第11話 帳簿の遺書
夜の事務所は、昼より乾く。乾きは紙の匂いを立てる。机の木目に染みたインクの匂い。封筒の糊が眠っている匂い。乾いた匂いの中で、湿りだけが異物になる。
床に、紙が落ちていた。
帳簿の写しだ。落ちた紙束は、倒れたまま開いている。めくれたページの白が、蛍光灯の下で薄く光る。紙は濡れていないのに、ある行だけが暗い。暗さは水の暗さだ。乾いた部屋の中で、そこだけが冷たい。
紙屋敷弔一。
水接触(未遂)。
その行の文字が、滲む寸前のように湿っている。滲む前のインクは、呼吸を止めさせる。弔一は足を止め、視線だけを落とした。
ミズハが後ろから入ってきた。戸が閉まる音が小さく響き、空気が一段固くなる。
「また勝手に開いたのか」
弔一は返事をしない。返事をすると、紙に近づくための息が増える。息が増えると、湿りが増える。
弔一は棚から手袋を取った。薄い革。内側がさらさらしている。手袋をはめる動きは慣れていない。指が途中で引っかかり、革が小さく鳴った。
ミズハの目が、弔一の手に止まる。
「手袋」
弔一は床の紙から目を離さない。
「触る時だけだ」
ミズハは一歩近づきかけて、止まった。止まった足元の湿りが、床板に薄い影を落とす。
「いつから」
弔一は手袋の指を一本ずつ引っ張った。引っ張るたび、指先が乾く。乾いた指先は、革の内側に吸われる。
「最近だ」
ミズハは口を閉じた。閉じた口の端が震える。震えは怒りじゃない。冷えだ。
弔一はしゃがみ、床の帳簿の写しを拾い上げた。紙の端が少しだけ重い。重さは水じゃない。記録の重さだ。持ち上げると、湿った行が光を吸う。
机の上に置く。置いた瞬間、紙の影が机に染む。染んだ影が冷たい。
ミズハが言った。
「載った時点で終わりだ」
弔一は帳簿の写しをめくらず、行の位置だけを確かめる。
「終わりにされる前に書く」
「何を」
ミズハの声が短い。短い声は喉の奥で硬い。
「値札だ」
弔一は万年筆のキャップを回した。二度。回る音は小さい。小さい音の反復が、紙の湿りを押し返す。
「商品にされる前に、俺が書き換える」
ミズハが鼻で息を吐いた。吐いた息が湿る。湿りが紙の上へ寄りかける。寄る前に、ミズハは顔を背けた。
「お前は勝てない」
弔一は目を上げない。
「勝てる形にする」
言い切ったあと、喉が空振りした。空振りは音にならない。音にならないまま、胸の中で乾く。
玄関の鈴が鳴った。
高い音。乾いた音。紙の匂いに混ざらない音。
ミズハと弔一の視線が同時に動く。視線の動きが揃うのは、二人の癖だ。揃った癖の中で、湿りだけが遅れる。
弔一は手袋を外さないまま立ち、玄関へ向かった。足音は抑える。抑えた足音でも、床板が小さく鳴る。鳴った音が、紙を起こす音に似ている。
戸を開けると、男が立っていた。
背広。くたびれていない。靴も磨いてある。けれど、目の下だけが灰色だ。灰色は寝不足の色じゃない。蛍光灯の色だ。
男の手には紙袋があった。紙袋は役所で配られるような厚い紙だ。袋の角がきっちり立っている。立っている角は、きちんと折り目をつける人の角だ。
「……紙屋敷さん」
男は名を呼んだ。呼ぶ声は遠慮がない。遠慮がないのに、喉が乾いている。
「依頼か」
弔一が言うと、男は頷いた。頷きの角度もきっちりしている。きっちりしすぎて、首が硬い。
「白須です」
男が言った。
「白須宗司」
名を言った瞬間、唇が少しだけ震える。震えは泣きの震えじゃない。怒鳴りたいのを我慢する震えだ。
弔一は玄関の外の匂いを嗅いだ。湿りはない。雨の匂いもない。なのに、男の背広の内側が冷えている。冷えは夜風の冷えじゃない。廊下の冷えだ。
「入れ」
弔一が言うと、白須は靴を揃えて上がった。揃え方が丁寧すぎる。丁寧な人は、壊れる前に一度、折り目を作る。
ミズハは白須の顔を見て、言った。
「役所の匂いがする」
白須は目を瞬いた。瞬きが一拍遅れる。遅れは驚きの遅れじゃない。確認する癖の遅れだ。
