第5話 俺VS帝


何かが軋むような音が、遠くでしていた。


(……ここは…)


航太朗が目を開けると、木の天井が見えた。梁が細かく組まれ、黒色の飾りボタンと金色に輝く金具が柔らかな光を弾いている。


体は横たえられていた。枕元には和紙でできたサッカーボールほどの大きさの箱と、腰まである鮮やかな布の仕切りがある。


(……どこだ、ここ…)


身を起こした瞬間、衣擦れの音と共に、屏風の陰から一人の女が膝でにじり歩いて現れた。くすんだピンク色の着物の下に白い着物が透けている。着物を重ねているようで、袖口からは何層にも色が重なっているのが見える。どうやら、2、3枚どころではない。


(めっちゃ和やなぁ…巻物から出てきたみたいやな……ってえ!!!?)


航太朗の目がくぎ付けになったのは、その髪だった。

艶やかな黒髪はどこまでも長い。頭から床まで流れ、さらにその先もズルズルと伸び、ゆうに2mはあろうか。


(髪バリ長いやん…足で踏まへんか、それ…)


航太朗がカルチャーショックに固まっていると、


「……気づかれましたか、異国の舞い手殿」


女は航太朗の心の声を見透かすかのように、微笑を浮かべて言う。


「あっ…はい…」


すっきりとした生え際と陶器のような白い肌。現代では見たことのないビジュアルを前に、航太朗はドギマギして答える。


「成道様をお呼びいたします」


女はそう言って静かに頭を下げ、滑るように布の外へと消えていった。やがて、別の足音が近づく。


(成道…って誰だっけ…)


ぼんやりとした頭を巡らせていると、


「やっと目を覚ましたか、コウタロウ」


成道が仕切りをくぐるように現れた。その顔に、初めて見た時の衝撃と、神泉苑で交わした言葉、共に乗った牛車の揺れをいっきに思い出す。


「……あれ、俺…踊ってたんじゃ…」


「祭礼は昨日のことだ。お前は舞いながら憑かれたように気を失い、この内裏の離れに運ばれてた」


「えっ、俺、倒れたのか…」


「派手に、な。だが、それだけでは済まなかった」


成道の目がふと、真剣になる。


「……あのあと、雨が降った」


「あ!そうや!雨乞い!ほんまに降ったんや…え、どれくらい降った?」


「1時刻半だ。おかげで田畑は潤い、民に希望が戻った。ありがとう。お前の舞が、天を動かしたと噂になっている」


「……マジかよ……」


航太朗は思わず自分の手の平を見た。自分に救いを求め肩をゆすった男の顔のシワや、少しの食べ物を分け与えて風に吹かれていた子どもたちの姿がフラッシュバックし、目頭が熱くなる。


(自分の踊りがそんな力を…?って、そんな訳ないやんな。昨日結構曇ってたし、普通に降る日やったんやろな…)


「まあ、奇遇かもしれんがな。だが本当に神に届いたのかもしれぬ」


成道は口元をゆるめてそこまで言うと、ひとつ咳払いをしてすっと真顔に戻る。航太朗にゆっくりと近づき、膝をつき、航太朗に目線を合わせて言った。


「お前は、もはやただの異国の者ではない。…お上が、お前を直々に召されてあられる」


「おかみ…?え、女将…?旅館かなにか…?」


航太朗が意味をくみ取りかねて首をかしげると、成道は信じられないというように片方の眉を上げ。航太朗を疑うように見つめた。


「お前、本気か?本当に当に物の怪に憑かれたわけじゃあるまいな」


「うん、もののけ全然ついてない、余裕でついてない」


「お上はただのお方ではない。天よりその命を授かりし帝であられる。国のすべてを司るお方だ」


成道が呆れるように言った。


「は!?あ、帝ってお上っていうんや。えやばい、本物のトップやん」


言葉の意味を理解した瞬間、事態の重さに気づき、ビシッと背筋が伸びる。


「とっぷ…?ミライの国ではそう言うのか?」


「まあそうやね、もう帝とは言わへんな。て、え、てか、俺…帝に呼ばれてるん…?!」


内裏にふさわしくない航太朗の破裂するような大声がこだました。



―――数刻後、航太朗は再び、あの畳のカーテンの前に立っていた。張り詰めた沈黙の中、甘くてどこかスパイシーな香が空気を満たす。線香のようでもあり、知らない国の香辛料のようでもあるその匂いに、航太朗はつい意識を注がれる。けれど、それすらも気にならないほどに強くカーテンの向こうから漂ってくるただならぬ気配が、航太朗の背筋を痛いほど伸ばさせた。


「……お前が、雨を呼んだという、舞い手か」


その声は、低くくぐもっていた。わずかに掠れているが、静かでありながら、命令のために存在しているような声。拒否という概念を、許さない響きだった。


「え、あ、雨は……まあ、偶然というか……その、結果的には……」


「――ん?」


「すみません!はい、そうです!雨を降らせた、航太朗です!」


あまりのプレッシャーに、勢いよく自己紹介してしまう。


「コウタロウ。異なる国より現れた者と聞いた。お前、陰陽道の舞を心得ているのか?」


「い、いや…陰陽道じゃなくて……自分の国の、えっと……ダンスというか…舞…というか」


「なんという舞だ」


「……ブ、ブレイキン……です」


「ぶれいきん、とな」


帝は一拍置き、何かを噛みしめるように言った。


「なるほど。お前の舞には力がある。民の心を揺さぶり、天をも動かした。……見事だな」


「は、はあ……ありがとうございます……」


「さて、問う。お前は、どのようにして京に現れたのだ?」


「えっと……気づいたら……ここにいました」


「気づいたら…ということは、憑かれてのことか?物の怪か? それとも怨霊か?」


「いや、それは……自覚は、ないです……」


「では、いかにして帰るつもりだ?」


「……それも、まだ分かりません」


「そうか……」


沈黙が落ちた。長く、重たい数秒間。航太朗は喉を鳴らしてつばを飲み込む。


「……たしかに、お前の力は見事だ。だが、朕はお前のような者を野に放つわけにはいかぬ」


「……え、まさか……処される……とか……?」


また沈黙。


そして――

「それは、これからのお前次第であろう」


帝は唇の端をわずかに上げた。からかうような、意外と茶目っ気すら感じさせる声音だった。


「……え?」


「航太朗と申す舞い手よ。お前に部屋を与えよう」


心臓が、ひときわ大きく跳ねた。


「…うぇっ!いいんすか」


「うむ、よろしい」


(やったあ…打ち首とか言われたらどうしようかと思た……ほんま助かった…)


混乱と興奮の狭間で、航太朗は目の前の現実を少しずつ受け止め始めていた。


(でも確かに…俺、どうやって帰るんやろ)


帝との対面を終え、航太朗は成道の後に続いて静かな内裏の回廊を歩いていた。


「お上は、お前のことを悪い者ではないと判断されたようだな」


「はあ…命拾いしました…」


耳にはまだ、低くかすれた声が残っている。緊張と安堵が入り混じったまま、航太朗はふと周囲を見回した。


「……え、なにここ………」


目に飛び込む光景に思わず声が出た。

廊下の脇に曲線を描くようにかけられた柵の向こうに、完璧に手入れのされた中庭が広がっていた。波をつくられた白い砂利の中央には、少し咲き始めた桜が静かに風に揺れている。庭を横断するように小さな川まで流れ、ちょろちょろと涼しい音を立てていた。歩き進めた先には、部屋と部屋をつなぐ小さな橋がかかっている。明るい木の板がぴしりと張られ、歩くたびにかすかに軋む。


「家の中に...橋って...」


航太朗がぼやくと、


「これは橋ではない。渡殿だ。」


成道がきっぱりと言った。


廊下に面した部屋の外はやはり畳のようなカーテンがかけられていて、中を除くことはできない。しかし、奥には確かに人の気配がして、その曖昧な距離感がこの空間に荘厳な雰囲気を漂わせていた。


(こういうのを、侘び寂びって言うんやろな〜)


現実感のなさにかえって呑気になりながら、航太朗は思った。

時折立ち止まりながら、柱や壁の細やかな彫りや漆の光沢、カーテンに縫われた精密な刺繍を見つめる。成道はただ歩調を緩め、航太朗に景色を味わわせるように先を行く。


(これ全部...手作業か...すげえな人って)


