怒涛のリリーエ
サファイロス
プロローグ
夜は深く、空は低かった。
雲が月を隠し、街路灯の光だけが雪のない地面を鈍く照らしている。
この土地の夜は、やけに重い。
寒さのせいだけではない。
人の欲と、油と、酒の匂いが、地面そのものに染みついているからだ。
昼に取り繕われた秩序は、夜になると必ず剥がれ落ちる。
ここでは、それが常だった。
女は、黒いコートを羽織り、軍事施設の外周を歩いていた。
歩幅は小さく、足取りはおとなしい。
視線は伏せ、肩をすくめる仕草も、寒さのせいにしている。
――怯えた女。
それが、この場所で最も都合のいい姿だった。
検問所の灯りが、彼女を照らす。
「おい」
兵士の声と同時に、下品な口笛が鳴った。
「今日は当たりの日か?」
笑い声。
値踏みするような視線が、遠慮なく全身をなぞる。
隠そうともせない欲望が、露骨に滲んでいた。
「……身分証」
言葉だけは事務的だが、態度はだらしない。
吐く息には、酒の匂いが混じっている。
女は何も言わず、カードを差し出した。
指先が、わずかに震えているように見える――。
「はは……怖がらなくていいって。
どうせ、あとで俺たちが“面倒みてやる”んだからよ」
背後で、別の兵士が下卑た笑い声を上げる。
「ほんと、上はいい趣味してるよなぁ。
武器より、こういう“消耗品”に金かけるなんて」
カードが戻ってくる。
「……行け」
その声には、すでに所有したつもりの響きがあった。
まるで、触れたあとのように。
(当然よね)
女は内心で、静かに呟く。
(あなたたちは、“女”を人だと思ってない)
だから疑わない。
だから警戒もしない。
そして、簡単に背中を向ける。
――そこが、終点だとも知らずに。
●
割り当てられた部屋は、簡素だった。
硬いベッド。
薄いカーテン。
壁には、長年の使用を物語る染みが残り、
空気には古い汗と消えきらない香水の匂いがこびりついている。
ノックは、遠慮がなかった。
「おーい、開けろよ」
鍵が外される音。
軍服の男が、当然のように踏み込んでくる。
「……思ったより、黙ってるな」
笑いながらブーツを脱ぎ捨て、
部屋の中を勝手に見回す。
「まあいい。喋らなくても、使えりゃ問題ない」
女は何も言わない。
視線を落とし、従順に立っている。
「そうそう、その顔だ。そうやって、何も考えてなさそうな顔でいろ」
灯りが落ちる。
部屋の空気が、一気に濃くなる。
酒と汗と、無遠慮な欲の匂い。
ベッドが軋み、金属が鳴る。
雑で、下品な音だけが、時間を刻んでいく。
女は天井を見つめていた。
剥がれかけた塗装の線を、ひとつ、またひとつと数える。
(……予定通り)
感情は切り離されている。
ここで起きていることは、出来事ではない。
任務の一部だ。
やがて、男の動きが鈍り、
満足したような息が、背中にかかる。
「……ったく。いい仕事しやがる」
その声には、もう興味がなかった。
そして――
すべてが終わったあと。
男は、満足したように背を向けていた。
荒かった呼吸が、次第に整っていく。
「……酒、もう一杯……」
言葉は、途中で途切れた。
女は、音を立てずに起き上がる。
床に落ちていた軍服のポケットから、薄い刃を取り出した。
光を反射しない処理が施された、作業用のナイフ。
この距離、この角度。
迷いはない。
振り返ろうとした、その瞬間。
――首筋。
刃は、正確に入る。
力は最小限。
空気が抜ける、短い音。
体が跳ね、指先が空を掻く。
数秒後、力が抜けた。
終わりだ。
女は刃を引き抜き、シーツで静かに拭う。
血は少ない。
床を汚すほどではない。
「……おやすみ」
布を胸元までかけ、
その場を“片づける”。
部屋に残ったのは、
酒と汗と、
急速に冷えていく死の匂い。
女は、ゆっくりと息を吐いた。
(……任務、終了)
そこで、表情が変わる。
鏡代わりの窓ガラスに映る自分を一瞥し、
乱れた前髪を指で払う。
唇を指先でなぞり、軽く笑った。
「ふふ……」
それは、怯えた女の笑みではない。
罪悪感でもない。
すべてを理解したうえで生き残る女の、余裕の笑みだった。
「便利でしょう?」
誰にともなく、心の中で囁く。
「……こういう女は」
踵を返す。
背中には、色気と危険が同時に漂っていた。
●
地下三層。
研究施設の最深部。
装甲扉。
認証。
解除。
重い音とともに、扉が開く。
そこにあったのは――
真っ黒な兵器だった。
光を吸う装甲。
塗装ではない。
反射そのものを拒む、暗色の素材。
肩部、胸部、脚部、背部――無数の展開式ハッチ。
全身が、武装庫だった。
女は、わずかに息を吐く。
「……シュヴァルツ・リリエ」
黒百合。
純潔と、高貴。
そして――裏切り、復讐、死。
兵器に与える名としては、あまりにも出来すぎた花言葉。
「名前にまで……皮肉を込めるなんて」
一歩、踏み出す。
床に反響する足音は、静かだ。
だが、機体はそれに応えるかのように、内部で低い待機音を返した。
コクピットへ。
ハッチが閉じ、外界の音が遮断される。
闇。
そして、光。
神経接続――開始。
だが、まだ完全ではない。
〈SYSTEM BOOT〉
〈CONTROL AI : STANDBY〉
〈OWNER AUTHORITY : EXTERNAL〉
「……外部、ね」
女は小さく笑い、