「文書課です」
白須が言った。
「書類を作って、回して、印をもらって、閉じる。そういう部署です」
弔一は机の前へ白須を座らせた。椅子がきしむ音が乾く。乾いた音は、事務所の空気と合う。
白須は紙袋からクリアファイルを出した。透明なファイルに、書類が何枚も挟まっている。紙は新品じゃない。指の脂がついた紙の匂いがする。指の脂の匂いは、仕事の匂いだ。
白須はファイルを開き、最初の一枚を出した。
申請書のような書式。枠線。項目。日付。印欄。印欄だけが、白い。
白須の指が、印欄の上をなぞった。なぞると、紙が小さく鳴る。鳴った音が、空白の音だ。
「ここ」
白須が言った。
「俺の決裁印があった」
弔一は紙に触れない。手袋をしていても、ここで触る必要はない。必要がない動きは、店に言葉を渡す。
弔一は視線だけを動かす。印欄の白が、蛍光灯の白に似ている。
「消えたのは印か」
弔一が言うと、白須は首を振った。
「印だけじゃない」
白須の喉が鳴った。鳴った喉が乾く。
「俺の手柄が消えた」
ミズハが眉を寄せる。
「手柄」
「記録がないんです」
白須は言った。
「俺が作ったはずの書類が、俺の作ったものとして残ってない。回覧の履歴が空白になってる。決裁印だけが空欄で止まってる。上からは言われるんです。誰が止めた。誰が遅らせた。俺が止めたみたいに」
弔一は白須の指先を見る。指先にインクの匂いがない。スタンプの朱肉の匂いが薄い。薄いのは、押す回数が減ったからだ。減ったのは、仕事が減ったからじゃない。仕事の記録が剥がれたからだ。
「名を売ったな」
弔一が言うと、白須の口が固まった。
「……出世のために」
白須は言った。
「家族を食わせるために」
ミズハが舌打ちをしそうになり、飲み込んだ。飲み込んだ音が小さく湿る。
白須は続けた。
「買ったんです。安全な道。落ちない道。上がる道。役所は椅子取りゲームですから」
弔一は頷かない。頷くと共感になる。共感は甘い。
「で」
弔一が言う。
「次に奪われたのは功績か」
白須は目を閉じた。閉じた目の奥で蛍光灯がちらつくのが見える気がした。蛍光灯の光は、夜でも昼でも同じ顔をする。
「功績がなくなった」
白須が言った。
「上司は言うんです。お前は何もしてない。記録がない。記録がないなら、してない。そう言う」
弔一は机の上に置いた帳簿の写しを横目で見た。湿った行が、さっきより暗い。暗さが増えたのは、白須の言葉が空白に落ちたからだ。
「依頼は遺書か」
弔一が言うと、白須は小さく頷いた。頷きが、さっきより崩れている。
「死ぬわけじゃない」
白須は言った。
「でも」
言葉の後が続かない。続かないところで、喉が鳴った。
弔一は言った。
「ここにいる」
白須が顔を上げた。上げた目の中に、蛍光灯の白が映る。
「証拠が欲しい」
白須が言った。
「俺がやったって証拠が」
ミズハが言う。
「家族に残すのか」
白須は首を振った。
「家族は俺の顔を知ってる。声も知ってる。家族に残しても、外の世界が変わらないなら意味がない」
弔一は白須の言葉の硬さを聞いた。硬い言葉は、すでに何度も言い直した言葉だ。
「なら」
弔一は言った。
「帳簿に向けろ」
白須の眉が動く。動いた眉が、理解できない眉だ。理解できない時、人は顔に余計な筋肉を使う。
「帳簿」
白須が繰り返す。
ミズハも弔一を見る。見る目が尖る。
「お前」
ミズハが言った。
「また変なこと言ってる」
弔一は机の上の帳簿の写しを指さした。指さす指は手袋のままだ。手袋の革が机に擦れ、乾いた音がした。
「敵が記録を奪う」
弔一は言う。
「なら、記録に遺書を書いて奪った事実を固定する」
白須は口を開けた。開けた口が乾く。乾いた口が、言葉を探す。
「記録に」
「遺書」
「書けるのか」
弔一は短く言った。
「書ける」
ミズハが言う。
「どうやって」
弔一は白須の書類を指で示す。触れない。示すだけ。
