大正十三年 四月 其の二

「君が神崎琴子か」

「私は、井門圭介という」


美しい男がそう言った。


「井門...?!」


両親が顔色を変える。

私でも知っていた。


井門圭介とは、警察の中でもかなり高位にある有名人だ。


その冷徹さに恐れている者も多いが、関わった時間はあっという間に解決してしまうという。


元はそれほどの身分があったわけではないが、能力のみで上り詰めた男だという。


「気がつかなかった...顔はあまり出していなかったから」


騒ぐ両親をよそに、私にはもう一つ気になることがある。


神崎琴子。

それは私のことだろうか。

私は橘琴子として育ち、神崎の苗字に聞き覚えはない。


彼は周囲の混乱をよそに、はっきりとした声で、両親に宣言する。


「要件は一つ。神崎のお嬢を、私の妻として迎えたい」


「...?!」


「ねえお母様、何よ神崎って...」


そこで、長いこと阻害されていた妹が顔を出す。いかにも面白くなさそうだ。


しかし彼は両親に目を据えたまま、ぴくりとも表情を変えない。


「よろしいな?」


周囲がしんと静まり返る。


気がつくと私は井門さまと向かい合い、馬車に乗せられていた。


(...気まずい)


私はおそるおそる口を開く。


「あの井門さま、神崎というのは」

「その話はいずれする」


「君は俺の妻として、役目を全うしてくれればいい」


そう言ったきり、井門さまは文庫本を開かれ、こちらを見てもくださらなかった。


(...そうね)


私なぞが気にしても、何も解決しない。


これまでと同様、ただ流れるように、日々を生きていくだけ。


もしかしたら、明日は、今日よりは少しマシかもしれない。


殴られなければ...いえ、私を殴る人が一人でも少なくなったならば、それで良い。


少しの時間を経て、馬車は大きな屋敷に到着した。


(これが、井門さまの屋敷)


橘の家もなかなか立派なものだったけれど、比べるべくもない立派な屋敷だ。


よく手入れされた広大な庭。立派な門に、煌びやかではないけれど歴史を感じさせる建物。


彼に連れられて屋敷の中に足を踏み入れる。


「...あのっ!」


声をかけてきたのは、私と同い年くらいの女性。

しかし私はびくっと体を震わせる。


「あっ、突然失礼いたしました!...あの、琴子さまでしょうか?井門さまの奥様の」


私はあまり目を合わせられないまま、こくりと頷く。


同年代の女性はどうしても苦手だった。私にとって同い年くらいの女性の記憶は...妹とのものが最後であったから。


しかし彼女は、ぱあっと顔を輝かせてこう言った。

「まあ、やはり!ご挨拶が遅れすみません、私花巻凪子といいます。以後奥様のお世話を担当いたします」

「このように綺麗なお方が初のご主人さまだなんて、本当に嬉しいですわ!」


驚いてしまって、彼女のことをまじまじと見つめる。

少し明るめの茶髪の癖毛を一つにまとめている、可愛らしい容姿の方だ。


私の失礼な態度のことなど気にもせず、彼女はにこにこしている。


「あの私...琴子と申します。不束者ですが、どうぞよろしくお願いいたします」


彼女のにこにこしていた顔が、さらにぱあっと明るくなった。


◇◇◇


「...ああ、警察はもう引退しようかと思っているんだ」


井門圭介は自室の窓べりに腰掛け、電話を続けた。


「いや、そんな訳ないだろう。少々上と意見の合わないことがあっただけだ」

彼は苦笑する。


「引退して、緩く探偵業でもやっていこうかと思っているよ」


しかし、ふと、彼は眉間に皺を寄せる。


「...だが、最後にこの事件だけは、解決しておかなければならない」


「そのために彼女を、妻として迎えたんだ」


窓べりから離れ、彼はベッド脇に建てられたスケッチブックを捲った。

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