空の詩
香伊槻
それぞれの夜 ①
大広間は虫の合唱のような人声で埋まっていた。ルーカスは軽いめまいを感じて、さりげなく会話の輪から離脱した。
給仕に酒を水に取り換えてもらい、扉のほど近くに安穏の地を見出して身を収める。
先ほどまで加わっていた輪は、ルーカスがはじめから存在していなかったように一人分縮んでいた。
まあべつに、構わない。
そう、構わない。
領地が隣接しているわけでもなければ、ルーカス自身に深い関係があるわけでもない。
ここに父がいない以上、ルーカスがヌート家の代表であって、あの貴族たちも同じオンテシロイ派閥の人間だから挨拶をする必要があった、それだけのことだ。
そんなふうに自分を慰める。
慰めていることに気づいて、若干傷ついていることを知る。
社交の場で生きていくにはあまりに感じやすい心に、ルーカスは我がことながら苦笑を漏らした。
幾重にも折り重なった声は、ほんのわずか遠ざかっただけなのに、傍から見た水紋のように距離が感じられる。
あのなかに戻っていきたいような。
重厚な扉を押し開けて出ていってしまいたいような。
矛盾した思いにけりをつけられないまま、贅を尽くした王城の大広間の片隅で、ルーカスはぼうっと立ち尽くしていた。
*
今代の王、ヒボネフ・ン・バゲッドは大の饗宴好きであった。
他の貴族たちが開いた饗宴に参加するのも好きだったが、自分で開いて人をもてなすのはもっと好きだった。
王位に就いて—それまでの不遇を自ら慰めるように—宴会や舞踏会に興じていたヒボンネフは、しだいにその舞台となる大広間に不満を抱くようになっていく。席について食事をするなら一度に精々三十人程度しか招きえなかったし、演劇や詩を披露する舞台を設えるならさらに制限しなければならない。王が諸侯を招く場としては、あまりに慎ましくはあるまいか? 四大諸侯どころか中堅貴族だって、これより大きな広間を城に備えていることもあるだろう。
王は考えた。城は二百年近い歴史のなかで増改築を繰り返され、もはや余っている敷地などなかった。他の部屋を潰して大広間を造るという案は即座に却下された。王にはどうしても納得できなかったが、それらはすべて必要なものらしいのだ。城から離れ、王都に別に会場を建てることも考えたが、いちいち車に乗って移動しなければならないことを思うとうんざりした。
それに私—王が招くのだ。その場は絶対に、城でなくてはいかん。
そうだろう?
毎日のように人を招いてもてなしながら、日中の暇な時間を、王はこの問題の打開策を捻りだすのに費やした。城を歩いてまわり、突き返されるのを承知で使っていない部屋をリストアップし、ときには自分の理想の大広間を紙に書きつけて幸福な気持ちと気力とを溢れさせた。協力してくれる商人はすでに確保していた。取りあってくれなかったり、面と向かって反対意見を述べたりする諸侯も多かったが、力になると手を握ってくれた者もいる。
金は充分にあった。
王の—私の金が。
あと必要なのは、建てるのに適当な場所だけなのだ。
その思い付きは、王妃に呼び出され、王より執務室に滞在している彼女から、やんわりと濫費を控えるよう諫言されているときにやってきた。
気持ちはわかるわ、と王妃は言っていた。私たちはいないのと同じだったから、まさかこうなるとは思わなかったし、だから王になったいま、好きなように振舞いたいのもわからなくないの。でも、ありえないことだったからこそ、偶然の導きに感謝して、真摯に国と向きあうべきではないでしょうか?
王は聞いていなかった。
なにかがやってきそうだったのだ。
彼は窓から見える城の北側の森を眺めていた。バゲッド王国の古い慣習では、城は帝国のある北側に、街はその城の南側に展開されることになっていた。現在は廃れているけれども、忘れられたわけではなく、民にその器と志を示すためにあえてこうした構造で城や街を造る貴族もいる。
王都は当然、そういう造りになっていた。
王はそれまで、このことに疑問を抱いてこなかった。
その日、王妃からの説諭を聞き流しながら、未開拓の森の広がる城のすぐ北側の景色を睨みつけていたときに、王はひらめいた。点々と落ちていた小さな水滴が一体となってひとつの湖と化したように、様々な断裂された思念の欠片がふいにひとつになって、王の頭のなかではっきりとしたひとつの形を取ったのだ。
王は言った。
「そうだ、北を開発すればよいのだ」
「は?」
可哀そうな王妃の制止の声は届かなかった。
そうして城壁を崩し、森を開拓し、まず造られたのがこの「ヒボンネフ会館」である。
収容人数はおよそ三百五十人。聞いたものの耳を疑わせ、王妃の気を失わせたその広さもさることながら、王国内のみならず帝国からも職人を大勢招いて彫らせた大理石による建築、王国にその文化のなかったステンドグラスの技術を輸入、結果、ヒボンネフ会館は豪華絢爛と表するにふさわしい仕上がりとなっている。
それは、贅を尽くした試みに眉を顰め、陰で愚かさを嘲笑っていた者たちすら圧倒する、強烈なきらびやかさであった。
訪れた者たちの間抜けに口をぽっかりと開けた顔を見られてご機嫌の王は、放心状態の彼らに畳みかけるように、毎度似たような演説を行った。
「批判されることなど百も承知だったのだよ。
なにせ金がかかる。
いやいや、みなまで言うな。
問題が金だけではないことくらい私もわかっておる。
お前らは国の中心が帝国に侵されるようで嫌だったのだろう?
しかし私は帝国に領土を売ったわけではないし、王国の代表としての気高き心を失ったわけでもない。そもそも私だって帝国は好きじゃない。みんな偉そうで、上から物を言ってくるのじゃ。ほんとうに気分が悪い……しかし、文化はべつだ。帝国は広大で、その分だけ多種多様な文化を持ちあわせておるし、それらが混淆し、あるいは横並びに競い合い、美しい花々を咲きほこらせておる。それは、学ばなければならぬものだ。我が王国にも新しい風を吹き込ませてやらねばならぬ。私は自分の使命をそれと承ったのよ」
二十五年を越す治世のあいだ、王は「新しい風を吹き込ませる」という使命を彼なりに果たしつづけた。城の北に街を造り、そこにヒボンネフ会館と合わせ「ヒボンネフ三大建築」と呼ばれる二つの建物、ヒボンネフ大浴場とスヴァイク真教教会を建てた。とくに清潔さには人並ならぬこだわりがあって、衛生面での王都全体の改善は特筆すべきものがあった。
諸侯からの王の評価は、複雑なものだ。
賢い愚王。
一般には王との不仲が囁かれている第一王子、フランジェスは、彼らしい言い方で、次のようにルーカスにこぼしたことがあった。
「新しいことを始めるのは難しい。あのひとに必要だったのは金でも権力でもなく、理解がある同志と、信用に値する人間を見極める目だったのだと思うよ」
*
海に浮かぶ島々のように点在する料理の並んだテーブルから離れたところ、劇が演じられ貴賓たちの演説がぶられる壇上から最も遠い扉近くで、無関心を貫く衛士の放つ透明なオーラに包まれながら、ルーカスは大広間全体を眺めていた。
南側一面のステンドグラスに描かれた「妖精たちの宴」を眺めているのにも、大きさに比して細すぎる支柱の危うさに当てられてか、揺れているように感じられるシャンデリアを見つめ、視覚の奇妙さと戯れるのにも飽きていた。
そろそろ輪に戻ろうかと、もたれかかっていた背中を壁から離したとき、人込みからするりと抜けだすように、本日の主役がこちら側に現れた。
ルーカスが近づこうとすると手の甲を振って追いやり、給仕に何事かを伝えると、いつものどこか怒っているような歩き方で、すたすたと大広間の端までやってきた。
「こんなところにいたのか」とフランジェスは言った。「悪いな、毎年毎年こんなくそくだらない会に呼んじまって。とくに今年はいろいろ大変だったろうに」
「いえ」ルーカスは首を振った。「お誕生日おめでとうございます」
フランジェスはいかにもおかしそうに口角を持ちあげた。
「なんだ、嫌みか?」
「まさか」
たしかに嫌みっぽかったかとルーカスは反省した。
「まあ、いい。嫌みのひとつやふたつくらいは受けいれよう。それより、どうせろくに食べてないのだろう? 待ってろ、いま給仕に料理を運んでくるよう頼んだから」
「ここに?」
「ここに。おお、もう来たぞ」
フランジェスの視線を追うと、貴族の出入り口とはべつの、直接調理場や使用人控室に繋がっている扉から、ぞろぞろと料理やテーブルを持った使用人たちが現れた。六、いや七人いる。ちょっとした隊列だ。近くのテーブルで談笑していた貴族たちが何事かと目をやる。
その先にいる自分たちに視線がたどり着く前にルーカスは目を逸らした。
「殿下」慌てたルーカスは思わず小声で名を呼んだ。
「ん?」
「こんな大事にされても困ります。どこか近くのテーブルに移動しましょう」
「お前がこんなところで所在なさげに立っているのが悪い」
フランジェスは悪戯っぽく目を輝かせた。
「少し休んでいただけですよ」
「なんだ、体調が優れないのか?」
「いえ、軽いめまいがしただけで」
そうこうやり取りしているあいだに、宮廷の優れた使用人たちは一定の歩速でふたりのもとに到着してしまった。
小さな二人用の丸テーブルとそれよりひとまわり大きな丸テーブルがひとつずつ並べられ、そこに酒瓶と水差しと新たな杯、砂糖菓子の盛られた皿や、鮮やかな色のソースのかけられた鴨のロースト、フルーツ、パンなどが配置されていく。
大量の視線を感じて、ルーカスは先ほどの曖昧なものとは違う、より強烈なめまいに倒れそうになった。
その隙に、手に持っていた古い杯はあっさり回収されてしまう。
使用人たちは一礼して去っていく。
そばに附こうとした使用人もフランジェスは拒んだ。
その最後のひとりが離れてから、殿下、とルーカスは情けない声を出した。
聞こえているのかいないのか、彼は一向に気にしてくれないのであるが。
「おい、どっちを飲む?」と彼は楽し気に言った。「いや、もちろんどちらを飲んでも構わないんだが、おれは蒸留酒をすすめる。りんごと砂糖が漬けられていて、これは悪くない。いやはや、あのひとの最大の功績は砂糖の輸入かもしれないな」
「知っておいででしょうけど、酒は苦手です」
「知っている、もちろん知っているとも。だから水も用意した。レモンのよい香りだな。しかしほら、一杯は付き合え。おめでとうとのたまっていたじゃないか」
フランジェスは喋りながら、ルーカスが代ろうとする間もなく自分で二人分注いでしまった。
差しだされた杯を持たぬわけにもいくまい。
フランジェスの白い首がほのかに赤らんでいることに、ルーカスはようやく気づいた。
「いったい何杯飲んだのですか」
「数えているわけないだろう」
ルーカスの白い眼に気づき、拗ねたようにフランジェスは言う。
「しかたないじゃないか。あのひとの宴会の口実とはいえ、一応みな、おれの誕生日を祝いにやってきている。こんなやつらに祝われてもしょうがないが、といって、わざわざご足労願った者らを袖にするわけにもいくまい。だから一杯飲むまではそこで話すことにしたんだ」
まあ、あまりにもひどい場ではいっきのみしてやったけどな。
ふん、とフランジェスは鼻を鳴らす。
その子どもっぽい仕草を見ていると、ルーカスは身体の側面に感じている視線や、それが意味するもの、意味していると想像しているものが、なんだかどうでもよくなっていった。
この二つ年上の、いつも変わらぬ親しみを示してくれる王子のことがルーカスは好きだった。評判のとおり、彼にはたしかに眉を顰めざるをえない性質がないわけでもない。それでも、あるいは、そうした部分も含めて、自然と慕う想いが湧いた。
学院ではじめて対話したときから十年が経とうとしている。
ルーカスは、フランジェスを人生でつねに先を歩みつづける兄のように敬慕してきた。
機嫌を損ねたらしいフランジェスに向かって、杯を持ちあげる。
「いただきます」とルーカスは言った。
フランジェスの表情はあっという間に明るくなる。
「ああ、飲め飲め。そして食え。最後の晩餐かもしれないからな」
最後の言葉の過激さと喉から鼻を伝っていく強い刺激とが相まって、ルーカスは顔をしかめた。
「なんて不吉なことを」
「可能性はあるだろう?」
「そんなことにはなりませんし、させません」
「頼もしいじゃないか」
ルーカスも、咄嗟に口を突いて出た大言壮語に自分でちょっとびっくりした。
誤魔化すように言う。
「……それに現状、そこまで逼迫していませんよ」
「どうかな」
杯を傾けるフランジェスの表情から、すっと温度が引いていった。
その意味を尋ねようとして、
「ま、そういう話は明日にしよう」と遮られる。
まあ、そうだなとルーカスも頷いた。
一瞬力が入っていたらしく、肩が落ちる。
「明日は酒はなしにしましょう」
「お前はそれでいい。でもおれは飲む」
「二日酔いかもしれませんよ?」
「おれと酒は両想いでね」とフランジェスは笑った。「それよりどうだ。かなりいけるだろう?」
顎で指し示された杯にルーカスは目を落とす。
もう一口、誘われるように飲んでみた。
「たしかに」
「最後の酒として悪くないだろう?」
「そんなに真面目な話をしたいのなら、一向に私は構いませんが?」
「いや、やめておこう。どうやらめでたい席らしい」
はははっと軽やかに笑うフランジェスの、繊細な造形の耳もまたほんのりと赤い。
もう一度、杯に口をつける。
悪くない。
なんとか自分のところでも作れないだろうか、とルーカスは思った。
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