第12話 断絶の水神
川の匂いは、濡れた石の匂いと、冷えた藻の匂いが混じる。夜の風がそれを運び、鼻の奥に残る。残る匂いの中で、ミズハだけが落ち着かない足取りをしていた。
靴音が砂利を噛む。噛んだ音が短く、乾いている。川辺は濡れているのに、音だけが乾く。
弔一は少し後ろを歩いた。追い越さない距離。近づきすぎない距離。近づくと、名が揺れる。
ミズハが立ち止まった。川面の黒が、街灯の薄い光を割る。割れた光の欠片が、水に浮いている。
ミズハは自分の胸元を押さえた。押さえた手が小さく震える。寒さの震えじゃない。言葉が喉へ上がってくる前の震えだ。
「……ミズハ」
ミズハが言おうとして、止まった。
喉が詰まる音がした。咳でもないのに、空気が一度だけ逆流する。ミズハは目を伏せ、口を閉じた。閉じた口の端が白い。
弔一は川の匂いを嗅ぐ。匂いが強くなる。強くなると、言葉が引っ張られる。
「言えないのか」
弔一が言うと、ミズハは首を振った。振る動きが遅い。遅い動きは、抵抗の重さを隠さない。
「言うと、止まる」
ミズハが短く言った。
「何が」
ミズハは川を見た。川面の黒が、呼吸のように動く。動いているのに、今は音がない。水音が遠い。
「風が」
ミズハが言った。
弔一は一歩、前へ出た。靴底が湿った土を踏む。踏んだ感触が冷たい。冷たさが膝へ上がる。
「ミズハ」
弔一が呼んだ。
呼んだ瞬間、風が止まった。
止まるのは、無音になる。川辺の草が揺れない。衣服の端が動かない。止まった空気が肌へ貼りつく。貼りつく空気は紙のように軽いのに、息が入りにくい。
ミズハが目を見開いた。見開いた目の中に、川の黒が映る。
「やめろ」
ミズハが言った。
「呼ぶな」
弔一はすぐに言い返さない。言い返すと、言葉が増える。増えると、縛りが濃くなる。
ミズハは自分の唇を指で押さえ、しばらく黙った。沈黙の中で、遠くの車の音が薄く聞こえる。薄い音が、止まった風の代わりみたいに残る。
「古い呼び方がある」
ミズハが言った。
弔一は頷かない。頷くと、確定になる。確定は削る。
「その呼び方だけが」
ミズハは喉を押さえた。喉の骨が、指に当たる。
「今は出ない」
川辺の冷えが、ミズハの声を乾かす。乾いた声は、神の声に聞こえない。神の声に聞こえないのが、ミズハの傷だ。
弔一は言った。
「下書きが要る」
ミズハは笑いそうになって、やめた。笑いは風を戻す。戻すと、余計なものが混ざる。
「仕事か」
「仕事じゃない」
弔一が言った。
「帳簿に載った」
ミズハの目が揺れた。揺れは水面の揺れに似ている。似ているのに、乾いている。
「未払い」
ミズハが言った。
その言葉だけで、川の匂いが少しだけ濃くなった。濃くなる匂いは、昔の匂いへ繋がる。
ミズハが歩き出した。川沿いの小道を下る。足元の草が靴に触れ、濡れた匂いが立つ。立つ匂いに混じって、遠い線香の匂いがした。近くに寺がある。寺の匂いは、呼び名を奪う匂いだ。
「昔」
ミズハが言った。
弔一は言葉を促さない。促すと、語りになる。語りは説明になる。
ミズハは小さく息を吐き、続けた。
「村があった」
川を見下ろす、狭い村。家と家の間が近い。炊いた米の匂いが夕方に混じる。薪の煙が夏でも残る。残る煙が喉をくすぐる。くすぐられた喉で、子どもが笑う。
ミズハはその光景を言葉で飾らない。飾る代わりに、指先を握ってほどく。ほどくたび、湿った空気が皮膚を撫でる。
「夏の夜は、祭りがあった」
提灯の油の匂い。焼きとうもろこしの焦げた匂い。金魚すくいの水の匂い。甘い綿菓子の砂糖が舌に残る匂い。匂いが重なると、村の夜が厚くなる。
ミズハは川の方を見た。
「紙舟を流した」
紙を折る指が小さい。折り目がぴしりと立つ。立った折り目は祈りの形だ。紙舟は白い。白い紙に、子どもの字で丸い文字が書かれる。墨の匂いが淡い。
ミズハが言った。
「流す前に、呼んだ」
弔一は聞き返さない。聞き返すと、呼び名がそこに生まれる。
ミズハは唇を開いた。開いた唇が震える。震えが止まらないまま、舌が動きかけて止まる。
喉が詰まる。
ミズハは顔を背けた。背けた先に、川の黒がある。黒は吸う。吸う黒は、言葉を飲む。
