大正十三年 五月
この屋敷に来てから1ヶ月が経過した。
殴られたって平気、どのような日々でも耐えよう...そう思っていた私だったのだけれど、想定外に平穏な日々だった。
旦那様となった井門様は、この1ヶ月殆ど帰ってきていないのである。
たまに帰ってきても、自室で仮眠を取られてすぐに出ていくだけ。
殴られるどころか、言葉を交わす機会すら殆どないのであった。
昨日も夜遅くに帰ってきたと思ったら、またバタバタと出て行ってしまった。
窓から、彼の乗っている馬車が見える。
「奥様」
凪子が心配そうに話しかけてくる。
「ご心配なさらなくても...旦那様はすぐに帰っていらっしゃいますよ」
「?」
きょとんとして、じきに気がつく。
凪子は心配してくれているのだ。
夫に放置されているように見える、奥方を。
「...ありがとう」
「でもいいのよ、私本当に気にしていないの。それどころかここに来てから誰にも殴られなくて...凪子も居てくれているし、私なぞがこんなに良い思いをして良いのかと思うくらい」
「...奥様ぁ」
凪子が泣きそうな顔になる。
「旦那様は!奥様のことを誰よりも大事に思っていらっしゃいます!凪子が弾丸いたしますわ!」
憤慨している凪子に、くすくす笑ってしまう。ありがとう、と呟いて、この穏やかな時間を楽しんだ。
◇◇◇
良い天気だ。私は庭に出て、花たちの様子を見に行こう、と思い立つ。
井門様の出立ちからすると意外なのだけれど、この屋敷の庭には花が多い。
そして庭の真ん中には、立派な噴水とベンチがある。
私はベンチに1人腰掛け、花々を眺める。
五月に見頃を迎える色とりどりの花たちが、綺麗に咲き誇り、夢のような景色を作っている。
...私にもう少し学があれば、この花々がなんという名前なのか分かったのだけれど。
だけれどそんな私にも、五月の花々がすばはしく綺麗であることは分かる。
きっと夏には夏の、冬には冬の美しさを見せるのだろう。
楽しみだな、と思った自分に驚く。
...自分は、いつまでここに居られるのだろう?
私でも、世間でいう夫婦というものが、何をするのかくらいは知っている。
私は一度も旦那様と一緒に寝ていない。
妻としての務めを果たしていない。
世間からすれば、私は離縁されてしかるべき妻だ。
だけれど、もとより旦那様が私に恋情があったとは思えない。
....旦那様は何故、どういったおつもりで、私なぞを妻に指名したのだろう。
「神崎のお嬢を」
確かにあの時、あの人はそう言った。
神崎...?
神...崎...
うららかな日差しの中、花に囲まれたベンチの上で、私はそのまま寝落ちてしまった。
◇◇◇
ごうごうと燃え盛る炎。
「姫様!姫様!」
誰か...誰か呼んでる。
私...?
「お母様が!!姫様っ...!!」
お母様...?
誰かが私を見ている。
綺麗な目の、ちいさな男の子。
あれは、誰...?
◇◇◇
「...琴子」
「琴子!!!」
やさしい力強い声で、私は目を覚ます。
あの綺麗な瞳が、目の前にあった。
「...井門さま」
「...どうした」
井門様は神妙な顔で私を覗き込んでいる。
「...あ」
顔に手を触れ、私は自分が泣いていたことに気がつく。
「何かあったのか」
「...いえ」
あまりに久方ぶりの会話に、胸をどぎまぎさせながら答える。
「夢を、見ていました」
「内容は、よく覚えていないのですけれど...ひどく、懐かしかった気がいたします。あまりにもここが夢のように美しいので、そういった夢を見たのかもしれません」
花々に目をやる。
彼は安心したような表情になる。
「少し散歩しよう」
彼に誘われ、私は立ち上がった。
◇◇◇
花たちに囲まれ、井門さまの隣を歩く。
井門さまは時折花に目を止めてみたり、愛おしそうに眺めていたりして、やはりお好きなのだろうな、と思う。
「このひと月ほど、ろくに話す時間も取れず、悪かった」
唐突に彼が言った。
「...そのような。これほど穏やかであって良いのかと思うほど、素敵な時間を過ごさせていただいておりました。本日は、お仕事は?」
「...ようやくひと段落ついたのでな。屋敷の者たちと、うまくやれていたのなら良かった」
噂とはなんと当てにならないものだろう。
花に囲まれて、柔らかく話すこの人が、あのような噂の張本人とはとても思えなかった。
私もつい、口が滑らかに動くようになる。
「この庭は本当に美しいですね」
「...ああ。花が好きで、使用人たちに無理を言って整えてもらったんだ」
やはりこの人の指示だったのか。
あまりにも意外で、少し笑ってしまう。
「...何がおかしい」
「いえ、花がお好きなのですね」
「...ああ」
不貞腐れたような表情が可愛らしい。
「私初めて、もっと学があればと思います。このように綺麗な花たちが何というものなのか、知りたかった」
丁度目の前にあった、控えめな淡紫の花に目をやる。
彼はその花の近くに寄り、
「...これは、ブローディアという」
ぽつりと言った。
「丁度今が見頃の花だ」
「...ブローディア」
何だか、とても似合う花のような気がする。
「素敵です」
「ひとつ、学がつきました。井門様のお陰で」
彼は微笑む。
「それならば、もう一つ」
「花にはそれぞれ、その花が意味する言葉があるのを知っているか?」
私は首を振る。
「...言葉が」
「ブローディアに付随する言葉は」
「守護」
「...守護」
ふと、井門さまの綺麗な瞳が、こちらをじっと見つめていることに気がつく。
この目に見つめられると、私は身動きが取れなくなってしまうのだ。
「なあ」
「今日は、一緒に寝ないか」
彼は熱い瞳を、こちらに向けたまま続ける。
「ひと月も空けてしまった。...本当の、夫婦の夜だ」
【大正もの】虐げられた私と執着質な男 しずる凛 @rin_ssssss
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