第2話 お花畑の論理と🐾猫たちの防衛線
翌日も、平和な埼玉家の裏山は「善意」という名の暴力に晒されていた。
『クマを愛でる会』の白いワンボックスカーが再び現れ、今度は大量の廃棄野菜と、「クマさんのデザート」と称した砂糖まみれのドーナツを斜面にぶちまけたのだ。甘ったるい腐臭が風に乗って漂ってくる。
「素敵……! 昨日のご飯だけじゃ足りないと思って、デザートまで用意してくれるなんて!」
舞はベランダで頬を染め、うっとりとその光景を見つめていた。
「見て、恭介さん。あのリーダーの人、きっと『森の聖人』の生まれ変わりよ。クマさんとお茶会を開くつもりなんだわ」
「舞ちゃん、目を覚ましてくれ! あれは『お茶会』じゃなくて『餌付け』だ!」
庭に駆けつけた恭介が叫ぶ。
彼の顔は蒼白だった。公務員として、そして常識人として、今の状況がどれほど危険か理解していたからだ。
「あんなに甘い匂いをさせたら、クマだけじゃない。イノシシもハクビシンも、山中の獣が『ここは食べ放題のレストランだ』って学習しちゃうんだよ!」
「もう、恭介さんったら心配性ねえ」
舞はフフフと笑い、まるで駄々っ子を諭す聖母のような顔をした。
「お腹がいっぱいになれば、みんなニコニコよ。クマさんだって、美味しいドーナツを食べれば、きっと恩返しに薪を割ってくれたりするわ」
「それは日本昔ばなしの世界だけだ!!」
恭介の絶叫が虚しく響く中、縁側では二匹の猫が冷ややかな視線を交わしていた。
NNN埼玉支部長カテジナと、新人エージェント・サブローである。
『……聞いたか、新人。薪割りクマだと』
『支部長。協力者一号『舞』の脳内フィルターは、防弾ガラスより頑丈ですニャ。
現実が一切通じません』
サブローは首輪の『サブロー』の文字を掻きながらため息をついた。
『ですが、笑い事じゃありません。あの匂い……微かに獣の気配が近づいています。
今夜にでも奴らが降りてくる可能性がありますニャ』
カテジナが金色の瞳を細める。
『うむ。ここは我々NNNが動くしかない。……サブロー、お前のその「名犬設定」、フル活用してもらうぞ』
『了解です。……はぁ、また犬の真似か』
サブローは覚悟を決めると、庭の中央へ躍り出た。そして裏山に向かい、全身の毛を逆立てて姿勢を低くした。
「……ウゥゥッ、ワンッ!! ワンワンワン!!」
猫の喉の構造の限界に挑む、渾身の「犬っぽい威嚇」である。
「あっ! サブローが!」
舞が声を上げる。
「すごいわ、恭介さん! サブローが『早く僕もドーナツ食べたいよー!』って叫んでる!」
「違う! 舞ちゃん、あの姿勢を見て! あれは完全に『敵影発見』のポーズだ!」
恭介が指差す先、サブローは尻尾をピンと立て、前足で地面を掻き、裏山の暗がりを睨みつけていた。その姿は、ハチワレ猫であることを除けば、確かに熟練の猟犬のようだった。
「……ま、まさか、本当に?」
さすがの舞も、サブローの真剣な眼差しに少しだけ不安になったようだ。
そこに、家の中から長女の愛と三女の美衣が飛び出してきた。
「ちょっと! 凄まじい匂いがするんだけど!」
「何これ、生ゴミの山!? これじゃゴキブリどころか、森ごと変な虫が寄ってくるわよ!」
恭介が決断した顔で言った。
「愛さん、美衣ちゃん、聞いてくれ。
あの団体は話が通じない。
警察に通報しても彼らが立ち去った後、夜になれば匂いに釣られてクマが来る」
「じゃあどうするのよ!」
「僕たちで片付けるしかない。クマが来る前に、匂いの元を断つんだ!」
こうして、緊急ミッション『ドングリ・ドーナツ撤去作戦』が開始された。
恭介、愛、美衣、そして騒ぎを聞きつけた近所の屈強な老人会メンバーが、ゴミ袋とトングを持って裏山へ突撃する。
「急げ! 日が暮れる前になんとかするんだ!」
「うわっ、ハチミツまみれでベタベタする!」
「誰か高圧洗浄機持ってきて!」
必死の形相で作業する人間たち。その中で、舞だけが一人、ニコニコしながらトングを動かしていた。
「ウフフ、みんな優しいわねえ。
クマさんが食べやすいように、綺麗にお皿に盛り直すつもりなのね?
森のビュッフェスタイルってやつかしら♪」
「舞! あんたは余計なこと考えずに袋に詰めろ!」
姉の愛が怒号を飛ばすが、舞の耳には「頑張って詰めろ」という声援にしか聞こえていない。
一方、草むらの陰では。
『野郎ども、人間たちを援護するぞ!』
カテジナの号令で、集まった近所の野良猫部隊が一斉に動いた。
彼らは人間が見落とした小さなドングリを前足で器用に弾き飛ばし、茂みの奥へ隠していく。さらに、ドーナツが撒かれた場所には、NNN特製の「強烈なマーキング(おしっこ)」を上書きし、甘い匂いをかき消していく。
『(……ふん。これだけアンモニア臭がすれば、さすがのクマも食欲をなくすはずニャ)』
サブローもまた、舞の足元でせっせと後ろ足で砂をかけ、廃棄野菜を埋めていた。
「あらサブロー、あなたも手伝ってくれるの?
偉いわねえ、トイレの練習かしら?」
『(違うニャ! 毒消しだニャ!)』
人間と猫と一部の勘違い人間の懸命な作業により、夕闇が迫る頃には、裏山の斜面からはあらかたの餌が撤去された。
甘い腐臭は消え、代わりに消毒液と洗剤、そして微かな猫のおしっこの匂いが漂うのみとなった。
「はあ、はあ……なんとか、終わったか……」
恭介が汗だくでその場に座り込む。
「恭介さん、お疲れ様!」
舞が冷たい麦茶を持って駆け寄ってきた。
「みんなのおかげで、裏山がピカピカね! これならクマさんも『清潔なレストランだなぁ』って安心して来てくれるわ!」
「……舞ちゃん」
恭介は力なく笑った。否定する気力も残っていなかったが、とりあえず最悪の事態は回避できたはずだ。
だが、彼らは知らなかった。
餌を撤去されたことに怒り狂うのは、クマだけではないことを。
数キロ先。『クマを愛でる会』の事務所にて。
「なんだと!? せっかく撒いた愛の結晶が、全て撤去されただと!?」
リーダーの男が激昂していた。
「許せん……無知な住民どもめ。
こうなったら、我々の『愛の備蓄倉庫』を解放するしかないようだな……!」
そして、その事務所の隣にあるプレハブ倉庫。
そこには、彼らが全国から集めた数トンものドングリと廃棄食品が山積みになっていた。
そのシャッターの向こうで、「グルルル……」という低い唸り声と、メリメリと鉄板が歪む音が響いていることに、人間たちはまだ気づいていなかった。
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