「空白がある」
弔一は言った。
「空白は逃げ道だ」
白須が印欄を見る。白い枠が、やけに広い。広い空白は、誰かが意図的に残した余白みたいだ。
「空白は、ただの穴だ」
白須が言う。
「穴は埋まる」
弔一は言った。
「埋めるのは相手だ」
ミズハが目を細める。
「埋められる前に、お前が埋めるってことか」
弔一は頷かない。
「上書きだ」
弔一は言った。
「敵の記録に対抗する記録を置く」
白須の喉が動いた。動いた喉が痛そうに見える。
「でも」
白須が言う。
「俺の言葉は、記録にならない」
弔一は万年筆を持ち上げ、キャップを外した。インクの匂いが一瞬だけ立つ。匂いは乾いている。
「当事者の署名だけが鍵だ」
弔一が言うと、白須は目を見開いた。見開いた目の白が蛍光灯を反射する。
「署名」
白須が言った。
「俺の」
「お前の」
弔一は言う。
「お前の手で、奪われたことを書く。奪われたことを、奪った記録の上に書く」
ミズハが言った。
「長い話はいい」
弔一はミズハを見ない。見ないまま言った。
「作業だ」
弔一は白須に問う。
「空白がいつ発生した」
白須は一瞬、目を閉じた。閉じた目の奥で蛍光灯が鳴る。鳴る気がするだけで、頭が痛くなる。
「二週間前」
白須が言った。
「月曜」
「朝の回覧で」
弔一は紙を一枚出した。白い紙。厚い紙。乾いた紙。紙の端が指に吸いつく前に、弔一は手袋の指で紙を押さえた。
「時系列で言え」
弔一が言う。
白須は頷き、言葉を並べ始めた。並べる言葉は硬い。硬い言葉は、役所の言葉だ。役所の言葉は匂いがしない。匂いがしないから、現実の匂いを周りに置く必要がある。
「朝八時半」
「蛍光灯が点いて」
「床が冷たくて」
「コピー機が温まってなくて」
白須が言うたび、弔一は紙に短く書いた。書く音は小さい。小さい音が積み重なると、部屋の乾きが少しだけ濃くなる。
「書類の束を持って」
「回覧箱に入れて」
「課長の机へ」
白須の指先が机の端を掴む。掴んだ指が白くなる。白さは緊張だ。緊張と言わない。
「課長は見た」
「係長も見た」
「隣の席の……」
白須が言い淀む。言い淀んだところで、名前が出ない。
ミズハが白須を見る。
「誰だ」
白須は唇を動かす。動かすのに音が出ない。音が出ない動きは喉の乾きに似ている。
「……出ない」
白須が言った。
「名前が」
弔一はペンを止めない。止めないことで、空白に落ちる前の時間を作る。
「特徴でいい」
弔一が言うと、白須は息を吐いた。吐いた息が乾く。
「背が高くて」
「眼鏡で」
「いつも手が冷たくて」
白須の言葉は、誰かの輪郭を作る。輪郭だけを作る。名を置かない。名を置くと削られる。
ミズハが小さく言った。
「役所でも削れるのか」
弔一は答えない。答えると説明になる。説明は湿りになる。
弔一は白須に問う。
「空白に気づいたのはいつだ」
白須の喉が鳴る。
「木曜」
白須が言った。
「決裁が戻ってきた。印欄が空白のまま」
「課長が言った」
「誰が止めた」
「俺が止めたみたいに」
白須の肩が小さく震える。震えは怒りだ。怒りと言わない。震えだけを置く。
弔一は紙に、空白という文字を書かない。空白は抽象だ。代わりに、印欄の枠の形を描いた。四角。四角の中の白。
ミズハが弔一の紙を見る。見た目が細くなる。
「お前」
ミズハが言った。
「絵で残すのか」
弔一は言う。
「枠は逃げない」
白須が言った。
「枠だけ残っても、俺がやったって証拠にならない」
弔一はペン先を紙の四角の横に置く。
「ここに新しい項目を作る」
弔一が言うと、白須は目を瞬いた。
「項目」
「敵が作った帳簿は、敵の都合で項目がある」
弔一は言った。
「なら、こちらの都合で項目を増やす」
弔一は机の上の帳簿の写しを、白須の視界の端に入るように置いた。白須はその紙を直視できない。直視すると、喉が乾くのがわかっている。
「でも」
白須が言う。
「帳簿の写しだろ」
