第2話 豊かさの代償
王都から馬で三日。健司は地方の農村を訪れていた。
王からの命を受けてから一週間。マサール王国への対策を考える前に、まず自国の現状を正確に把握する必要がある。数字だけでは見えないものがある。現場を見なければ、本当の姿は分からない。
馬の手綱を引きながら、健司は街道沿いの風景を観察した。
三年前に比べて、確かに変わっている。畑は整然と耕され、灌漑用の水路が走り、収穫を待つ作物が青々と育っている。街道も整備され、荷車が行き交う。
しかし、農民たちの表情は複雑だった。
ある者は健司を見て会釈した。感謝の色が目に見える。改革によって収穫が増え、生活が楽になった者たちだ。
しかし別の者は、視線を逸らした。不満を隠しているのが分かる。
「健司様、あの村に到着します」
後ろから声がかけられた。健司に同行している若い官僚、リオンだ。二十代前半の真面目な青年で、健司の改革を信奉している。
「分かった。村長に会いたいと伝えてあるか」
「はい。すでに使いを出してあります」
村の入り口に差し掛かると、数人の村人が待っていた。中央に立つ初老の男が、村長だろう。
健司は馬を降り、歩み寄った。
「はじめまして。政務相談役の菅野健司と申します」
村長は深々と頭を下げた。
「これはこれは、噂に聞く健司様。ようこそおいでくださいました」
「お時間をいただき、ありがとうございます。村の様子を見せていただきたいのですが」
「もちろんでございます。どうぞこちらへ」
村長の案内で、健司は村を巡った。
畑を見て、収穫量を確認し、農民たちに直接話を聞く。リオンは熱心にメモを取っている。
表面的には、すべて順調に見えた。
しかし健司は、違和感を覚えていた。村人たちの態度が、微妙によそよそしい。感謝はしているが、心からではない。何かを隠しているような、そんな雰囲気があった。
昼過ぎ、村長の家で昼食をご馳走になった。簡素だが心のこもった料理だった。
食事の後、健司は村長と二人きりで話す時間を求めた。
「村長、率直にお聞きします。改革について、村の皆さんは本当に満足していますか」
村長の表情が、わずかに曇った。
「それは……もちろん、収穫は増えましたし、感謝しております。しかし……」
「しかし?」
「……」
村長は言葉に詰まった。健司は静かに待った。
しばらくの沈黙の後、村長が口を開いた。
「健司様、正直に申し上げてよろしいでしょうか」
「ぜひ、お願いします」
村長は深く息を吸った。
「村には、戸惑っている者も多いのです」
「どのような戸惑いですか」
「新しいやり方に、ついていけない者がおります」
村長は窓の外を見た。
「特に、年寄りたちです。彼らは何十年も、昔ながらのやり方で農業をしてきました。それが急に変わり、二毛作だ、新しい肥料だと言われても……」
「理解できない、と」
「いえ、理解はしているのです。収穫が増えることも、それが良いことも。しかし」
村長は健司を見た。
「心がついていかないのです。先祖代々受け継いできたやり方を否定されたような気持ちになる。自分たちの人生が、間違っていたと言われているような」
健司は黙って頷いた。
「それに」
村長は続けた。
「変化は、必ずしもすべての人に恩恵をもたらすわけではありません」
「具体的には?」
「例えば、種子商人です。新しい作物の種を扱う商人が現れ、古い種を扱っていた商人は客を失いました」
「……」
「税制も同じです。確かに全体としては負担が減りました。しかし、中間で徴税を担っていた者たちは職を失いました。彼らにも家族がいます」
村長の言葉は、淡々としているが重かった。
「それから、若者たちの中には、都に出て行く者が増えました。街道が整備され、都の情報が入ってくるようになったからです。村は、人手不足に悩んでいます」
健司は窓の外を見た。畑で働く農民たちの姿が見える。
「村長のお考えでは、改革は失敗だったということですか」
「いえ」
村長は首を横に振った。
「失敗とは思いません。国全体としては、間違いなく良くなっています。しかし」
村長は健司を真っ直ぐ見た。
「光があれば、影もある。それだけのことです」
健司は静かに頷いた。
「ありがとうございます。正直に話していただき、感謝します」
「いえ……お役に立てれば」
夕方、健司は村を後にした。
馬上で、リオンが話しかけてきた。
「健司様、村長の言葉をどう思われますか」
「どう思う、とは?」
