第2話 雨の邂逅

土曜日の雨は突然、天地を覆うように降り注いだ。


森川青は画房の窓辺に座り、コバルトブルーの絵の具の筆を手に、空白のキャンバスに向かって二十分もぼんやりと見つめていた。窓の外の空はさっきまで薄雲が幾筋か浮かんでいただけだったのに、一瞬にして墨色の雨雲に覆われ、大豆粒大の雨粒がガラスに叩きつけられ、パチパチという音が響いた。まるで、汐がかつて海辺で小石を岩礁に叩きつけていた音のようだ。


筆を下ろすと、指先がキャンバスの木枠の縁に触れた。粗い木目が指の腹をこすって痛かった。画房は学校の美術部室で、今は彼女一人きりだ。画架の上には何枚かの失敗作が積まれており、どれも濃淡の違う蒼色の大きなブロックが塗られていて、水に滲んだ悲しみのようだった。


本来は画房で午後一気に、コンクール出展用のイラストを仕上げるつもりだった。だが雨音が心を乱し、落ち着かなかった。青は筆を洗い桶に投げ入れると、青い絵の具が水中に広がり、バスタブの中の波紋と同じように、輪を描いて広がっていった。


思わず立ち上がり、身近の画架をぶつけてしまった。スケッチ用紙がザラリと床に落ちた。


片付ける暇もなく、青はキャンバスバッグを掴んで階下へと走り出した。雨は既に校庭の合成ゴムトラックを覆い、彼女のスニーカーを濡らした。冷たい水が靴紐から靴の中に浸み込み、溺れるような息苦しさを思い出させた。


無意識にポケットに手を入れると、ガラス玉がまだそこにあった。硬い触感が掌に当たり、唯一の錨のようだった。


校門を飛び出すと、雨はさらに激しくなり、視界は雨幕に覆われて霞んでいた。青は傘も持たず、キャンバスバッグを頭に被って家の方向へと走った。街角のコンビニを通り過ぎようとした時、誰かが突然コンビニから飛び出してきて、彼女と正面衝突しそうになった。


「森川さん?」


驚きの声が聞こえた。橘奈緒がコンビニのポリ袋を手に持っていて、中には温かいココアとおにぎりが入っていた。彼女は明るい黄色のレインコートを着ており、曇り空の雨幕の中で異様に目立ち、突然咲き誇った太陽のようだった。


青は足を止め、後ずさりして無意識に避けようとした。彼女は見知らぬ人と接するのが苦手だ。特に奈緒のように熱すぎる性格は、自分を透明なガラス人形のように見透かされているような気がして、居心地が悪かった。


「傘持ってないんだね?」

奈緒は彼女の遠慮を気にせず、二歩近づいてレインコートのフードを彼女の頭に被せようとした。


「こんな大雨で走ったら風邪を引くよ。うちがすぐ近くにあるから、一旦雨宿りしない?」


青は頭をそらして彼女の手を避け、フードが目にかかって視界を遮った。


「大丈夫です、ありがとう」


声は小さく、雨音にかき消されそうだった。だが奈緒は拒否を聞き逃したかのように、手を伸ばして彼女の手首を掴んだ。彼女の手のひらは暖かく、汐の温度とは違う、生き生きとした太陽のような暖かさだった。


心のどこかが突然、ほんのりと柔らかくなった。汐が亡くなってから、誰もこんな風に自分の手を握ってくれなかった。母は汐に関する話題を気を遣って避け、クラスメイトも遠くから同情と距離感を混ぜた目で自分を見ていた。橘奈緒だけが、気づかないフリをする侵入者のように、自分が閉ざした世界に無理やりに踏み込んできたのだ。


「……分かった」


声は依然として小さいが、青は頷いた。


奈緒の家は学校から二つ先の街角の古いアパートだった。三階まで階段を上がってドアの前に立つと、奈緒は鍵を抜いてドアを開けた。玄関には幾鉢かの多肉植物が置かれており、葉っぱは雨に洗われて鮮やかに光り、壁には数枚の写真作品が飾られていた。全てが海辺の景色で、日の出、波、砂浜の足跡——優しくて鮮やかな写真ばかりだった。


「どうぞ、お構いなく」

奈緒はポリ袋をテーブルに置き、タオルを取りに行くと振り返った。

「着替える乾いた服も見つけてあげるね。きっと着れるはず」


青はソファに座り、キャンバスバッグの肩紐を指で摘んでいた。視線は無意識にリビングを掃めた。家は広くないが、暖かく整理されていた。テレビ台には家族写真が置かれており、写真の中の奈緒は目を細めて笑っていて、中年男女の腕を挽いていた。だが写真の端には細い亀裂が入っており、誰かが意図的に折ってから貼り直したようだ。


クラスメイトの噂を思い出した。奈緒の両親は去年離婚して、彼女は母親と暮らし、父親は別の街へ引っ越したという話だ。


誰にでも、隠し事があるのだね。


奈緒はすぐにタオルと服を持ってきた。白いゆったりしたTシャツと薄い灰色のジャージのズボンだった。

「とりあえず着てね。ココア温めてくるから」


青はタオルを受け取って顔の雨を拭き、服を持って浴室へと入った。


浴室は狭く、タイルは薄いピンク色で、自宅の冷たい蒼色とは全く対照的だった。洗面台にはイチゴの香りのボディソープが置かれ、そばにはウサギの形の歯磨きコップがあり、どこにでも少女らしい可愛らしさが溢れていた。


青は濡れた服を脱ぎ、奈緒のTシャツに着替えた。服には洗剤の淡い香りと、少しの日差しの匂いがついており、いつまでも張り詰めていた神経が、初めて緩んだ。


鏡の前で髪を整えて浴室から出ると、奈緒は既にピンク色の猫柄のマグカップに入ったココアをテーブルに置いていた。彼女はカーペットに座り、写真集をめくっていて、青が出てきたのを見て手招きした。

「早く来て!私が煮たココア、美味しいよ」


青は彼女の隣に座り、ココアを手に取って一口飲んだ。温かい液体が喉を滑り込み、甘い味が体中の冷えを追い払った。長い間空っぽだった胃も、少し暖かくなった。


「あのね」

奈緒が突然頭を上げて写真集の一ページを指さした。

「先週海で撮った写真だよ。このサンゴ礁、超綺麗でしょ?」


写真の中のサンゴ礁は深海の中で蛍光のような光を放ち、蒼い海水に包まれて、まるで海底に隠された童話の世界だった。


青の指は突然、マグカップを強く握り締めた。熱いココアが手にこぼれたが、痛みを感じることもなかった。


これは、汐が自分に見せに行くと言っていたサンゴ礁だった。


「どうしたの?」

奈緒はすぐに写真集を閉じて彼女の手を握り寄せた。

「火傷した?やけど薬取ってくる!」


「大丈夫です」

青は手を引き戻し、マグカップをテーブルに置いた。声には隠しきれない震えが混ざっていた。

「……もう家に帰らなきゃ」


立ち上がってソファに置いたキャンバスバッグを取ろうとしたが、奈緒に強く引き止められた。


「森川青」


奈緒は初めて名前まで呼び捨てにして、今までにない真剣な口調で言った。

「一体何を逃げているんだ?」


青の体は一瞬固まり、背中を奈緒に向けて肩が細かく震えた。


雨は依然として窓を叩き、重たい音を響かせていた。浴室の蛇口から一滴の水が落ちてタイルに当たり、まるでガラス玉が床に落ちたような澄んだ音がした。


彼女は分かっていた。長い間隠してきた秘密が、もう隠しきれなくなりつつあるのだ。

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