それぞれの夜 ④

「では、また明日」


 会館の外まで見送りに出てきてくれたフランジェスに一礼し、ルーカスは馬車回しに停められていた最後の一台に乗り込んだ。


 しばらく馬車に揺られ、門を出たところで—外を見なくても揺れ方でそうとわかる—身を乗り出し小窓を開けると、馭者に声をかける。


「コリン、礼拝堂に向かってくれ」

「かしこまりました」


 王都に出るとき、いや、どこに行くにせよルーカスを送り届ける役を担うまだ若いこの青年は、これだけで行き先を把握する。それは、はす向かいに座る従者も同じだった。


 ネルカは眉を寄せている。

 チャームポイントの広い額に、わずかに皺が波をつくった。


 彼女の睨みを受け流すように、ルーカスは目をつぶって背もたれに身体を預けた。

 普通の馬車であればすでに尻に負荷がかかるような道でも、これは衝撃を吸収して眠りに誘うようなリズムを提供してくれる。

 ルーカスは、馬車にずいぶん金をかけていた。それはもちろん、自分の快適な移動のためでもあったが、他の貴族や賓客を乗せることを想定したからでもある。折につけ、乗り合わせることは少なくない。そのときに貧相で乗り心地の悪い馬車であったら、ルーカスのみならず領地や父、あるいはその父の庇護者のサビリテまで侮られてしまうし、反対に品位のある調和のとれた馬車であれば、それだけでよい印象を与え、会話や交渉事が滑らかに進行する。


