ねこねこネットワーク埼玉支部🐾名犬(?)と呼ばれたエージェント

月影 流詩亜

第1話 舞い降りた天使(猫)と🐾裏山に降り注ぐドングリの雨


 その日のスーパー『サイタマ・マート』は、殺気と熱気に包まれていた。時刻は午後四時。主婦たちの聖戦、タイムセールの時間である。


 埼玉舞さいたま まい、三十二歳。ブラック企業での連勤を終えた彼女の瞳は、疲労の色を帯びつつも、「国産豚コマ切れ・メガ盛り半額」のパックを捉えて離さなかった。


 だが、その手がパックに触れようとした刹那、足元からこの世のものとは思えない可憐な声が響いた。


「にゃあ(……ターゲット確認。チョロそうな女だ。行くぞ)」


 舞が視線を落とすと、そこには白黒のハチワレ猫がいた。

 まるでタキシードを着こなした紳士のような佇まい。その瞳は、歴戦の詐欺師のように深く、それでいて捨て猫のようなあざとい哀愁を帯びている。


 彼こそは、猫による人間支配を目論む秘密結社NNN(ねこねこネットワーク)の新人エージェント……コードネームはまだない。


 ​「あら……迷子?」


 舞の手が肉から離れた。その一瞬の隙に、豚コマは歴戦のオバチャンに奪い去られたが、舞の脳内麻薬はすでに「食欲」から「庇護欲」へと完全に切り替わっていた。


「もしかして、お腹が空いてるの? うちに来る?」


 猫は舞の足にスリスリと身を寄せ、とどめに「サイレント・ニャー(声を出さずに口を開ける必殺技)」を炸裂させた。


『(……ふん。マニュアル通りだニャ。この女、チョロすぎる)』


 こうして、NNNの新たな潜入工作が完了した……はずだった。


 一時間後、埼玉家のリビング。

 そこには三人の人間が集まっていた。舞の妹である長女・あい、三女・美衣みい。そして隣家に住む幼馴染で、三姉妹が密かに(そして強烈に)狙っている独身公務員、茨城恭介いばらき きょうすけである。


「舞姉、また拾ってきたの? 今月厳しいんじゃなかったっけ」


 愛が呆れたように言うが、その目はすでに猫の愛らしさに釘付けだ。


「違うのよ! この子が私を選んだの。『私を連れて帰れ、損はさせない』って目で訴えてたのよ!」


 舞は鼻息荒く力説する。


「まあ、可愛いからいいけど……。名前はどうするの?」


 美衣の問いに、舞は待ってましたとばかりに胸を張った。


「決まってるわ。この賢そうな顔立ち、そして私を癒やしに来てくれた勇気……まさに名犬の風格よ! 名前は『ラッシー』!」


 ……シ~ン、とリビングが静まり返った。


 庭の木の上で様子を伺っていたNNN埼玉支部長・白猫カテジナが、枝から滑り落ちる音がした。


「舞ちゃん……」恭介が恐る恐る口を開く。


「ラッシーって、犬だよね? コリー犬だよね?」


「そうよ! 賢い動物の代名詞じゃない!」


「いや、猫だから!」


 愛と美衣の鋭いツッコミが入る。


「そう? じゃあ、もっと日本人の心に響く、冬の寒さにも負けないタフな名前にするわ」


 舞は猫の顔を覗き込み、閃いたように指を鳴らした。


「『南極物語』のタロウとジロウにあやかって……今日からこの子は『サブロー』よ!」


 ​「「「だから犬ぅぅぅっ!!!」」」


「しかも三男!? タロウ、ジロウときて、勝手に三匹目を捏造しないで!」


「南極物語は樺太犬! 猫要素ゼロ!」


 三人の総ツッコミが炸裂する中、当の猫エージェントは虚空を見つめていた。


『(……ボクは猫だ。誇り高きNNNの工作員だ。それが……サブロー? 実在しない三男犬?)』


 だが、舞は「喜んでるわ! 目が輝いてる!」と解釈し、サブローを抱きしめた。


 こうして、名猫・サブローが爆誕したのである。


 しかし、平和な(?)命名式の最中、庭の向こうから不穏なエンジン音が響いてきた。


「ん? なんだ、あの車」


 恭介が窓から外を覗く。埼玉家の裏手は、豊かな自然が残る里山に繋がっている。


 その登り口に、一台の白いワンボックスカーが停まった。


 車体にはパステルカラーで『NPO法人 クマを愛でる会』と書かれている。


 車から降りてきたのは、お揃いのピンクのベストを着た数人の男女だった。彼らは荷台から大きな袋をいくつも下ろすと、裏山の斜面に向かって中身を撒き始めた。

 バラバラ、バラバラ……


 乾いた音が響く。大量のドングリ、クリ、そしてなぜか廃棄された菓子パンのようだ。


「まあ!」


 舞が窓を開け、感動したように手を合わせた。


「見て、恭介さん! あの人たち、森の動物さんのためにご飯をあげてるんだわ!」


「えっ?」恭介が眉をひそめる。


「いや、あれは……」


「最近、クマが人里に降りてくるってニュースでやってたじゃない?


 きっと『お腹いっぱいになれば、人を襲わないよね♪』っていう優しさなんだわ。

 なんて素敵な活動なのかしら!」


 舞の瞳が、少女漫画のようにキラキラと輝く。完全に思考がお花畑モードに突入していた。


 だが、その横で……サブローと、庭から戻ってきたカテジナの表情は凍りついていた。


 ​『……おい、新人(サブロー)。あれを見ろ』


『支部長。あれは……餌付けですニャ。

 しかも、あんなに大量の餌を民家の裏にばら撒けば……』


『ああ。「ここは美味しい餌場です」と、山中の猛獣たちに招待状を送っているようなものだ』


 カテジナの金色の瞳が鋭く細められる。


 舞の言う「優しさ」は、現実には「悪魔の誘い水」だった。


 クマは学習する生き物だ。


 一度「楽に餌が手に入る場所」を覚えれば、そこに執着する。


 しかも、そこは埼玉家の目と鼻の先。


 このままでは、愛すべき(そして飯の種である)チョロい人間たちが、リアルな熊害の危機に晒されてしまう。


 ​「あの方たちに、お茶でも出しましょうか!」


 舞が呑気にヤカンを持とうとするのを、恭介が「ちょ、ちょっと待って!」と必死に止めている。


『……どうやら、事態は深刻だニャ』


 サブローは、舞に付けられた「サブロー」と刺繍された首輪(フェルト製)を気にする余裕もなく、窓の外を睨みつけた。


『協力者一号『舞』の頭の中は、平和という名の麻薬で満たされている。……我々が動くしかないようですね』


『ふん。人間を守るのも、我々NNNの「管理物件」維持のためだ。

 ……行くぞ、サブロー !

 オペレーション・ベアバスターの開始だ!』


 呑気な舞の背後で、二匹の猫がハードボイルドな視線を交わす。


 勘違いの善意が招く、最悪のパニック。


 埼玉家の裏山を舞台に、NNNと「クマを愛でる会」、そして本物のクマを巻き込んだ、仁義なき戦いの幕が上がろうとしていた。


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