第3話 ガラス玉の秘密

橘奈緒の手は依然として森川青の手首に置かれていて、力は強くないが、根を下ろしたように、彼女に歩みを止めさせていた。


リビングの時計がチクタクと音を立て、窓の外の雨音と合わさって、唯一の背景音になっていた。青は頭を下げて奈緒のスニーカーの先端を見ていた。泥の点が付いていて、先ほど走り出した時に踏んだ痕跡だ。白い靴下との対比が、不釣り合いに目立った。


「逃げてなんかいない」

青の声は乾いて、太陽に裂けた土地のようだった。

「ただ突然、家に帰りたくなっただけだ」


「なら、あのサンゴ礁の写真を見た時、どうしてそんな反応をした?」

奈緒は手を離したが、一歩前に進んで彼女の行く手を塞いだ。

「森川さんは、水野汐を知っているんだよね?」


「水野」という二文字は、まるで鍵のように、青が固く閉ざしていた心の扉を一瞬にして開け放した。心の中にため込んでいた悲しみと罪悪感が一気に溢れ出し、目頭が熱くなった。


突然頭を上げて奈緒を見つめ、青の目には信じられないような驚きが宿っていた。

「どうして……知ってるの?」


「私は以前、彼女と同じダイビングクラブに入っていたんだ」

奈緒の声は柔らかくなり、カーペットに座り直して膝を抱え、視線を窓の外の雨幕に向けた。

「クラブの中で一番上手な女の子だったよ。毎回ダイビングに行くと、誰も見つけられないサンゴ礁を探してきて、海辺で拾った貝殻を私たちに分けてくれた」


青は呆然と奈緒を見つめた。原来如此、奈緒と汐は、早くから知り合っていたのだ。


ゆっくりとカーペットに座り直し、無意識にポケットに手を入れてガラス玉に触れた。冷たい触感が混乱した思考を少しだけ落ち着かせてくれた。


「これは、彼女がくれたんだ」

青はガラス玉を掌の上に載せ、光にかざした。青い砕けた模様が光の屈折で、小さな海のように見えた。

「一番綺麗なサンゴ礁をこの中に閉じ込めたって、言ってくれた」


奈緒は近寄ってガラス玉に指を軽く触れた。

「これ、覚えてる。クラブで自慢げに『一番大事な友達にあげる』って言ってた。その友達が森川さんだったんだね」


青の喉が詰まって、ガラス玉を掌の中で強く握り締めた。指節が力んで白くなった。


「幼稚園から同じクラスの幼馴染みだった」

声は軽く、まるで空気に話しかけているようだった。

「彼女は海が好きで、私は絵が好き。大学に行ったら、彼女は海洋学部でダイビングを学び、私は美術学部で海を描くって約束したんだ」


話を一旦止めて鼻をすすり、続けて語った。

「事故の三日前、喧嘩した。海でダイビングに誘ってきたけど、イラストコンクールの原稿を仕上げなきゃだから、機嫌悪くして『いつも遊んでばかりでだらけてる』って言って、『もう海に付き合うのは嫌だ』って言っちゃった」


「いつもなら、翌日に謝りに来てくるか、家の前で待ち伏せしてくると思ってた」

青の涙がついにこぼれ落ち、カーペットに小さな湿り痕を作った。

「だけど彼女は来なかった。一人で行って、もう帰ってこなかった」


奈緒は何も言わず、ティッシュを彼女に手渡した。


「警察に聞かれたんだ。酸素タンクのバルブが故障していて、古い傷だったらしい。彼女はきっと早くから気づいていたんだ。でも私には言わなかった。行かせてくれないと思ったから」

青は涙を拭いて、声に咽びを混ぜながら言った。

「もしあの日喧嘩してなければ、一緒に行っていれば、バルブの異常に気づけたかもしれない。彼女は……」


「それは森川さんのせいじゃない」

奈緒が彼女の話を遮り、口調は非常に固かった。

「水野汐の性格、私が一番分かってる。決めたことは、どんなに止めても曲げない。たとえ森川さんが一緒に行っても、彼女は必ず潜っていた。それに、機材の故障は事故だ。誰の責任でもないんだ」


「でも私は……」


「自分に罪を着せているだけだよ」

奈緒はテーブルの上の写真集を開き、サンゴ礁の写真の隅を指さした。

「見て、ここに小さなサインがあるよ。汐のだ。この写真を撮った時、『青って子に見せたい』って言ってたよ。『あの子が描く海は、本物の海よりも綺麗だ』って」


青は近寄って見ると、写真の右下には確かに小さな「汐」の文字があり、その横には簡単なイラストのイルカが描かれていた。玄関の棚にある欠けた尾びれの置物と、まったく同じだった。


汐はずっと、二人の約束を忘れていなかった。自分のことを、いつも心に置いていたのだ。


「彼女は一刻も、森川さんを責めてないよ」

奈緒は写真集を閉じて言った。

「ただ、森川さんに元気でいて、海を描き続けて、彼女が見逃した景色を全部見てほしかっただけなんだ」


青は掌の上のガラス玉を見つめた。青い砕けた模様が光の下できらめき、まるで汐が目をキラキラさせているように見えた。


そうだ。汐のように明るく笑う子が、自分を責めるはずがない。


ただ、汐の痕跡を失うのが怖くて、彼女のいない世界に一人で立ち向かうのが怖かっただけなのだ。


「うちに、蒼いバスタブがあるんだ」

青は突然、少しの開放感を込めて話し始めた。

「そこにいると、彼女の声が聞こえるような気がして、まだそばにいてくれるような気がするんだ」


奈緒は笑って、彼女の髪を優しく揉んだ。

「じゃあ次、一緒にそのバスタブを見に行こう。きっと汐も、今の森川さんが描く海がどんなものか、見たいと思ってるよ」


青は頭を上げて奈緒の目を見つめた。彼女の目はとても輝いていて、海辺の星のように、暖かい光を放っていた。


雨はいつの間にか止んでいた。日差しが窓から差し込み、床に斑々とした光の影を作っていた。リビングの多肉植物の葉にはまだ水滴が残っており、細かい光を反射していた。


青はガラス玉を握り締めて、小さく頷いた。


そろそろ、あの蒼のバスタブから歩み出す時が来たのかもしれない。


そろそろ、汐の夢を胸に抱いて、一緒に前に進めるのかもしれない。

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蒼バスとガラス玉 夏目よる (夜) @kiriYuki_01

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