それぞれの夜 ②

 サリュは声を聴いていた。

 自分の名を呼ぶ声だ。

 どこから聞こえているのかわからない。

 でも、たしかに呼んでいる。

 俺のことを呼んでいる。


 俺はその声をずっと待ち望んでいた。

 その声を受けとめるために生きのびてきた。

 お前がそこにいることを、俺は知っていたんだ。

 さあ、こいよ。

 なあ、手を取れよ。

 頼むから。

 ちゃんとその声をきかせてくれ。


 そこにいることをたしかめさせてくれ。


「ねえ、大丈夫?」


 ゆっくりと目を開けると、プレタが細く形のよい眉を心配そうに寄せながら、サリュの耳元の硬い髪を撫でていた。

 目が合うと指はするりと下げられてしまったが、頭が働き始めて現状把握を行う前に、耳をかすめたその感触を追いかけ引き戻したい欲求に駆られる。

 だがそれはたちまち無数の泡となって消えていった。


 サリュは緩慢な動作でテーブルに突っ伏していた身体を起こす。

 貸し切りで使っていた酒場はサリュの最後の記憶より閑散としていた。まだ飲みつづけているのは十人に満たなかったし、彼らも騒ぐというのではなく、二三人のグループでただ酔いきるのを待っているという様子だ。

 サリュの座る幹部席のテーブルには、プレタしかいない。


「ダイアス殿にまた呆れられたか」


 自嘲気味に呟くと、プレタは首を振った。


「今晩はしかたないわよ。彼もあなたの身体を心配されていた」

「嘘つけ。どうせ、こんなのが隊長で大丈夫かって話をしていたんだろ」

「サリュ」プレタは眉を顰めた。「ダイアス殿はあなたを評価していないわけではないわ。むしろ買っているのよ。ただ、まだ隊長になったばかりだから」

「そう、まだなったばかり」とサリュは吐き捨てた。「あのどうしようもない元隊長がでっぷり肥えた身体を地中に還し始めてから、一年も経っちゃいない」

「そうね。だからそれは彼もわかっていて」


「わかっちゃいないさ。そりゃあ、至らない点が多いことくらい俺も理解している。俺よりダイアス殿が隊長になるべきだったと言われたってしかたない。だが、隊長を決めたのは俺じゃない。アビション家だ。もっと言えば、アスピレだ。文句を言うならあいつに言うのが筋だろう? 当てつけに俺をいじめたって何の意味もないじゃないか」


「いじめてなんかいないわよ」

「だとしたら、身体を鍛えるより先に会話の勉強をしたほうがいいね」


 酔いが残り、まだ意識を取り戻しきれていない緩んだ頭に浮かんだことを、サリュは押しとどめることなく口にしていった。

 ひとりその奔流を受けとめることになったプレタは目を伏せ、ふうっと息を吐いた。

 その仕草に神経を逆撫でされたサリュが、再び口を開こうとしたとき、プレタが手をサリュの肩に置いた。

 プレタの顔には、サリュに対する苛立ちや呆れはなく。

 父を理解しない子を諭す母のような、両者に寄り添うがゆえの苦悩があった。


「あのね、サリュ。ダイアス殿はあなたの素質をほんとうに認めているの。直接聞いたわけではないけれど、隊長に推薦したのも彼だって話。だけど、あなたはまだ若いし、兵のなかにはあなたに上に立たれるのに納得していないひともいる。それにいまのような状況だと、どうしたって上に不満が集まってしまうものでしょう。ダイアス殿はそうした状況を改善して、なんとかあなたの下で兵をまとめようと苦心なさっているところなのよ」


「でも」

「もちろん、あなたの言いたいこともわかる。たぶん、彼も不器用。あなたと同じようにね」


 苦笑いを浮かべるプレタの顔を見つめていられなくなって、サリュは顔を逸らした。脳裏にはダイアスの顔が思い浮かんでいた。兵士というより戦士というような、いくら年を重ねても洗練のなかに無骨さや闘争心を残しつづけているダイアス。


 彼はプレタの言っているように俺を買っているのだろうか?


 そうかもしれない、と彼は思う。


 すくなくとも、サリュの器に見切りをつけて去っていった別の副隊長やその部下たちよりはずっと、可能性を感じてくれているのだろう。

 それにダイアスが、サリュの足りない部分をなんとか補完してくれようと骨を折ってくれているのをどこかで感じてもいた。


 しかし、と彼はまた思う。


 もっとやりようはあるのではないか?

 あるいは、最も年長で、最も他の兵から信頼されているダイアスが、この王国創立以来の変事に先頭に立って対応するべきではなかったのか?


 サリュはなかなかダイアスを心底から信頼できずにいた。

 そして、その理由を探せばいくらでもあげられるようにも思った。


 それを列挙してプレタにぶつける愚はすんでのところで回避して、またその前に帰るべきだと考え、サリュは立ちあがった。


「送っていかなくて平気?」

「ばかにするな。そんなに酔っていない」

「でも疲れてはいる」とプレタは微笑んだ。「頑張っているからね」

「疲れているのはお前も一緒だろ」

「心配してくれてありがとう。でも、体力には自信があるの」


 ちらと垣間見たプレタの顔には、しかし疲労の影がうっすらと差している。

 それを指摘したところで押し問答にしかならないことは自明だった。

 彼女はみなが帰るのを見送るまで、ここに残るのだろう。

 新たに副隊長となったプレタが、瓦解しつつあるこのアビション家の兵団が致命的な崩壊を迎えないようにつなぎとめてくれているのだった。


 サリュはプレタの顔を見据えた。

 口を開きかけるが、ありがとうという言葉はどうにも生成できそうにない。

 かわりに、

「おやすみ」とサリュは言った。


「おやすみなさい」とプレタは言った。「たまにはゆっくり寝るといいわ」

 一日くらい鍛錬を休んでも誰も文句は言わないよ。


                  *


 春は、その身に熱を溜めこみつつあった。

 ついこの前までは軽やかだった夜気も、いつしか肌に寄りかかるようになっている。

 眠り込んだ街を、住まっているアビション家の邸に向かって歩きながら、サリュは頭にのぼった熱を風に飛ばそうとしていた。しかし半端に残った酔いの気怠さが、身体のあちこちに埋まる苛立ちの欠片を刺激しているようでうまくいかない。

 むしろ不愉快な熱は、温度を微妙に保ったまま膨らんでいくようでもあった。


 このままでは眠れまい、とサリュは思う。


 まず思い浮かんだのは鍛錬の二文字だった。

 あるいは、剣を振るといった身体を思いきり動かす行為と言ったほうがいいかもしれない。求められているのは発散であって、向上や研鑽ではない。


 とはいえ寝静まっている屋敷の庭で暴れるのはさすがに気が引ける。

 兵舎に設けられた訓練場を使うのもためらわれる。


 そんなことを考えているうちに、身体が疲労を訴え、剣を振ることへの欲求がしぼんでいく。


 続けて思い浮かんだのは、どこかで酒を呑む、ないしはそのまま女と眠ることだった。それが即座に却下されるのは、そうした店は先ほどの酒場のあるあたりにしかなく、踵を返して戻るほどのたまらなさもなければ、プレタに会ってしまう可能性も考えたからだった。

 プレタはまずまちがいなく、サリュがなにをしにきたか察するだろう。

 そうしたことを忌避する潔癖が彼女にあるわけではない。

 が、そのときプレタの顔に浮かぶ表情を、サリュは平然と無視できる気がしなかった。


 結局サリュは帰るしかない。

 誰も自分を待つ者のいない、他人の家へ。


 それを見つけたのは、邸にほど近い広い通りでのことだった。はじめは放置された大きなゴミかと思い、次に眠っている浮浪者かと思った。街の中心地にはほとんどいないのだが、ときおりふらりとここまで現れる。そういう者たちはみな、たいていどこか過剰だった。

 過剰に汚れているか、過剰に訴えかけてくるか、過剰に空っぽであるか。


 サリュは見ないふりをして、さっさと通りすぎようとした。

 いまは相手をする余裕がない。


 そのとき、ぶ厚い雲に覆われていた月が顔を出し、月明かりが独特の白い長衣を照らしだす。


 サリュは思わず足を止めた。男の首から銀色の小さな四角いキューブの提げられているのが目に留まる。


 スヴァイク真教の司祭であることはまずまちがいなかった。


 顔には殴られた跡がある。左の口の端には乾いた血がこびりつき、襟元と、拭ったのか左の袖のあたりにも血が付着している。自分より少し年上だろうか。壁に寄りかかり、だらりと手足を伸ばした男は、なぜか満足げに口元を歪めて、目をつぶっている。

