それぞれの夜 ③

「帝国演劇は好かん」とフランジェスは言い放った。

「なぜです?」


 グワン・ガルヂアンが、相変わらずの軍人らしい生真面目さで尋ねる。


 彼は、精悍な顔立ちを心根の謹直さが引き締めている偉丈夫だったが、つねに潤いを湛えている瞳の動きが乏しい表情を補い、堅さを緩和して、彼にとくべつな愛嬌をともなわせていた。


 ルーカスはいつも、年々凄味を増していくこの同い年の男の、透き通った、清冽な泉のような瞳と対するたび、なんだかほっとするものを感じた。

 それはフランジェスもおそらく同様であろうし—グワンが合流してから明らかに舌鋒に拍車がかかっていた—二人に限らず、誰もが彼には一目置き、敬意を抱かずにはいられない。


 まったく王国の守護者の呼び声高い父譲りの人徳である。


「我が領でも帝国劇は好評ですが」とグワンは言う。「ビールと演劇だけは帝国に学ばねばならないと、父も酔うたび申しております」

「ふっ」


 思わず、というようにフランジェスが笑いをもらした。


 おそらくクリブレ・ガルヂアンが自慢の白髭を泡で汚し、赤ら顔で若者に絡んでいるところを想像したのだろう。

 ルーカスも、百八十を越えるグワンよりさらに頭ひとつ大きい、王国随一の大将軍が杯を片手にくだを巻いているところを想像して、自然と笑みが湧いてきた。


「あれも意外と文化人よな」フランジェスが言う。

「剣より書と戯れていたい、が口癖でありますから」グワンは頷いた。

「いくつになる?」

「来年六十に」

「そうか、もうそれほどの歳か……早く引退させてやれ、グワン。書に没頭する元気のあるうちにな。といっても、世情が落ち着くまでは無理だろうが」


 グワンは目礼し、そのような心遣いを父にくださったことへの感謝と、自らの精進の意志を示した。


「しかし、そうか、クリブレも六十を迎えるか。女狐もとうに六十を越していたはず……するとサビリテも」

「先月、六十六の御歳を迎えられました」視線を受けたルーカスが補足した。

「そうだよな、当たり前なのだが」


 みな、歳を取ったな。


 息をこぼすようにフランジェスは呟き、杯に口を付けた。社交に勤しむ人々の姿を眺めやる横顔に浮かぶ憂いは、いったいなにを予期するがゆえか。

 定期的な情報交換を行い、そのたびに王都で放蕩の限りを尽くしているなどといった噂とはかけ離れた世情理解の深さと知識の幅、そこから繰り出される善後策の斬新さに学んでばかりのルーカスには、その憂いの本質を掴むことができずにいる。


 しばらく三人は、無言で杯を傾けた。


「ところで」口を開いたのはグワンだった。「殿下はなぜ帝国演劇を評価なさらないのでしょう」

「それか」


 フランジェスは口角をあげた。


「ずいぶんひいきにしているようだな」

 グワンは愚直に頷く。「正直に申せば、私も帝国演劇に傾倒しているひとりであります」

「うむ、あれは将兵に受けがいいだろう」

「というと?」

「そう構えるな」


 フランジェスは苦笑し、ぐっと身を乗り出すようだったグワンを制した。


「おれはべつに、帝国演劇を評価していないわけではない」

「そうなのですか?」


 グワンは目をしばたたかせた。


「しかし好かないと先ほど」

「そう、好かない。つまりこれは好き嫌いの話でしかない」


 グワンの眉間に皺が寄る。

 好きではないは、評価しないということではないのか。

 そう全身で表現していた。


「グワンにも、認めている帝国の将のひとりくらいはいるだろう?」


 ルーカスが助け船を出せば、頭の固いグワンではない、それだけで得心したようだった。


「なるほど、たしかに」

 グワンはふたたびフランジェスに視線を戻す。

「敵とはいえ、思わず感心してしまう武や立ち振る舞いの将がおります。むろん、好き嫌いを問われれば、その問い自体に眉を顰めることになりましょうが、正直、彼らの在り方には敬意を抱いています」


「まあ……だいたいそういう話だ。おれは帝国演劇が持つ詩的感性、構築に対する鋭敏な勘などには敬服している。美と対する真摯さもすばらしい。王の言うように、学ばなければならぬものは多い、いや、多すぎるくらいだ。それを肥に育つだけの土壌すらまだ王国にはないがね……それはさておき一方で、そこに描かれている主題—演劇のみならず、帝国そのものを通底している理念が肌に合わん。これはどうしようもないことでな」

「その帝国的理念というものが、我らとどのような関係があるのです?」


 グワンは間接的に自分—自分たち将兵と帝国との近さを指摘されたように感じたようで、若干心外そうにしている。


「おれはそれを克己的理想と呼んでいる」

「はあ」

「つまり」


 フランジェスは一人走りにすぎたと思ったか、表情を和らげた。


「帝国の基本理念は克つことなのだ。欲望に流れる甘さを制御し、苦難から逃げだす弱さを鞭打ち、より強き者になること。そうして己に克つ人間こそが称賛されるべき素晴らしい者だという」

「しかし殿下」グワンは口を挟んだ。「それは当たり前のことではありませんか? 強き者を貴ぶ心は王国にも当然ございます。それを帝国特有の理念となされるのは、どうも納得しがたいのですが……」

「そうかもしれない。おれがひねくれていて、考えすぎているのかもしれぬ」

「ひねくれているとは、申し上げておりません」


「いい、おれだってそれくらい自覚しているさ。兵に限らず武に限らず、人を守り、家族を守り、土地を守り、国を守るためには、より強くあらねばならない。何かを成さんと欲するとき、己をろくに律することのできない人間に道が開けるか?

 そうだな、おれは根が怠惰で、持続というものを知らぬから、責められている気がして不快なだけなのだろう。ただ、どうにも帝国劇を観ていると反発心が起こるのをとめられないのだ。弱さがあんまりにも容易に否定されてはいないか、と思ってしまう。しばしば天命やら使命やらが持ち出されるが、それはまさに、人の本質が弱さであることの証明ではないだろうか?」


 フランジェスはそこまで語ると、沈黙に落ち込んでしまった。

 語っているうちに酔いが醒めていって、ふと生じた温度のない正気のなかにひとり入り込んでいくように。


 その様子に責任を感じたのか、グワンが助けを求めるようにルーカスを見やった。

 瞳が子犬のように懇願の色を見せている。


 他方、フランジェスの肩からは、自分の歩いてきた道にはじめて疑いを抱いた青年のような心細さが発されていた。


 ルーカスはしばし両者を交互に見やると、声を漏らして笑った。


「いや、失礼」


 怪訝そうにこちらを見たふたりに、ルーカスは微笑みながら謝罪する。


「なにがおかしい?」

 ルーカスに縋っていたグワンは責めるような口調で言った。

「おかしくて笑ったわけではない」とルーカスはまだ笑みを口角にひっかけながら言った。

「だったらどうして笑ったんだ」

「ほっとしたのさ」

「は?」

「今日二人に会えてよかった」

「なんだ、どうした」グワンは瞳を心配に染めた。「忙しすぎておかしくなったか? そんなに追い込まれているんだったら相談しろ、水臭い。一個分隊くらいなら、すぐに用意してやる。あ、分隊と聞いて侮るなよ。うちの兵は精鋭ぞろい、そこらの小隊など目にならん」


 ルーカスは申し出を拒むように手を振った。


「ありがとう、グワン。気持ちはうれしいけど、うちは王国の門番たるガルヂアンに兵を寄越させるほど逼迫していない」

 これは遠慮や強がりではなかった。

 ルーカスの領地は、他の貴族らの領地に比べ、ずっと被害が少ない。

 それに他家に救援を求めるということは、すでに管理経営に破綻が起きているわけで、領主失格の印を押されてビニン一帯の領地は父に還すことになるだろう。


 そんな話をしているうちに、先にフランジェスがした「明日にしよう」という提案に反して、徐々にそれぞれの現況の報告と情報共有へと話題は移っていく。


 別れ際、グワンは再度、分隊の派遣を申し出てきた。ルーカスの身と心を慮るグワンの姿に自然と微笑みが浮かぶ。

 その脈絡のない微笑みが限界の証と、グワンは思うようだった。


 しかしそうではない。

 そうではないが、詳しい説明はしない。

 うまく伝えられる気がしなかった。

 じんわりと身体中に広がるように生じる、友がそこに存在している、ということの歓びと心強さを。


                   *


 王国では、饗宴や舞踏会における退場の順序は、位の高い者からと決まっている。王族や四大諸侯らは別格として、他の貴族たちの階級順序は明快ではない場合も多く、むしろこの帰宅順序によって、その上下関係が公然と知らしめられるといったことも頻繁に起こった。


 今回、しばらく界隈の語り草となるような、大きなインパクトのある政治劇は起こらなかったものの、小競り合いが多発している現状でもあり、貴重な情報は数多く落とされていった。


 ルーカスも本来、この無言の攻防に参加せねばならない。親がいれば子はたいていともに退出となるから、なにも考える必要もないのだが、この場に父はいない。


 ヌート家は、ルーカスの父アムジャンが四大諸侯の一角を担うサビリテ・オンテシロイの厚い信頼を得て、一代で小領主から中堅貴族へとのし上がった新興である。

 幼き頃からルーカスは、退場の際に父が戦地に赴くような緊張と覚悟を全身にまとっていたのをそばで感じつづけていたし、そうした鎧を装備せねば刺殺されてしまいかねない視線を受けつづけてきた。


 ルーカスにとって社交の記憶とは、こうした戦の記憶と同義であった。


 元来、プライドの鍔迫り合いが苦手で、張りあうくらいなら降りてしまいたいと考えるルーカスは、父の代理として社交の場に送られたときはまだしも、父から領地を封されて試験的側面も兼ねた管理経営を開始し、自分自身が招待を受けるようになってからはとくに、どれほど魅力的な集まりであっても、いつも最後の時間の憂鬱さに身体が気だるくなる思いをした。


 今晩は、その苦しみに呻く必要はない。


 この晩だけは、毎年その苦しみから解放されている。


 位の高い者から退場を行う、ということは、最後に残るのは最も位の低い者である。主催がそうした者と残されることを避けるため—ではないかと、あるときルーカスは思い至った—主催はひとり、その順序とはべつに最後に帰すものを決めるしきたりになっている。もちろんそこにもつねに政治的思惑はつきものなのだが、フランジェスは誕生会において、毎年ルーカスを指名している。「せめて最後は友を見送らせてくれ」。これが宴会好きの王の口実に使われているフランジェスの出した、ただひとつの交換条件だった。


 長くかかる退場儀礼のあいだ、ルーカスは手持ち無沙汰となる。


 フランジェスはその口ぶりとは裏腹に—「この時期にこんなところにくるやつに、ろくなのはいない。宴会好きの王に頭から侵食されたボケ貴族か、放蕩王子にまで媚を売らなければならない没落貴族かのどちらかだ。この場でまともな貴族はお前らふたりだけだよ」—律儀にひとりひとりの挨拶に対応している。

 彼のなかに存在する、こうした根本的な部分での善良さが、広がっている噂と有力諸侯からの評価の相違が生まれる要因のひとつであった。


 愛想の悪いむっつりとした、不承不承と書かれた顔で短く言葉を交わしているフランジェスを遠目で眺めながら、こちらのほうがまだ耐えやすいと、時折送られる憎しみと妬みの視線に気づかないふりをしつつ無聊をかこっているルーカスを、やはり毎年慰めにくる者がいた。


 帰宅時に挨拶に囲まれた王子と違い、会の最中はずっと囲いから出られなかった女性。


 髪と同じ紫檀色の美しいサテンのドレスを身にまとった、エインネス第二王女殿下が、武を究める者らしい体幹の一本通った綺麗な姿勢でこちらに近づいてくる。


「待たせたね、ルーカス」


 奇跡を授けられた少年がその年頃しか維持できないものを、大人になっても備えているような端正な顔が可憐に微笑む。


 待たせたね、とは、彼女がしばしば口にする第一声だ。

 これにふさわしい返答を、ルーカスはいつまでも見つけられずにいる。

 彼はその難しさに顔を歪めながら言った。


「無理に私のために身体をあけなくてよいのですよ、殿下」

「きみは」


 エインネスはひくりと頬を引き攣らせた。


「どうしてそんなに頭が悪いんだ?」


                  *


 雲のない空に浮かぶ月が、王宮のきらびやかさから隔てられた中庭を闇に浮かびあがらせている。

 噴水近くのベンチに腰掛け、スリットから露な腿のことを意に介さず脚を組み、おまけに腕も組んだエインネスは、不満をまな板を滑る水のように垂れ流していた。


「ほんっとうにきみはバカだ。バカバカ。頭が悪い。普段は兄上が一目置くほどなのに、どうしてこう私のことに関しては頭も気も回らないんだ? わざとか? わざとなんだな? わざとだと言ってくれ! 頼む。そっちのほうがずっと安心するんだ」

「しかし殿下」

「それもやめろと毎回毎回……」


 荒ぶりかけたエインネスの声は、ふいにしぼんでいった。

 涙目で、前に立たせたルーカスを見上げる。


「それともなんだ、私のことがきらいなのか?」


 いつもは心奥深くに秘められた幼さを隠そうとしないエインネスの姿に、ルーカスは大きなため息を吐いた。


「はぁ……あのね、エインネス」

「エイン」とエインネスは訂正する。

「……エイン、私も何度も言っているけど」

「僕」

「ふうっ。僕も何度も言っているじゃないか。それはまさにきみが言ったのと同じ回数だろうけどね」


 ふんっ、とエインネスが子どもっぽく顔を逸らす。

 その仕草がフランジェスと重なる。

 僕たちは、とふとルーカスは思った。

 学院時代から、いったいどの程度大人になれているのだろう?


「私はそれほど難しいことを頼んでない。昔と同じように私と話してくれ、たったそれだけのことだ」

「それだけのことが、どれだけ困難かきみはまるでわかっていない。他の貴族の前でそんな言葉づかいをしたら、僕の立場がどうなるか、お願いだから想像してみてくれよ」

「ふたりきりのときくらい、べつにいいだろう」

「使い分けるって、難しいんだ。知っていると思うけど、僕はあんまり器用じゃない」

「そんなこと知りすぎているくらい知っているさ、もちろん」


 エインネスは哀し気に微笑んだ。


「でも、寂しいじゃないか」


 ぽつと呟やく声は、まるで静寂のなかで鳴らしたオルガンの音のように、物体としての手触りをもって響いた。


「そんなに遠ざけないでよ」


 エインネスは言った。

 その言葉は効いた。よく効いた。眠っている耳元で鐘を鳴らされたみたいに痛烈に。


 まったく、その通りだったのだ。


 ルーカスはエインネスとなんとか距離を取ろうとしてきた。

 その理由を、どう説明しても彼女に納得してはもらえないだろう。

 また、ルーカス自身、距離を取ろうとしながら、こうしてエインネスを前にすると、その決意が簡単に揺らいでしまうのを感じている。

 惹かれてしまうのだ。

 彼女の存在に。

 異性として、という簡単な話ではなかった。

 ないと、すくなくともルーカスは思っている。

 あるいはそれは、簡単なことを自分で複雑にしてしまった結果なのかもしれないが。


 だから結局、いつも半端なことになる。

 無為にエインネスの表情を曇らせ。

 その表情を見て、ルーカスの心もざわめき。

 その揺らぎと罪悪感を見抜いたエインネスが求めるハグに。

 ルーカスは応じてしまうのだ。


「ありがとう、ルーカス」


 耳元で、エインネスは囁く。

 ルーカスは、いいよ、と呟く。

 なにが「いい」のか、自分でもよくわかっていない。

 ドレスに抑えつけられている胸の柔らかさを腹部に感じ、鍛え抜かれた身体の、しかし華奢なつくりが腕のなかで浮かびあがってくる。鼻元の空気がかぐわしい香気で充ち、鼻先を掠める髪のつややかさに目が魅入られる。


「大好きだよ」


 耳を通して頭のなかに流し込まれた劇薬。

 ルーカスは腕に込めた力を強くすることで返事の代わりとするほかなかった。

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