「呼べない」
ミズハが言った。
その言葉の乾きに、昔の夜の湿りが混じる。混じるほど、痛い。
「ある年」
ミズハは足を止め、石段に腰を下ろした。石段は冷たい。冷たさが尻から背へ上がる。
「事故が起きた」
祭りの夜。笑い声。提灯の揺れ。川へ近づく足音。紙舟が流れる音。水が足首を撫でる音。音が急に変わる。変わる音は、落ちる音だ。
ミズハの肩が小さく跳ねた。跳ねるのは、今でも水音が刺さるからだ。
「子どもが」
ミズハはそこで止めた。止めた口の奥が乾く。
弔一は言わない。慰めも、同情も、ここでは増える。
ミズハは手のひらを見た。手のひらは濡れていない。濡れていないのに、指が冷える。
「村は、呼び名を禁じた」
ミズハが言った。
「声が出る前に、止めた」
止めたのは大人の手。止めた手は正しい。正しい手は、子どもの口を塞ぐ。塞がれた口の熱が、空へ逃げない。逃げない熱は、怒りになる。怒りは水へ落ちる。
「呼ぶのをやめた」
ミズハが言った。
「呼ぶと、また起きると言った」
弔一は石段の端に立ち、ミズハの横顔を見た。横顔の線が硬い。硬い線は、泣けない線だ。
「禁じた瞬間」
ミズハが言った。
「私の力が、抜けた」
抜けるのは空気みたいに見えない。見えない抜け方ほど、身体に残る。残るのは、音が変わる。水音が遠くなる。風が刺す。草が枯れる匂いが早く来る。
ミズハは手を握り、開いた。
「守れない」
その言葉は短い。短いのに、重い。
弔一が言った。
「終わったんだな」
ミズハの目が動いた。動いた目が怒りに近い色を含む。
「終わってない」
ミズハが言った。
「終わらせたくない」
弔一は声を荒げない。荒げると、川の黒が揺れる。
「終わらないと腐る」
弔一が言った。
ミズハは唇を噛んだ。噛む音が小さい。
石段の下の水面が、遠い音を返す。返す音は、昔の祭りの音より冷たい。
ミズハが言った。
「数年後」
声が少しだけ低くなる。低い声は夜に馴染む。
「店が来た」
店の匂いは水鉢の匂いだ。水に浸けた木の匂い。古い紙の匂い。香の甘い匂い。甘いのに、喉が渇く匂い。
「安全な名を売った」
ミズハが言った。
安全、という言葉はここでは言わない方がよかった。けれどミズハは言ってしまった。言ってしまった瞬間、眉間に小さな皺が寄る。寄る皺は、後悔の皺だ。
「呼び方を統一した」
村の人間は、事故が怖い。怖いという言葉は出さない。代わりに、夜に戸を閉める音が早くなる。川へ近づく足音が減る。祭りが小さくなる。提灯の数が減る。減った分だけ、店の灯りが目立つ。
「事故が減った」
ミズハは乾いた口で言った。
「代わりに」
そこで息を詰める。詰める息が喉に引っかかる。
「古い呼び名が、消えた」
誰の口からも出ない。出そうとすると舌がもつれる。もつれるのは、病気じゃない。店の手順だ。
ミズハは自分の指を見た。指先が震える。震えが止まらない。止まらない震えは、守れない震えだ。
「私の古い呼び名を言うと」
ミズハが言った。
「口の中が苦くなる」
苦さは薬の苦さに似ている。似ているのに、吐けない。吐けない苦さは長く残る。
弔一は言った。
「お前は」
ミズハが弔一を見る。見る目が尖る。
「神じゃないと言うな」
ミズハが先に言った。
弔一は止めない。止めないのは、ここが核心だからだ。
「言う」
ミズハは自分に言うように言った。
「当事者じゃない。もう神じゃない」
吐くように言った瞬間、胸が上下した。上下の呼吸が浅い。浅い呼吸は、川の匂いを吸いすぎる。
弔一は静かに言った。
「当事者だ」
ミズハは首を振った。
「呼ばれない。守れない。私は」
弔一は言い返す。
「未払いは残る」
ミズハは目を伏せた。伏せた目のまぶたが濡れている気がした。気がするだけで、涙は落ちない。落ちない涙は、神の涙じゃない。
弔一は鞄から紙を出した。横長の紙。帳簿の写しより薄い。薄い紙は音がよく鳴る。鳴る音が乾いている。
弔一は紙を石段の上に置いた。置くと、紙の端が風でめくれそうになる。めくれそうになるのに風が戻らない。戻らない風は、弔一の呼び方のせいだ。
「一覧にする」
弔一が言った。