操縦席の脇から折り畳み式の物理キーボードを引き出した。
指先が、迷いなく走る。
起動中。
完全に目覚める前の、わずかな隙。
彼女はそこに、躊躇なく割り込む。
所有権。
整備名義。
遠隔制御の痕跡。
ひとつ、ひとつ。
他人の名前を剥がすように、消していく。
〈WARNING〉
〈AUTHORITY CONFLICT〉
「うるさい」
短く呟き、入力を重ねる。
先ほど“接触”した男から抜き取った一次認証。
それを鍵に、奥へ、さらに奥へ。
〈AUTHORITY LEVEL : OVERRIDE〉
〈PRIMARY OPERATOR : REASSIGN〉
表示が切り替わる。
〈OWNER : SCHWARZLILIE〉
「……最初から、わたし」
続けて、首輪を探す。
遠隔命令。
停止コード。
自己破壊の影。
女はそれを“消さない”。
ただ、届かない場所へ沈める。
〈REMOTE CHANNEL : MUTED〉
「これで――誰も、あなたに触れない」
一瞬の沈黙。
そして。
〈――SYSTEM ONLINE〉
〈PILOT AUTHENTICATION : COMPLETE〉
低く、落ち着いたAIの声。
世界が、はっきりと立ち上がる。
弾数。
照準。
冷却率。
推力曲線。
姿勢制御。
理解ではない。
支配だった。
(……最初から、わたしのもの)
女は、操縦桿に軽く指を置く。
シュヴァルツは、
一拍の迷いもなく応えた。
●
警報。
地上に主力戦車。
上空に軍用ヘリ。
赤い警告灯が、コクピット内をゆっくりと染める。
女は、外部映像を流し見するだけだった。
数。配置。間隔。
それらを“見る”というより、“もう知っているものをなぞる”ように。
「整ってる。……でも、素直すぎ」
操縦桿は、握らない。
親指と人差し指で、軽く触れるだけ。
それだけで、シュヴァルツは滑るように前へ出た。
「ん〜……♪」
鼻歌。
戦場には似つかわしくない、曖昧で気の抜けた旋律。
戦車砲が火を噴く。
だが、女は一拍も慌てない。
機体を半歩ずらす。
回避ではない。
“弾道の外に置く”だけの操作。
砲弾は、装甲をかすめることすらなく、虚空を裂いた。
「はい」
胸部ハッチ、展開。
対装甲弾、発射。
一両目。
正面装甲、貫通。
内部で、静かに誘爆。
「一つ」
鼻歌が、途切れない。
二両目が砲塔を旋回する。
照準が合うより先に、女はもう次を決めている。
脚部ハッチ。
散弾を、地面すれすれに。
履帯が砕け、戦車はその場で沈黙した。
「二つ」
三両目、後退。
「……悪手」
背部ミサイル。
撃った瞬間、もう視線を切る。
直撃。
炎。
地上は、沈黙。
女は、鼻歌を一拍だけ止めて、肩をすくめた。
「片づくの、早すぎ」
上空。
ローター音。
軍用ヘリが高度を取り、ミサイルを放つ。
女は、わざと機体の背を見せる。
「ん〜……♪」
今度は、少し楽しげに。
推力を落とす。
鈍い加速。
“逃げているように見える”挙動。
同時に、後方へフェイクの熱像。
推力の嘘。
古典的だが、確実な罠。
ミサイルが、偽の背中に吸い寄せられる。
女は、半拍遅れて操縦桿を弾いた。
反転。
急加速。
角度は、計算済み。
「……今」
迎撃ではない。
誘導の終点に、自分で立つ。
閃光。
爆炎。
一機、消失。
残る機体も、同じ軌道に誘われる。
「欲張りすぎ」
短い鼻歌とともに、二つ目、三つ目。
夜空は、急に静かになった。
女は、ようやくコンソールを叩く。
――裏コマンド、起動。
表示反転。
非表示メニュー。
[WEAPON PURGE:MANUAL]
[SELECT:USED ONLY]
[EJECT VECTOR:FREE]
「……切り離し」
使い切った弾倉。
過熱した補助火器。
空のラック。
ロック解除。
だが、放り捨てるだけではない。
慣性同期。
射出角、即席計算。
金属塊が、弾丸のように夜を切る。
逃げ遅れたヘリのローターに直撃。
破断。
墜落。
「ね」
鼻歌まじりに、呟く。
「終わった武器は、最後まで使うの」
シュヴァルツは、軽くなる。
重心補正。
推力最適化。
機体が、ひと回り“素直”になる。
そして。
全弾発射。
格納庫。
管制塔。
燃料区画。
弾薬庫。
連鎖爆発。
夜空に、黒い百合が咲いた。
女は、操縦桿に肘を預けるようにして、鼻歌を再開する。
まるで、
散らかった部屋を片づけ終えた後みたいな顔で。
上昇。
炎の余韻を背に、機体は高度を保つ。
女は、ふと北の空を見る。
雪の匂い。
冷たい風。
「……北海道、か」
鼻歌が、自然に消える。
そして、笑う。
「いい子だと、いいんだけど」
操縦桿に指を添える。
シュヴァルツは、迷いなく応えた。
黒い影が、白い闇へと溶けていく。
次の花が咲く場所を、
まだ誰も知らないまま。
怒涛のリリーエ サファイロス @ICHISHIN28
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。怒涛のリリーエの最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
参加中のコンテスト・自主企画
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます