第4話 祈りの「ワンハンド・ラビット」



――平安京へ訪れた春は、喜びではなく嘆きを運んできた。


都の外れに広がる畑や里山に彩りはなく、麦の穂は風にも揺れぬほど痩せ、田は干上がって割れていた。畑に野菜らしいものは見当たらない。


「マジかよ…」


成道と共に祭礼の舞台へ向かう道すがら、牛車の小窓から見える風景に、航太朗は思わず言葉を失った。

ぼろぼろの家屋の軒先に土色の顔をした幼い男の子が地べたに座り込んでいるのが見える。小学校低学年くらいだろうか。顔はすす汚れ、体は骨張って枝のように細く、焦点の合わない目線を空中に向けている。しばらくすると家の中から姉らしき少女が出てきて、何か実のようなものの皮を小さな手で懸命にちぎっては、男の子の口へ運んでいる。


(まさか…食べ物、あれだけ…?)


航太朗は咄嗟に、パーカーやジーンズのポッケを探り、何か食べ物がないか確認した。しかし、スマホのほかには何も入っていなかった。


「くそ…なあ、あの人たちを助けないのか?」


航太朗が思わず成道に詰め寄る。

成道はそっと小窓の外へ目をやり男の子たちの姿を見つめると、静かにうつむいた。その目は井戸の底のようにどこまでも深く、冷たい。


「助けたいさ。だが、今は雨が降らん。春が来たというのに畑は焼けるようで、作物なんかできやしない。蓄えが尽きた者から順に倒れていく。それが京の現実だ」


「…でも、あんたらみたいな偉い人は良い暮らしをしてるんやろ?分けたってや」


理屈よりも先に言葉が出た。成道は一瞬、表情をこわばらせ、何か言いたそうに顔を曇らせる。


「……」


沈黙が返事の代わりだった。


「……そっかよ」


風が吹いた。巻き上がる土ぼこりが、子どもたちの頬をかする。子どもたちはただ静かに、そこにいた。




――1時間ほど経って、牛車が止まった。

地面に降り立つと、すぐにひどい腐敗臭が鼻をつく。土は乾き、ところどころ割れている。


「ここで、踊るのか…?」


航太朗が辺りを見回すと、周辺には粗末な小屋がぽつぽつと建っていた。ぼろぼろの衣をまとった人々が、恐る恐るこちらの様子を伺いながら出てくる。


「コウタロウ、お前はあそこで舞ってくれ」


成道が指さす方向を見ると小高い丘があり、その上には仮設の白い舞台が設けられていた。四方に細い柱が立ち、細い糸が巡らされている。まるで空に浮かぶリング場だ。


「あの舞台には陰陽師により結界が張られている。あそこで雨乞いの舞をすれば、神に届くやもしれぬ」


「陰陽師て…あれってほんまにいたんや…」


舞台の周りへ目をこらすと、側には仰々しい装束に身を包んだ男たちが座っているのが見えた。皆、見たことのない道具を持っている。


「あの男たちは?」


「雅楽隊だ。空の向こうまで届くような音であるぞ。あの者たちの音に合わせて、舞ってくれ」


成道は微笑を浮かべて言う。


(ががく…?俺ブレイキンやで…?HIP-HOP専門やで?いけるかな…?)


航太朗は首をかしげながら、男たちの持っているものから出る音色を想像する。


門松の器みたいなものに、小さめのリコーダーのようなもの、地面に横たわるデカ長い木のようなもの、あと少しでギターになりそうなもの…


(多分めっちゃ和って感じのゆっくりのやつやろな)


航太朗は小さくうなずく。


「おっけ、じゃあ、行ってきます」


そう言って舞台へ歩きだそうとした航太朗の両肩が、突如強い力で摑まれる。

驚いて振り返ると、いつの間にいたのか、頬のこけた30代くらいの男が、航太朗の肩を摑み、強く揺すっていた。


「お、お願いします!雨を、どうか、雨を降らせてください!あと少しで井戸も干上がります…そうすれば家族皆、野垂れ死んでしまう…どうか、子どもだけでも助けてください…!」


目に涙をため、必死の形相で訴える。男の後ろには小学校に上がる前くらいの小さな男の子が、航太朗にうつろな目を向けていた。


「わ、わ、分かりました!分かりました!」

激しく揺すられながら、航太朗は男の腕を摑み返す。


(そんなこと言ったって…ただのブレイキンが助けになれるわけないやん…)


航太朗は深く息を吐き、ステージめがけて剥き出しの丘を登っていく。



気づくと、舞台には無数の視線が向けられていた。年老いた者や幼い子ども、疲れ切った女、土に膝をつき祈る男――さまざまな姿が航太朗の目に映る。

静けさの中には、悲しみや祈りがうずまいていた。航太朗の鼓動が速くなる。


(みんな苦しんどる。俺なんかの踊りが、何かになればええけど…)


航太朗は目を閉じ、こぶしを握り締める。牛車から見た兄妹を、さっき男の後ろに立っていた男の子を、瞼の裏に浮かべる――。


ゆっくり目を開けると、深呼吸をひとつした。雅楽隊の男にアイコンタクトを送る。

門松の器のようなものを持った男が小さくうなずき前へ向き直ると、器のすき間から水を飲むように、器をそっと口に当てた。


(…それ、そうやって使うんや)


航太朗が意外に思った瞬間、


「スッ」

息を深く吸い込む音がした。そして、


「ふぁぁぁぁぁぁぁぁ」


空高くから降り注ぐ、光の柱のような音色が空気を満たした。


(え…なにその音)


続いて、小ぶりのリコーダーのようなものを口に当てた男が思い切り息を込める。


「ぴゃきぃぃぃぃぃっ」


芯のある甲高い音が、誰かの泣き声と共鳴するかのように響く。


次に、デカ長い木の塊に向かって前かがみの姿勢をとっていた男が、表面に張られた線を指で優しくはじく。


「ころんっ、ころころろんっ…」


妖精が飛んでいるかのような透き通った繊細な音色が、波紋のように広がる。


(これが…ががく…!?)


想像していた和やかな音では、全くなかった。音が生きているかのように、うねり、広がり、響くのを、航太朗は全身で受けとめていた。

最後に、もう少しでギターになりそうなものを膝に抱えた男が、バチで玄を弾く。


「べんっべべべんっ!」


地面を這うような低く重い音が、舞台を揺らすかのようにけたたましく響いた。バラバラに演奏されたそれら全ての音が重なり、ひとつの和音となる。音に体を包まれるような感覚に、航太朗はたじろぐ。


(なんか…宇宙に放り出されたみたいや…)


航太朗は、呼吸を整えて天を仰ぐ。


(これなら…いける)


――航太朗はパッと舞台に手をつくと、いきなり床に入った。6歩、ストマックで助走をつけると、仰向けの姿勢をとる。


腕を伸ばし地面に這わせ、バランスを取りながら体を「L」の字に折り曲げて回転する「Lウィンド」―そのまま体をかがめ、背中で床を跳ねるように回転を加速させる「ベイビー」―。2つの大技をつないで、天に向かって咲く花のように体全体で回る。


(この音が、俺を導いてるみたいや…)


勢いを殺さない内に、ウィンドミルとヘッドスピンを組み合わせた「ダブルウィンドミル」で舞台を縦横無尽に動き回る。雅楽隊が生み出す音の宇宙の中で、重力を失ったように航太朗は回り続ける。楽器の音がひときわ大きくなるのに合わせ、航太朗はさらに体を横に流す。舞台を両手で押し、脚で蹴りながら、勢いをつけて体全体で飛ぶように回転する。宙を飛び回るかのような迫力「ダブルスワイプス」だ。


「うおおおっ!」


誰かが息を呑む声に交じって、風が唸る音が聞こえたような気がした。


(よっしゃ…雨乞いするなら…これしかないやろ)


航太朗は慎重に手と肩で重心を保ちながら、足を巻き上げるように大きく回す。体が竜巻のように地面から浮かび上がった。大技「ハリケーン」――。


航太朗は回る視界の中で、空を仰ぎ見る。雲は重い。まだ降らない。


「……っ、頼む……!」


跳ね起きるともう一度逆立ちの姿勢をとり、片手で全身を支える。その手で力強く舞台を押し、何度も細かくジャンプする。バネのように上下し、航太朗は天に一人挑んでいく。――「ワンハンド・ラビット」。


「頼む……頼むよ……」


雅楽隊はますます音を強める。航太朗は跳ね続ける。


「降ってくれ…みんなのために…」


その時――


「ゴロッ……!」


雷鳴が轟いた。風がさっきより大きく唸る。人々がざわつく中、航太朗はさらに片手に力を込め、強く跳ねる。

「いける……降ってくれ……!」


もう指先は痺れていた。腕が、悲鳴を上げている。けれど、航太朗はやめない。天に、京みんなの祈りが届くことを願い、力を振り絞る。


すると――


「ぽつっ」


額に、一粒。そしてもう一粒、湿った音が聞こえた。


「ざああああ……!」

天が応えたように、いっせいに大地に水が落ちてくる。


「降った……! 雨だ! 雨だぞ!」

「三つきぶりだ!」


誰かの叫びと同時に、人々の歓声が上がる。


「よっしゃ…雨…ほんまに降ってんけど…」


だがその音は次第に遠くなっていった。視界がぼやけ、頭が重くなる。身体が浮くような感覚の中、雅楽の音色に吸い込まれるように、航太朗はそのまま、舞台へ崩れ落ちた。

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