「最後の呼び名を並べる」
ミズハは紙を見ない。見ると、昔が刺さる。
「書けない」
ミズハが言った。
「出ない」
弔一は万年筆を取り出した。キャップを外す。インクの匂いが立つ。匂いが立つと、今が仕事場になる。
「お前が言えないなら」
弔一は言った。
「俺が聞き取る」
ミズハは笑いそうになって、咳に変えた。咳は乾く。乾く咳は喉を痛める。
「勝手だな」
ミズハが言った。
「帳簿みたいに」
弔一は返す。
「帳簿よりマシだ」
弔一は紙の左端に線を引いた。呼び名を書くための列。列があると、紙は急に役所の顔になる。役所の顔は冷たい。冷たい顔の中に、祈りを入れるのが今日の手順だ。
「一つ目」
弔一が言った。
ミズハは口を開けた。開けた口が止まる。止まる口の中で、舌が迷う。
ミズハは喉を押さえ、首を横に振った。
「出ない」
弔一は言った。
「情景でいい」
ミズハはしばらく黙り、ようやく言った。
「提灯の下」
弔一は紙に短く書く。
提灯の下で呼ばれた名。
抽象を避けるために、名そのものは書かない。書くのは、呼ばれた場所。呼ばれた温度。呼ばれた匂い。
ミズハが続ける。
「油の匂いが」
「髪に移る夜」
弔一が書く。
油の匂いが髪に移る夜の名。
ミズハの指が石段を擦った。擦る音が乾く。乾く音は昔の湿りをこすり落とす音に似ている。
「二つ目」
弔一が言う。
ミズハは目を閉じ、言った。
「葬式のあと」
弔一が書く。
葬式のあとに囁かれた名。
ミズハが小さく息を吸う。吸う息が震える。
「線香が」
「喉に残る」
弔一が書く。
線香が喉に残る朝の名。
「三つ目」
弔一が言う。
ミズハは首を振った。振る速度が早い。早いのは痛いからだ。
「子どもの泣き声」
ミズハが言った。
「川の方へ」
弔一が書く。
子どもの泣き声で崩れた名。
崩れた、という言葉は危ない。けれどミズハが言った。言った言葉は、取り消せない。取り消せないから、弔一はそのまま置いた。置いた文字が紙の上で重くなる。
ミズハの肩が小さく揺れる。揺れる肩は泣きの肩に見える。見えるだけで、涙は落ちない。
弔一は四つ目、五つ目、と続けた。ミズハは断片を落とす。断片は匂いと温度で出来ている。呼び名そのものは出てこない。出てこないことが、断絶の証拠になる。
紙の上に、縦に並ぶ。
井戸の冷たさで呼ばれた名。
雨の前の土の匂いで呼ばれた名。
裸足の泥で呼ばれた名。
火鉢の灰の匂いで呼ばれた名。
弔一は一つにつき一行だけ添える。添える行は短く、乾かす。乾かすほど、呼び名の不在が目立つ。目立つ不在が、祈りの密度になる。
最後に、弔一は紙の右端に小さな枠を作った。
署名欄。
枠線が引かれた瞬間、ミズハの顔が固まった。固まりは氷の固まりに似ている。似ているのに、冷えは水から来ている。
「当事者の署名が必要だ」
弔一が言った。
ミズハは唇を震わせ、笑いかけて、失敗した。笑いの代わりに息が漏れる。漏れる息が白い。
「持てない」
ミズハが言った。
「筆が」
弔一は言った。
「持てるかどうかじゃない」
ミズハは目を見開いた。
「違う」
ミズハが言った。
「私は当事者じゃない」
喉が詰まる。詰まる音が痛い。
「私はもう神じゃない」
その言葉は吐く言葉だ。吐いた瞬間、胸が軽くなるはずなのに、重くなる。重くなるのは、言葉が紙へ落ちたからだ。
弔一は黙ったまま、鞄の口を開けた。中から洗面器を出す。薄い金属の盆。仕事道具として持っているものだ。だが今日の用途は違う。
ミズハが目を細めた。
「水」
弔一は答えない。答えると誓いになる。誓いは破る。
弔一は洗面器を石段の横に置き、蓋を開けた水筒から水を注いだ。水が落ちる音が薄い。薄い音でも、弔一の指先が反応する。反応は震えじゃない。乾きの痛みだ。
弔一は水に触れない。触れない距離で、洗面器の縁を押さえる。押さえる手は手袋のままだ。手袋の革が冷えている。
水面が揺れる。揺れの中に、川辺の匂いが混じる。混じると、ミズハの呼び名が喉まで上がってきそうになる。
弔一は紙を持ち上げ、洗面器の上へかざした。水面から指一本分。触れない距離。触れないのに、冷気が紙へ上がる。上がる冷気が紙を湿らせる前に、弔一は呼吸を止めた。
