でエルスールを攻めようと思えば、勝負にならない。


健司は立ち上がり、窓辺に歩み寄った。

図書室の窓からは、王都の街並みが見える。三年間の改革で、確かにこの国は発展した。しかし、それでもマサールには遠く及ばない。

「あと十年、いや二十年かければ、追いつけるか」

健司は自問した。


しかし答えは否定的だった。

マサールも発展を続けるだろう。技術革新、教育の充実、経済成長——停滞する理由がない。

つまり、格差は縮まるどころか、広がる可能性すらある。

「これが、王の恐怖か」

健司は理解した。

ロドリック三世は、この圧倒的な差を知っている。だからこそ恐れている。友好関係が続いている今は良い。しかしマサールが方針を変え、拡大政策を取れば、エルスールは抵抗すらできない。


扉が開き、リオンが入ってきた。

「健司様、午後の会議の時間です」

「ああ、もうそんな時刻か」

健司は資料を整理し始めた。

「リオン、これらの資料を私の執務室に運んでおいてくれ」

「承知しました。ところで健司様」

「何だ」

「マサール王国について、調べておられるのですか」

「ああ」

「何か、問題でも?」


健司は手を止め、リオンを見た。

若い官僚の目には、純粋な好奇心がある。健司は少し考えてから答えた。

「リオン、お前はマサール王国をどう思う」

「どう、とは?」

「友好国だと思うか。それとも、脅威だと思うか」

リオンは少し考えた。

「友好国だと思います。現在、両国は良好な関係にありますし、交易も盛んです」

「では、それが未来永劫続くと思うか」

「それは……分かりません」

「そうだ。分からない」


健司は窓の外を見た。

「国際関係は常に変化する。今日の友は、明日の敵になる。それが歴史の常だ」

「しかし、マサールには我が国を攻める理由がありません」

「今はな。しかし十年後、二十年後はどうだ?」

健司は地図を指さした。

「マサールは強大だ。いずれ、さらなる領土拡大を求めるかもしれない。その時、エルスールは格好の標的だ」

「それは……」

リオンは言葉に詰まった。

「だから、準備が必要なんだ」


健司は資料をまとめた。

「最悪の事態を想定し、対策を講じておく。それが為政者の責任だ」

「はい……」

リオンは納得したようだが、どこか不安そうだった。


会議に向かう途中、廊下で財務卿とすれ違った。

「やあ、健司殿。お忙しそうで」

「財務卿。お元気そうで」

財務卿は六十代の温厚な男だ。健司の改革を当初から支持してくれた数少ない貴族の一人だった。


「少し、お話ししてもよろしいかな」

「もちろんです」

二人は人気のない小部屋に入った。

財務卿は声を潜めた。

「健司殿、噂を聞きましたぞ」

「噂、ですか」

「マサール王国について調べておられると」

健司は驚いた。情報が漏れるのが早い。

「王宮の噂は早いですね」

「それだけ、皆が関心を持っているということです」


財務卿は真剣な表情になった。

「陛下が、マサールを警戒しておられるのは事実ですか」

「……それについては、私からは何とも」

「そうですか」

財務卿は窓の外を見た。

「実は、私も危惧していたのです」

「と、言いますと」

「マサールは強大です。あまりにも」

財務卿は健司を見た。

「正直に申し上げます。もし戦争になれば、我が国に勝ち目はありません」

「私も同じ見解です」

「では、どうすれば」


健司は慎重に言葉を選んだ。

「戦争を避けることです」

「しかし、相手が攻めてくれば」

「攻めてこられないようにする。あるいは、攻める理由をなくす」

「具体的には?」

健司は少し黙った。まだ具体案を語る段階ではない。

「今はまだ、情報収集の段階です。しかし、必ず方法を見つけます」

財務卿は頷いた。

「信頼していますよ、健司殿。あなたなら、きっと」


午後の会議は、通常の政務に関するものだった。

税収報告、街道整備の進捗、教育制度の拡大計画——日常的な議題が続く。

しかし健司の頭の中は、マサール王国のことでいっぱいだった。


会議が終わり、自室に戻った。

机の上に、朝から集めた資料が山積みになっている。健司はそれらを改めて見直し始めた。

人口三百万。常備軍五万。高い教育水準。発達した経済。豊かな文化。

どこから手をつければいいのか。

正面から戦えば負ける。それは明白だ。

では、戦わずに勝つ方法は?


健司は前世の知識を総動員して考えた。

商社マンとして、様々な国を見てきた。発展する国、停滞する国、衰退する国。その違いは何だったか。

経済的要因、政治的要因、社会的要因、文化的要因——様々な要素が絡み合って、国の運命が決まる。


健司はペンを取り、紙に書き始めた。

「国家衰退の要因」

箇条書きで列挙していく。

「教育水準の低下」

「経済成長の停滞」

「政治の機能不全」

「軍事力の弱体化」

「社会の分断」

「文化の衰退」

これらをどうやってマサールに引き起こすか。

しかし、どれも容易ではない。マサールは安定している。内部から崩壊させる要因が見当たらない。


健司は手を止め、窓の外を見た。

夕日が沈みかけている。長い一日だった。

ふと、ある考えが浮かんだ。

「もし、マサールが自分から弱体化していくとしたら?」

外部から攻撃するのではなく、内部から自壊させる。

しかも、誰かに強制されたのではなく、マサールの人々が自らの意志で、国を弱くする選択をしていく。


「そんなことが可能なのか?」

健司は考え込んだ。

しかし、不可能ではないかもしれない。

歴史を見れば、繁栄した文明が内部から崩壊した例は数多くある。外敵に滅ぼされたのではなく、自らの選択によって衰退していった国々。

その共通点は何だったか。


健司は再びペンを取った。

「内部崩壊のパターン」

書き続ける。

「過度な理想主義」

「現実を見ない政策」

「短期的利益の追求」

「長期的視野の欠如」

「社会の分裂」

「意思決定の麻痺」

これらを、どうやってマサールに植え付けるか。


健司は深夜まで考え続けた。

様々なアイデアが浮かんでは消え、消えては浮かんだ。

そして明け方近く、一つの構想がまとまり始めた。

「思想を植え付ける」

武力ではなく、経済制裁でもなく、思想によって。

マサールの人々に、ある種の考え方を浸透させる。それが国家として機能不全を起こすような考え方を。

しかも、それを「正しいこと」「理想的なこと」として信じ込ませる。


健司は震える手で、書き続けた。

窓の外が白み始めた頃、健司は一つの文書をまとめ終えた。

「マサール王国長期弱体化計画——草案」

それは、後に両国の運命を決定づける、恐るべき計画の第一歩だった。

健司は文書を引き出しにしまい、鍵をかけた。

そして窓辺に立ち、昇り始めた太陽を見つめた。

東の空が赤く染まっている。あの空の向こうに、マサール王国がある。

今はまだ、何も知らない国。平和で、繁栄し、未来を信じている国。

その国を、これから健司は静かに、しかし確実に壊していこうとしている。

「これで、いいのか」

健司は自問した。

しかし答えは出ない。

ただ一つ確かなのは、もう引き返せないということだった。


健司は部屋を出て、朝の王宮を歩いた。

廊下には誰もいない。静寂が支配している。

謁見の間の前を通り過ぎる時、健司は立ち止まった。

あの部屋で、王が命じた。「マサールが我々を攻めてこられないようにする方法を考えろ」と。

健司は、その答えを見つけつつあった。

しかしそれは、王が想像する以上に恐ろしい方法だった。

そして、健司自身も恐れている方法だった。


朝日が廊下に差し込む。

新しい一日が始まる。

そして、壮大な策略の幕が、今まさに上がろうとしていた。

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亡国のグランドデザイン ―20年かけて平和で国を滅す方法― 来栖とむ @yutaka963

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