 馬車という移動する密室を、ルーカスは重く見ていた。


 似た理由で、城の応接間や大広間にもルーカスは気を配っている。

 また、自分やそば仕えの従者、ないしは各部門の代表として他貴族らと対する者たちの服装にも金を惜しまない。


 たとえばネルカの服は、貴族のなかでは身分の低い者の証の灰色ではあるが、上衣脚衣ともに一目で上等のものだとわかる鮮やかな色合いをしている。

 コリンの服もやはり、暗褐色ではあっても同じ身分の者らで並んだときには、ひとり、際立つような濃い色合いだった。


 たしかに実の伴わない華やかさは虚しいだろう。

 が、表皮は内実を表しもする。逆もまたしかり。

 それらは互いに影響を与え合って質のあげられていくものだと、ルーカスは父に連れまわされた苦渋の社交生活のなかで学んでいた。


「疲れているのなら、早く帰ればいいのに」


 ネルカがぽつりとつぶやいた。

 ルーカスは目を開け、薄闇にぼんやりと浮かびあがる、不服そうなネルカの顔を眺めた。


「ネルカも疲れただろう」ルーカスは妹のような長い付き合いの従者に言う。「付き合わせて申し訳ないとは思っているよ」

「思っているだけで、帰ったりはしないんでしょ?」

「邸に寄ってきみだけ降ろすことはできるけど」

「そんなこと承知すると思います?」

「いいや」

「だったら黙って寝ていてください。苛々するんで」


 強烈な物言いに、ルーカスは苦笑した。

 しかしまあ、しかたないと諦めている。


 傍から見ているだけでは意外にも思われる頑固さのあるルーカスに、一番振りまわされているのは彼女だった。

 文句を言う権利くらいあるとルーカスは思っていたし、ネルカも思っている。

 ルーカスは顔を逸らし、窓に目をやる。藍色に染め上げられたカーテンが、ルーカスの座っている側が隠れるように半分まで引かれていて、もう半分で光源が確保されている。


「ぜんぶ閉めましょうか?」とネルカが尋ねた。

「いや、むしろ開けようか」


 ルーカスが伸ばした手がたどり着くより前に、ネルカが身を動かしてカーテンを思い切り引いてしまう。


「一応お忍びなんですよね?」ネルカは左の目尻から頬までをひくつかせていた。「だからわざわざこんな夜に向かわれているんですよね?」

「日中に堂々と王都の礼拝堂に行くのは、あまりよくないじゃないか」

「ええ、よくないと思います。頭が沸いたかと正気を疑われるでしょうね。ええ、お忍びでいくべきです。そうやって私も自分を納得させています」

「どうしてそんなに怒っているんだ」

「いいから早く寝てください。どうせ起きていても余計なことしかしないんだから」


 ネルカは元の位置に移動し、そちら側のカーテンも閉めきった。

 闇の帳が瞳の前にすっと降りてくる。

 まあいいかと、ルーカスは暗闇とのあいだに自前の帳を下ろす。


 うっすらと靄のかかった頭のなかで、様々な影がシルエットだけ思わせぶりにちらつかせては消えていた。

 どれを追いかけていこうとも、なかなか思えない。


 食事の席だと、ルーカスはあらかじめ酒は苦手だと伝えるようにしている。ただ、じつのところそれは、「人前で酔いたくない」ということに過ぎない。酒を呑むこと自体はむしろ好きだった(硬く緊張している頭が緩んでいく感覚を、嫌いな人はいるのか?)。だが、その感覚に陥っているとまったく頭が回らず、そのために愚かな物言いを繰り返しかねない危険性を、少し大げさなほどにルーカスは恐れていた。


 そういうわけで、たいてい酒宴の席では半端に飲み、半端に酔いがかすめていくことになる。

 これは結構な苦痛だった。

 解散した後に、ひどく飲みたい気持ちになるのだ。


 じきに、ルーカスの脳内では、杯が明白な形を取った。


「りんごの蒸留酒が出されたんだ」とルーカスは唐突に言った。

「え? ああ、こっちでもひと瓶提供されましたよ」とネルカは言った。

「飲めた?」

「一口だけ」

「うまかった?」

「それはもう」

「だよな」

「無理ですよ」とネルカは言った。

「まだなにも言ってない」とルーカスは言った。

「あれ、とんでもない量の砂糖を使っています、絶対。あんな贅沢のために砂糖を大量に仕入れる余裕はさすがにないでしょう?」

「ま、そうだよな」


 沈黙。

 静寂を、大きなため息が破った。


「でもまあ」とネルカは言う。「ルーカス様が個人的に、少量飲む分くらいなら、作れないこともないかもしれませんね」

「さすがにそれだと、みんなに申し訳ないよ」

「じゃあ、みんなで飲めばいいじゃないですか。夜中にひとりで飲んでいるワインとか蒸留酒を我慢すれば、それくらいの余裕は生まれるんじゃないですか?」

「そうかな」

「ええ、そうですよ。帰ったらケイトさんに訊いてみましょう」

「……ありがとう」

「いいですよ、私ももう一度ちゃんと飲んでみたいですし、みんなも話を聞いたら我慢できないでしょうし」


 ルーカスは、興味津々の体で酒を囲む、自領の部下たちの姿を思い浮かべて口元を緩めた。


 馬車は徐々に上下動を大きくしながら進んでいる。王都は広い。現王が長い慣習を反故にし、城の北側の開発を始めたことでさらに規模が大きくなった。

 新たな街並みが築かれつつある北側や、城に近い場所こそ整備が進んでいくものの、王都でも城から離れた端のあたりには、都の活気や華やかさに置いていかれたり、それを支えながらその仕事を認められていなかったりする人々が、落ち葉を庭の隅に掃いていったように追いやられていた。


 市壁は、まず城および貴族の邸が集まるところを取り囲んでいる。続けて、王都の人口の大多数を占める市民が住み暮らす場所を囲むように弧を描く。


 礼拝堂はその市壁と、王都の輪郭を形作るさらにその外側の市壁とのあいだにあった。


 通行門で訝し気に目的を尋ねる門番とコリンとの会話が漏れ聞こえる。しかし、とくにルーカスの顔を確認されたりすることもなく、通されていく。一つ目の門はそうした会話すらなかった。帰りはもう少し手間取るかもしれないが、いずれにせよ、王都とは思えぬ気軽さである。


 王都のなかは平和なムードに包まれている。

 外の問題が内側に侵攻してくるとは、まるで考えていないのかもしれない。

 楽に行き来できるのはありがたいが、若干の不安にも襲われる。


 もし危機がすぐ身近で起こったとき、混乱を抑えるべく動ける人間はどれほどいるのだろう?