弔一は言った。
「写しで十分だ」
ミズハが口を開いた。
「写しに書いても、本物は変わらない」
弔一はミズハを見ないまま言った。
「本物は、写しの矛盾を嫌う」
ミズハの眉が動く。理解の眉だ。理解は不安の前に来る。
弔一は白須に紙を差し出した。差し出す手袋の指が、紙の端を押さえる。紙が手袋に吸いつく音がしない。吸いつかないのが救いだ。
「書け」
弔一が言う。
「何を」
「奪われたもの」
弔一は言う。
「奪取」
白須の目が揺れる。揺れは怖さじゃない。役所の人間が使わない言葉の揺れだ。
「奪取」
白須が繰り返す。
弔一は頷かない。
「書ける言葉でいい」
弔一は言った。
「消えた」
「抜けた」
「空いた」
白須はペンを持った。ボールペン。役所のペン。軽いペン。軽いペンが、紙の上で震える。
白須は書いた。
消失:決裁印。
消失:回覧履歴。
消失:作成者。
文字は硬い。硬い文字は爪のように紙に残る。残った爪が、白い枠を引っかく。
弔一は次の紙を出した。
「次は」
弔一は言う。
「奪取:功績」
白須の肩が揺れた。揺れは一瞬で止まる。止める癖が役所の癖だ。
「功績なんて」
白須が言いかけて、止まる。
弔一は言った。
「言い方は自由だ」
白須は息を吐き、書いた。
奪取:手柄。
奪取:成果。
奪取:評価。
書いた瞬間、部屋の空気が少しだけ軽くなる。軽さは勝利の軽さじゃない。圧が抜ける軽さだ。
ミズハが小さく息を吸った。吸った湿りが、いつもより薄い。
弔一は机の上の帳簿の写しに目をやった。湿った行が、一瞬だけ乾いた気がした。気がしただけで、すぐ冷えが戻る。戻る冷えは相手の冷えだ。
「署名」
弔一が言う。
白須が顔を上げる。
「ここに署名しろ」
弔一は紙の下に、署名欄を作った。枠線だけ。枠線の中に、白須の名前が入る予定の白。
白須はペンを握り直した。握り直す指が白い。
「俺の名前は」
白須が言いかけて、唇が止まる。
ミズハが言う。
「言えるだろ」
白須は苦笑した。苦笑は乾いている。
「言える」
白須が言った。
「でも」
「書けるかどうかは別だ」
弔一は言う。
「書け」
白須はペン先を署名欄に置いた。
置いた瞬間、ペンが止まった。
止まった先に、見えない抵抗がある。抵抗は紙の抵抗じゃない。紙の上にもう一枚、薄い膜がある抵抗だ。
白須の喉が鳴る。鳴った喉が乾く。
「……書けない」
白須が言った。
弔一は言った。
「見せろ」
白須はペン先を少し動かした。動かした線が、途中で途切れる。途切れた線は、インク切れの線じゃない。書けない部分だけ、紙が吸わない。
ミズハが言った。
「ここも空白か」
弔一は頷かない。
「当事者だけが署名できる」
弔一は言った。
「当事者だ」
白須が言う。
「俺だ」
弔一は白須の目を見る。見ると、蛍光灯の白が映る。白は役所の白だ。役所の白は人を削る。
「当事者であることを奪われた」
弔一が言うと、白須の目が揺れた。揺れは怒りに近い。怒りに近い揺れは、紙を破る衝動に繋がる。
白須は机の端を掴んだ。掴んだ指が白くなる。白さは、紙の白と混ざる。
「じゃあ」
白須が言った。
「どうすれば」
弔一は机の上の帳簿の写しを指で叩いた。叩く音が乾いた。
「ここに遺書欄を新設する」
弔一は言う。
「遺書欄」
ミズハが言う。
「そんな欄、どこに」
弔一は紙を一枚、帳簿の写しの上に重ねた。重ねると、上の紙の白が透けて、下の行の黒が薄く見える。薄さが、呼吸を止める。
「行間」
弔一が言った。
白須が眉を寄せる。寄せた眉が、役所の人間の眉だ。枠から外れるものを嫌う眉だ。
「行間に書いたら」
白須が言う。
「無効だろ」
弔一は言った。
「無効にできるなら、相手は消す」
白須の喉が動く。
「消せない形にする」
弔一は言った。
弔一は万年筆を持ち、帳簿の写しの行間に、短く線を引いた。線は細い。細い線は、紙の毛羽立ちを拾わない。拾わない線は冷たい。