「改革によって、一部の人が損をしているという話です。それでも、改革を進めるべきでしょうか」
健司はしばらく黙っていた。馬の蹄の音だけが響く。
「リオン、改革とは何だと思う」
「国を良くすることです」
「その通りだ。しかし、『国を良くする』とは、誰にとって良くすることだ?」
「それは……国民全員、でしょうか」
「理想的にはそうだ。しかし現実には、すべての人を満足させることは不可能だ」
健司は空を見上げた。夕日が西の空を赤く染めている。
「改革は、常に痛みを伴う。既存の仕組みを壊し、新しいものを作る。その過程で、必ず損をする者が出る」
「では、どうすれば」
「数を数えるんだ」
健司はリオンを見た。
「利益を得る者の数と、損をする者の数。そして、その程度。全体として、利益が損失を上回るなら、改革は正しい」
「しかし、損をする者は……」
「救済措置を講じる。可能な限り、な。しかし、それでも救えない者はいる」
健司の声は、冷徹だった。
「それを受け入れられない者は、変化に取り残される。厳しいが、それが現実だ」
リオンは何も言えなかった。
健司は前を向いた。
「ただし」
「はい」
「損をする者を、無視するわけではない。彼らの声を聞き、可能な限り配慮する。それが為政者の責任だ」
「……はい」
「だが最終的には、決断しなければならない。全体の利益のために、一部の犠牲を受け入れる。その覚悟がなければ、改革はできない」
馬は街道を進む。
健司の脳裏に、王の言葉が蘇った。
「マサールとの戦争を避ける方法を」
もしマサールを弱体化させる策を実行すれば、被害を受けるのは誰か。マサールの民衆だ。彼らは何も知らず、ただ日々を生きているだけだ。
しかしエルスールを守るためには、それが必要になるかもしれない。
全体の利益のために、一部の犠牲を受け入れる。
その覚悟が、自分にあるのか。
「健司様」
リオンの声で、健司は現実に戻った。
「はい」
「一つ、お聞きしてもよろしいですか」
「何だ」
「健司様は、ご自分の改革を正しいと思っておられますか」
健司は少し考えてから答えた。
「正しいかどうかは、分からない。ただ、必要だと思っている」
「必要、ですか」
「そうだ。この国が生き残るために、必要なことをしている。それだけだ」
リオンは何か言いかけたが、結局黙った。
夜、宿に着いた。
簡素な部屋で、健司は一人、報告書をまとめていた。
村での見聞、村長の言葉、農民たちの表情。すべてを記録する。
そして、自分の考えも書き加えた。
「改革は成功している。数字はそれを証明している。しかし、すべての人が幸せになったわけではない。変化についていけない者、既得権益を失った者、新しい環境に適応できない者——彼らは、取り残されている」
「これは、避けられないことだ。社会が変化する時、必ず生じる摩擦だ。重要なのは、その摩擦を最小限に抑えつつ、全体としての前進を維持することだ」
ペンを置き、健司は窓の外を見た。
月が昇り、村の灯りが点々と見える。あの灯りの下に、様々な人生がある。喜んでいる者、悩んでいる者、怒っている者、諦めている者。
健司は小さく息を吐いた。
「俺は、正しいことをしているのか」
答えは出ない。
ただ、一つだけ確かなことがある。
後戻りはできない。
三年前、健司は改革の道を選んだ。その結果、多くの人が幸せになり、同時に一部の人が不幸になった。
そしてこれから、もっと大きな決断を迫られるかもしれない。
マサール王国という、数百万の人々が暮らす国を、弱体化させるという決断。
それは、エルスール一国の村の改革とは、比較にならない規模の影響を及ぼす。
健司は机に向かい、新しい紙を取り出した。
そして、書き始めた。
「マサール王国対策案——序論」
ペンを走らせながら、健司は自分に言い聞かせた。
「これは必要なことだ。エルスールを守るために」
しかし心の奥底で、小さな声が囁いた。
「本当にそうか?」
健司はその声を無視して、書き続けた。
月明かりの下、策士の夜は更けていく。
翌朝、健司は王都への帰路についた。
背後に村が遠ざかっていく。あの村の人々は、これからも日々を生きていく。改革を受け入れ、あるいは抵抗しながら。
そして健司は、もっと大きな改革——いや、革命と呼ぶべきものを計画しようとしている。
馬上で、健司は呟いた。
「代償を払う覚悟はあるか、菅野健司」
答えは、まだ出ていなかった。
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