亡国のグランドデザイン ―20年かけて平和で国を滅す方法―
来栖とむ
第1話 相談役の三年
王宮の執務室から見下ろす城下町は、三年前とはまるで別の景色だった。
石畳の街道には商人たちの荷車が列をなし、市場には色とりどりの商品が並ぶ。広場では子供たちが石板を抱えて走り回っている。文字の練習帰りだろう。その光景を眺めながら、菅野健司は窓枠に手をついた。
現在三十七歳。この異世界に転移して三年。
あの日のことは、今でも鮮明に覚えている。
気がつけば見知らぬ森の中だった。言葉も通じない。金もない。頼れる者もいない。商社マンとしての知識と経験だけが、唯一の武器だった。
最初の一年は生き延びることに必死だった。農村に辿り着き、身振り手振りで意思を伝え、農作業を手伝いながら言語を学んだ。夜は藁小屋で眠り、昼は畑で汗を流した。
転機が訪れたのは、半年が過ぎた頃だった。
この世界の農業は、驚くほど非効率だった。単作、連作障害、不十分な灌漑、粗雑な肥料管理。前世で商社マンとして途上国の農業支援プロジェクトに関わった経験が、ここで活きた。
二毛作の提案から始めた。最初、農民たちは疑った。「昔からこうやってきたんだ」と。しかし実際に収穫量が増えると、彼らの目の色が変わった。次に堆肥の改良を提案し、簡易的な灌漑システムを設計した。収穫は倍増した。
噂は広がった。「東の村に、不思議な知恵を持つ男がいる」と。
領主が健司を呼んだ。次に地方の有力貴族が。そしてついに、国王自身が召し抱えた。
「お前の知恵で、この国を豊かにしてくれ」
王の言葉に、健司は応えた。
農政改革はその始まりに過ぎなかった。次に着手したのは教育制度だ。この国には学校がなかった。読み書きができるのは貴族と一部の商人だけ。これでは国が発展するはずがない。
健司は王を説得した。
「国の真の力は、民の知恵にあります。読み書きができる子供が増えれば、十年後には優秀な官僚が、二十年後には革新的な商人が育ちます」
最初は反対が多かった。「平民に教育など必要ない」という貴族たちの声。しかし健司は粘り強く説得を続け、小規模な試験校を設立した。成果が出ると、反対の声は次第に小さくなった。
税制改革も断行した。この国の税制は複雑怪奇で、中間で搾取する役人が多すぎた。健司はシンプルな税率体系を提案し、徴税システムを透明化した。最初は既得権益を持つ者たちから猛反発を受けたが、王の後ろ盾を得て押し切った。
結果、国庫収入は増え、同時に民衆の負担は減った。
街道整備も重要だった。商業を活性化させるには、物流の効率化が不可欠だ。主要都市を結ぶ街道を拡張し、橋を架け、宿場を整備した。商人たちの往来が増え、経済が動き始めた。
三年間の改革で、エルスール王国は確実に変わった。
税収は三割増加した。飢饉の不安は消え、都市部には活気が戻り、子供たちが学校に通う姿が当たり前になった。健司は「政務の相談役」という異例の地位に就き、王宮で不可欠な存在となっていた。
三十代半ばの異世界人が、わずか三年でここまで上り詰めるのは前代未聞だった。しかし、成果が誰の目にも明らかだったため、文句を言う者はいなかった。
だが――。
健司は窓から視線を外し、机上に広げられた地図を見下ろした。
エルスール王国と周辺国の地勢図。北にグラード公国、東にマサール王国、南に小国家群、西に山脈。
この国は、まだ弱い。
表面的には豊かになった。しかし周辺国と比較すれば、まだまだ後進国だ。技術水準は低く、軍事力も貧弱で、文化的にも遅れている。
特に、東のマサール王国。
あの国は強大だ。人口はエルスールの三倍。高度な教育制度を持ち、大学まである。軍隊は訓練され、装備も充実している。商業も発達し、文化的にも先進的だ。
今は友好関係にある。貿易も順調で、外交的な問題もない。
しかし、それがいつまで続くか。
国際関係は常に流動的だ。力の均衡が崩れれば、友好国も敵国になる。そして現状、エルスールとマサールの間には、圧倒的な力の差がある。
「このままでは、いずれ……」
健司の思考が中断された。執務室の扉が叩かれた。
「健司殿、おいでになられますか」
王宮の従者の声だ。
「入れ」
扉が開き、若い従者が一礼する。
「陛下がお呼びです。至急、謁見の間へ」
「分かった。すぐに向かう」
従者が去り、健司は地図を丸めた。
王からの召喚。しかも「至急」とのこと。通常の政務相談なら、定例の会議で済む。わざわざ呼び出すということは――何か重要な案件だろう。