ミズハが言った。
「やめろ」
弔一は言わない。言わないまま、紙を水面に近づける。近づけるほど、指先が白くなる。白くなるのは紙に似るからだ。
水面に、細い線が浮いた。
文字の線。誰も書いていない線。線は水で出来ているのに、黒く見える。黒いのは夜の光がそう見せるだけだ。
ミズハが息を呑んだ。呑む音が小さく鳴る。
水面に浮いた線が、ひとつの形になる。ひとつの形は、呼び名の一部だ。古い呼び名の輪郭だ。
ミズハの喉が詰まり、今度は声にならない声が漏れた。
「……」
弔一は紙をそのまま、水面すれすれで止めた。止めると、紙の裏が冷える。冷えが指の中へ刺さる。
弔一は言った。
「文字じゃなくていい」
ミズハは弔一を見た。見る目が揺れる。揺れは水面の揺れと似ている。
「署名は水で残す」
弔一が言う。
ミズハが首を振りかける。振りかけて止める。止めた首の動きが小さい。
「言葉にしたら」
ミズハが言った。
「終わる」
弔一は言った。
「終わらせない形で残す」
ミズハは洗面器の水面を見た。見た瞬間、古い呼び名の輪郭がふっと薄くなる。薄くなるのは、見られたからだ。見られると、削られる。
弔一は紙を少しだけずらし、水面の揺れを紙の端へ集めた。集める揺れが、紙の端に小さな水滴を作る。
水滴が出来る。出来た水滴が落ちそうで落ちない。落ちない水滴は、輪郭だけを残す。輪郭は、署名の形になる。
弔一は紙を水面から離した。離した瞬間、指先が熱を持った。熱は痛みの予告だ。予告だけで、まだ痛みは来ない。
ミズハが紙を見た。紙の署名欄に、水滴の輪郭が残っている。輪郭は文字じゃない。文字じゃないのに、そこに誰かがいた痕になる。
ミズハの喉が動いた。動いた喉が、ようやく息を通す。
「これで」
ミズハが言いかけて、止めた。
弔一は言った。
「帳簿を見ろ」
弔一は鞄から帳簿の写しを出した。湿りが移らないように、端だけを持つ。持つ端が硬い。硬さが増えている。
帳簿の写しを開く。開いた紙の匂いが冷たい。
そこにあるはずの一行。
水神ミズハ:未払い(信仰)。
文字が薄い。
薄いのは消えたからじゃない。消え切れていない薄さだ。薄さが残酷に残る。
ミズハの目が細くなった。
「残ってる」
ミズハが言った。
「半分」
弔一は頷かない。頷くと、半分が確定する。確定は次の削りになる。
「それでも揺らいだ」
弔一が言った。
ミズハは息を吐いた。吐いた息が湿る。湿りは涙の湿りに近い。近いだけで、まだ涙は落ちない。
「終わりじゃない」
ミズハが言った。
「でも」
弔一は言った。
「終わりにされる前に、書ける」
ミズハは紙を見た。呼び名の一覧。情景の一行。署名欄の水滴の輪郭。輪郭は、言葉にしない誓いだ。
帰り道、路地に入ると水たまりがあった。雨は降っていないのに、水だけが残る。残る水は店の匂いがする。水鉢の匂い。甘い香。古い紙の冷え。
ミズハが足を止めた。止めた足元で、水たまりが震えた。震えの中に、街灯の光が裂ける。
ミズハは水たまりを覗き込んだ。覗き込んだ瞬間、顔が固まった。
水面に映っているのは、帳簿だけだった。
人の影がない。ミズハの影も、弔一の影もない。帳簿の角だけが、くっきりと水に浮く。
ミズハが低く言った。
「店主」
弔一は水たまりから目を逸らさない。
「いない」
ミズハが言った。
「帳簿が店主」
弔一の口の端が少しだけ上がった。笑いじゃない。歯の根が硬くなる合図だ。
「じゃあ」
弔一が言った。
「焼けるな」
水たまりの表面が、何もないのに一度だけ波打った。波は短い。短い波が、帳簿の角を歪ませる。
ミズハはそれを見て、拳を握った。
「終わらせるな」
ミズハが言った。
弔一は言った。
「終わらせ方を選べ」
二人の足音が、路地の湿った石を踏む。踏む音は乾いている。乾いた音が、次の章の入口みたいに響いた。
遺書代筆人は、名前を売る店を許さない 妙原奇天/KITEN Myohara @okitashizuka_
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