 眠っているのか。

 死んでいるのか。

 サリュはふと月を見上げた。

 動揺を起こした目の前の光景を、月の光の幻像にしようとしたのかもしれない。

 普段より妙に大きく、輝いて見える満月だった。


 砂利をずる音がした。

 サリュがさっと目を戻すと、男が大あくびをしながら伸びをしている。


「あたっ」と彼は言い、口元を抑えた。

 ひとしきり頬をさすってから目を上げる。


 二人の目が合った。


「おや?」


 男はなんどか瞬きをした。


「おやおやおや?」


 男はまるで蛇のように下半身をずりながらサリュににじり寄ってくる。あまりにも唐突で、予想外で、かつ素早い動きに、サリュは腰を掴まれるまで動けなかった。


「なんだお前は!」


 ようやく声が出た頃には、がっしりと腰をホールドされている。

 引き離そうとしてもびくともしないその手の確かさに、サリュは身体を侵されているような気味の悪さを感じた。

 男の恍惚と崩れた表情は、その拒否感に拍車をかける。


「おおおおおお」男は唸り声をあげた。「こんなところにおられたのですね! なんという偶然! なんという奇跡! これこそ神のお導き! 痛っ」


 大仰な文句を演劇的に叫ぶと、現実に引き戻されたかのように、男は頬に手を当てる。

 その滑稽さに呆れたおかげで、サリュは少し落ち着くことができた。


「スヴァイク真教の司祭か?」サリュは尋ねた。

「まさに!」と男は首肯した。

「こんなところでなにをしている?」

「神のお告げを受けとめる準備をしておりました」

「……布教活動、か? まあ、そうだろうな、それ以外考えられない。しかしいったい、誰のところでなにを言ったんだ? 布教を受けただけでいきなり殴り掛かるようなやつがいるとは思えないのだが」

「こちらはアスピレ・アビション様からいただいたものです」

「アスピレから?」


 サリュはちょっと信じられなかった。

 アスピレは感情的になったり、暴力を振るったりすることを極端に嫌がる男だった。むしろ自分の感情をつとめて抑え、そのことによって周囲に器の広さを示し、底深さを表現しようとするタイプである。


「あいつをそこまで怒らせるなんて、いったいなにを言ったんだよ」


 サリュは苦笑いを浮かべて、無精ひげの伸びた男の顔を見下ろす。

 三十代半ばくらいだろうか?

 あるいは肌の荒れ方を見るに、もう少し上かもしれない。

 歳や疲労の跡を、異様な意志の輝きが覆い、肌に艶を出している。

 そのせいで、年齢不詳の感じがあった。


「いやいや」男は曖昧に微笑んで質問をかわす。「そんなことよりも! あなたはもしや、サリュ・ヨンペルフ様ではありませんか?」

「そうだが」サリュは顔をしかめた。「なぜ俺の名を?」

「やはり! いえ、もちろん存じ上げておりますとも。サリュ・ヨンペルフ様、若くしてアビション家の兵隊長を務められ、しかもその才は際限を知らぬとのお噂、なるほどたしかにその才はとくべつ、いや、まさに」男はそこで一度言葉を切った。「神の使徒たる証」


 神の使徒?

 聞き慣れぬ言葉だった。


 だが、まあ、なんでもいい。


 最初の驚きが落ち着いてしまうと、目の前の司祭の—噂どおりの—大げさな身振りと口上はうっとうしいだけだった。

 サリュはため息を吐いた。


 最近、ろくなことがない。


 ほんとうに、ついていない。


「手を離してくれるか?」とサリュは言った。

「これは、大変失礼いたしました」


 男はしかし、名残惜しいかのように、どこか愛撫の匂いのするゆっくりとした仕方で手を離した。サリュはその仕草にぞっとするものを感じて、一歩後ずさった。

 掴まれていた腰がじんと痛む。

 そのまま立ちあがるのかと思いきや、男は膝をついたままキューブを握り、頭を下げる。


「なにをしている?」

「神の使徒への敬意を表しています。そして、わたくしの前に使徒を遣わせてくださった神に感謝を」

「なんの話をしているか、ちっともわからないが、まあ好きにしたらいいさ。でもなにをしたって、俺は教会の建設を許可する権利は持ちあわせていない」


 だから、俺に時間を使っても無駄なだけだぞ。

 サリュは立ち去ろうとする。


「あなたは」


 男の声に、サリュは動きを止められた。

 不思議な声だった。


 考えてみれば先ほどから、静まりかえった街のなかで大きな声を出しているのだから、居たたまれないような耳障りなうるささを感じてもよさそうなものだ。

 ところが響かない。

 声が細い、というわけでもない。

 なにかに遮られてもすり抜けていくような、自然と身体のなかに入り込んでくるような、ふしぎな通り方をする声なのである。


「サリュ・ヨンペルフ様。あなたは人がこの窮地を乗りきれるよう神に遣わされた使徒であり、近い将来、必ず乱れた世を救うために立ちあがられることになるでしょう。

 じきにお告げが参ります。

 そのお声を、拒まぬように。

 いまはそれだけ、お伝え申し上げておきます」


 サリュは思わず振りかえった。

 男は相変わらず、そこで跪いている。

 ほっとした。

 一瞬、消えているのかと思ったのだ。

 そんなことがあっては、また混乱する。

 しばらく見つめていたが、それ以上なにも言ってこない。

 身動き一つしない。

 サリュは歩きだした。

 背後で、男が全身で自分を見送っているのを感じる。


 なぜかはわからない。

 が、ちゃんと眠ることができそうだった。

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