健司は執務室を出て、長い廊下を歩いた。
王宮は三年前に比べて、随分と整備された。壁は塗り直され、床は磨かれ、調度品も新調された。税収が増えた成果だ。
しかし同時に、健司は違和感も覚えていた。
豊かさには、必ず代償がある。
改革によって利益を得た者がいる一方で、損をした者もいる。中間搾取で生計を立てていた役人たち、旧来の方法に固執する農民たち、特権を失った商人たち。
彼らの不満の声は、表面化していない。しかし、くすぶっている。
健司は廊下ですれ違う貴族たちの視線を感じた。尊敬と、嫉妬と、そして恐れ。
「異世界人の成り上がり者」
陰でそう呼ばれていることは知っている。気にはしていない。結果を出し続ければ、いずれ認められる。それが健司の信条だった。
謁見の間に到着した。
重厚な扉の前で、衛兵が槍を交差させている。健司の姿を認めると、敬礼して扉を開いた。
広い謁見の間。しかし今日は、誰もいなかった。玉座に座る国王ただ一人。
「健司、来たか」
エルスール国王、ロドリック三世。五十代半ばの男だ。がっしりとした体格で、鋭い目をしている。
健司は膝をついて一礼した。
「お呼びでございますか、陛下」
「うむ。近くへ来い。他の者には聞かれたくない話だ」
健司は立ち上がり、玉座の前へ進んだ。
ロドリック三世は健司を見下ろし、しばらく黙っていた。そして、ゆっくりと口を開いた。
「健司よ。お前のおかげで、この国は豊かになった。それは認める」
「恐縮です」
「だが――」
王の表情が曇る。
「豊かになったからこそ、見えてきたものがある」
「と、言いますと?」
「我が国の、弱さだ」
健司は何も言わず、王の言葉を待った。
「三年前、私はただ生き延びることに必死だった。飢饉を恐れ、反乱を恐れ、日々をやり過ごすだけだった」
王は玉座から立ち上がり、窓へと歩いた。
「しかし今は違う。国は安定し、民は満足し、反乱の気配もない。だからこそ、周りが見えるようになった」
王は窓の外、東の方角を見つめた。
「マサール王国だ」
健司の背筋に、冷たいものが走った。
「あの国は強すぎる。人口も、軍事力も、すべてにおいて我々を上回っている」
「しかし現在、マサールとは友好関係にあります」
「今はな」
王は振り返り、健司を見た。
「だが、それがいつまで続く?十年後は?二十年後は?」
「……」
「マサールはさらに力をつけるだろう。そして、いずれ我々を飲み込む。それが、国際関係の常だ」
王の目には、明確な恐怖が宿っていた。
「私は、それを許すわけにはいかない」
健司は慎重に言葉を選んだ。
「陛下は、何をお望みですか」
「方法を考えてくれ、健司」
王は一歩、健司に近づいた。
「マサールとの戦争を避ける方法を。いや、正確に言えば――」
王の目が、鋭く光った。
「マサールが、我々を攻めてこられないようにする方法を」
健司は静かに頷いた。
「承知しました。考えてみます」
「頼む。お前の知恵が必要だ」
王は再び玉座に座った。
「今日のところは、これで良い。下がってよい」
健司は一礼し、謁見の間を退出した。
廊下に出ると、健司は深く息を吐いた。
王の言葉の裏を、健司は理解していた。
「戦争を避ける」——それは表向きの言葉だ。王が本当に求めているのは、おそらく違う。
マサールを弱体化させ、可能ならば支配下に置く方法。
それが、王の真の望みだろう。
健司は窓の外を見た。東の空は晴れていた。あの空の向こうに、マサール王国がある。
「戦争か……」
健司は呟いた。
前世で、健司は戦争を知らなかった。平和な日本で生まれ育ち、商社マンとして世界を飛び回った。紛争地域に行ったこともあったが、直接戦火に巻き込まれたことはない。
しかしこの世界は違う。戦争は日常だ。国同士が争い、人が死に、国が滅ぶ。
「俺に、できるのか?」
そして同時に、別の思考が浮かんだ。
「いや、できるかもしれない」
戦争は、剣を交えるだけではない。経済戦争、情報戦、心理戦——前世の知識と経験があれば、この世界の人々が思いつかない方法があるかもしれない。
健司は執務室に戻り、再び地図を広げた。
エルスール王国と、マサール王国。
二つの国の運命が、今、健司の手に委ねられようとしていた。
窓の外では、子供たちの笑い声が聞こえていた。
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