 むろん、そんなことはルーカスの考えることではない。

 ないが、フランジェスのことを思うと、つい気になってしまうのだった。


 二つ目の門を越え、さらにしばらく進んでいく。道は荒れ、ときに壁が間近にくるほど狭まり、曲がりくねる。時折、コリンが道で寝ているらしい浮浪者を退かす声をあげる。

 彼が馬車の通れる道を知らなかったら、とうに降りて歩く必要がある道のりだった。

 やがて馬車が停止した。

 小窓が開き、まだ少年の面影が残るコリンの顔が覗きこむ。


「着きました」


 建物の密集を抜けた、わずかに開けた場所である。この先は木々が残されて小さな森となっていて、馬車で進むことができない。向きを変える意味でも、ここが限度だった。

 ネルカに続いて馬車を降りたルーカスは、凝り固まった身体を軽く伸びをしてほぐした。


「じゃ、行ってきてください」


 はやく行って帰ってこいと言いたげなネルカの口調である。


「コリンも」彼女は馭者台から降りたコリンに顔を向けた。「馬車は私が見ていてあげるから行っておいで」


 コリンは頭を下げる。


「いつもありがとうございます」

「いいのよ」とネルカは笑った。「でも、祈っているあいだにこの人が眠ったら、ちゃんと叩き起こして連れて帰ってくるんだよ」

「わかりました」


 コリンがにこりと笑うと、ネルカはよしと頷く。それから腰に下げた皮袋をふたつ取り外してルーカスに差しだした。


「ネルカも行かなくていいのか?」とルーカスは受け取りながら尋ねた。

「いいもなにも、誰か待っていなくちゃいけませんから」

「盗んでいく勇気や豪胆さのあるやつが、このあたりにいるとは思えないけどね」

「だとしても、ほっぽりだしていくわけにはいかないでしょうが」と呆れた顔で言う。「それにどうせ祈ることなんて、早く帰れますように、くらいですから。隣でそんなこと祈られていたら、叶うものも叶わなくなりますよ」

「わかった。悪いけど、頼むよ」

「はいはい。なるべく早く帰ってきてくださいねえ」


 雑に手を振るネルカに押されるようにして、ルーカスは歩きだした。数歩後ろを、コリンが付き従う。彼に受け取った皮袋の片方を差しだすと、彼は一瞬何か言いたげに口を動かしたが、声は出さずに頭を下げて受け取った。


 わずかな傾斜になっているほとんど整備されていない道を、靴を汚しながら歩いていく。じきに木造の家屋が二軒並んでいる場所に出る。雨風に晒され、いまにも腐り落ちてしまいそうな湿ったような色をしたそれら一階建ての家屋に違いはほとんどない。張られた板が規則なく作る模様で差異が生まれているくらいである。


 向かって左手の建物に近づいていき、ルーカスは戸を叩いた。

 中から扉に駆け寄ってくる足音が聞こえる。

 その勢いと同じくして扉をがばっと開いてくれたのは、ワンピース型の土色の長衣を着た若い女性である。


「お待ちしておりました、ルーカス様!」

「こんばんは、サリナ」ルーカスは、彼女が自分を待ち望んでいる理由をきちんと承知していた。「菓子はコリンが持っているよ」


 サリナは顔を輝かし、抱きかかるようにコリンに詰め寄る。

 コリンが持つ皮袋を開き、中身を覗きこんだサリナは、わあと喜色に溢れた声をあげた。


「こんなによろしいのですか?」

「子どもたちの分は残しておいてあげて」


 サリナは頬を膨らます。


「それくらいわかってます、ルーカス様。そこまで食い意地は張ってません」

「十分意地汚いですよ、サリナ」


 入り口まで現れた司祭が呆れた顔をしながら言う。

 彼は抗議するサリナを無視して、ルーカスに中に入るよう促した。


「じゃあ、コリン、ちょっと待ってて」とルーカスは言った。「サリナ、彼の相手をよろしく」

「はい、もちろんです!」


 そう言ってすぐに何を食べようかと検討を始めるサリナと、それを優しい表情で見つめるコリンの姿をつかの間見つめ、ルーカスは建物のなかへと足を進めた。

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2026年1月2日 17:00
2026年1月3日 17:00

空の詩 香伊槻 @kaituki

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