人の手が、心が、何重にも込められている場所に自分がいることを実感し、再び歩き出す。この世界に、少しずつ、自分の足で立っている感覚が芽生え始めた。

やがて成道は廊下の角で足を止めた。


「ここがお前の部屋だ。少々手狭だが……身を隠すには、ちょうど良かろう」


そう言って、畳のカーテンを手で捲り上げ、中へと入る。航太朗は興味深そうに室内をぐるりと見渡した。簡素な布団と小さな机がある八畳ほどの部屋だった。木の香りと畳のい草の匂いが混じり合い、どこか懐かしさを誘う淡い線香の香が、風に乗って室内に漂っていた。外から差し込む陽の光が、柔らかく床に落ち、室内をあたたかく包んでいる。


「うわあ…素敵やな…」


満足そうに入り口を見返して、しかし、ふと眉をひそめた。


「……え、ちょっと待ってちょっと待って」


絶対にあるはずのものがなかった。


「そんなはずは…ねえ?」


苦笑しながら、必死に探す。そして半笑いで尋ねた。


「ドア……どこ?」


「ドア……?」


成道が訝しげに聞き返す。


「あ、いや……、扉のこと。外と中をしっかり仕切るやつ」


慌てて補足する航太朗に、成道は一瞬目を細めたが、すぐに軽く笑った。


「そのような仕組みはないな。ここでは布で境をつけるのだ」

見ると、隣の部屋との間に大きな布を貼って目隠ししている。


「え、ない?でも音とか漏れまくりやで…?プライバシーは?」


「……ぷ、ぷら……? 今、なんと?」


「えっと~個人情報みたいな…」


成道はきょとんとした顔をしている。


「うん。なんでもない」


航太朗は猛烈に頭を抱えた。


(嘘やろドアないなんてことある?……平安時代オープンすぎるやろ……)


航太朗が焦っているのを見かねた成道が励ますように言う。


「まあ、御簾があるからよいではないか」


「み、みす?」


部屋の縁に吊るされた畳のカーテンを指さす。


「あ、これ御簾っていうんや!それなら安心安心…って、外から丸見えやろ!風吹いたら終わりやで、ペラペラやもんこれ!」


航太朗がヤケになってまくしたてると成道は口を隠し、こらえきれないというように笑みを浮かべた。


「御簾は不思議でな。陽の高い昼間は、中から外が見えて、外からは見えん。夜になって中で紙燭を灯せば、逆にぼんやりと内側が透けて見える。だが……お前を夜に訪ねる者などおるまい。心配無用だ」


優しい口調で諭す。


「ふうん……マジックミラーみたいなやつか……」


「まじく……みら……? 新しい呪か?」


「気にしないで。現代の魔法」


航太朗は諦めたように言い放った。


「そうか。それから、あれは《几帳》だ。部屋と部屋の仕切りに使う。むやみに捲るなよ。向こうに誰かいるかもしれん」


成道は、部屋の奥に立てられた淡い色の布張りの屏風を顎で示した。


「わ、わかった」


「ここは宮中の中でも、御所の外れ。もともとは客人や下働きの者が使う部屋だ。お前のような変わり者には、ちょうどいい」


成道は口元にわずかな笑みを浮かべ、天井に目をやりながら深く息をついた。


「ありがたく思え。帝がしばらく様子を見よと仰せられた。……まあ、あの舞を見た後では、無碍にはできなかったということだろう」


「……ああ」


「今日はゆっくり休め。食事は後ほど、女官が運んでくるだろう」


そう言って、成道は航太朗の肩をぽんと軽く叩き、御簾をくぐって部屋を後にした。



航太朗は、平安時代に来て初めてひとりになった。

「……うわ、静か……」

周囲からは風の音すら聞こえるほどで、街の喧騒に慣れた耳には、余計に静けさが沁みる。航太朗は畳に敷かれた布団に腰を下ろし、長く足を伸ばしてため息をついた。

「千年前……なんだよな。マジで。どうやって帰るんだよ……」

ぼんやりと見上げた天井の向こう、どこか遠くで、また小鳥の鳴き声がかすかに響いた。

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平安時代でウィンドミルしたら浄土の遣い認定されて、民から相談が殺到した @aliya-ali

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