弔一は小さく項目を書いた。
奪取:名。
奪取:功績。
奪取:声。
奪取:記憶。
最後の二文字を、弔一は途中で止めた。止めたまま、ペン先を持ち上げた。抽象が増えると、部屋が湿る。湿る前にやめる。
ミズハが弔一の手元を見る。見る目が鋭い。
「今」
ミズハが言う。
「余計な言葉を書いた」
弔一は言った。
「今だけだ」
白須が弔一の書いた項目を見る。行間の文字は、帳簿の文字より細い。細いのに、目が引っかかる。
弔一は白須に紙を差し出した。
「署名」
弔一が言う。
「この項目の横に、お前の手で署名しろ」
白須は躊躇した。躊躇は長い。長い躊躇は、役所の廊下の長さに似ている。長い廊下は足音が響く。響く音が人を小さくする。
白須はペンを握り、署名欄ではなく、行間の項目の横へペン先を置いた。
置いた瞬間、抵抗が減った。
紙が吸う。インクが入る。入る音が小さい。
白須は、自分の名前を書いた。
白須宗司。
書けた。
書けた瞬間、帳簿の写しの紙が小さく震えた。震えは風の震えじゃない。紙の内側から震える震えだ。
ミズハが息を止めた。
弔一の喉が乾いた。乾きは痛い乾きだ。痛いと言わない。喉の奥が擦れるだけ。
白須が続けて、他の項目にも署名した。奪取:名。奪取:功績。奪取:声。署名が増えるほど、白須の手の動きが滑らかになる。滑らかになるのは希望じゃない。手順の回復だ。
最後の署名を書いた瞬間、帳簿の写しの一部が黒く滲んだ。
滲みは、湿りの滲みだ。湿りが紙の表面に浮き、薄い膜を作る。膜が破れて、文字が吐かれる。
吐かれた文字は、弔一が書いたものじゃない。
存在しない。
文字が勝手に出て、勝手に並ぶ。並ぶと、部屋の温度が落ちる。落ちた温度が、指先の乾きを進める。
ミズハが言った。
「店の言葉だ」
弔一は目を細める。細めた目の奥が痛い。
帳簿の写しの上に、新しい行が浮かんでいる。
白須宗司:功績 存在しない。
その行の下に、弔一が作った遺書欄がある。
奪取:功績 白須宗司。
矛盾が並んだ。
同じ紙の上で、同じものが、存在しないと、奪ったと、同時に書かれている。
矛盾が生まれた瞬間、空気が軽くなった。
軽さは、胸が開く軽さだ。開くと、息が入る。息が入ると、喉の空振りが止まる。止まるだけで、勝った気がする。勝った気がするだけで、油断になる。
白須が小さく息を吐いた。
「……軽い」
白須が言った。
「ここ」
「さっきまで、重かった」
ミズハが机の周りの空気を手で探るように動かした。指先に湿りがない。湿りが薄い。
「揺らいだ」
ミズハが言った。
「一瞬だけ」
弔一は帳簿の写しを見た。湿っていた行が、少しだけ乾いている。乾きは戻る乾きだ。戻る乾きは短い。短い乾きは、次の一撃の前の乾きだ。
白須が言った。
「これで」
「俺は」
弔一は言った。
「まだ終わらない」
白須の唇が震えた。震えは笑いの震えに近い。笑いに近い震えは、崩れる前兆だ。
「ありがとう」
白須が言った。
弔一は頷かない。
「閉じろ」
弔一が言うと、白須は帳簿の写しをそっと閉じた。閉じた瞬間、紙が小さく鳴った。鳴った音は乾いた音だ。乾いた音はこの部屋の音だ。
白須は立ち上がり、深く頭を下げた。下げる動きが、役所の礼の動きだ。礼は形だ。形は記録になる。
白須が去ったあと、事務所の空気が静かになった。静かさの中で、机の上の帳簿の写しだけが冷たい。
ミズハが言った。
「勝った顔をするな」
弔一は言った。
「してない」
ミズハは弔一の手を見る。手袋の指が、少しだけ硬くなっている。硬さは革の硬さじゃない。中の指の硬さだ。
「お前」
ミズハが言う。
「攻めるほど壊れる」
弔一は答えない。答えると、壊れの形を言葉にして固定することになる。固定は削る。
弔一は手袋を外し、机の上に置いた。手袋の内側が少しだけ湿っている。湿りは汗の湿りだ。汗は生き物の湿りだ。生き物の湿りが、薄く残っていることが腹立たしい。
帳簿の写しが、勝手に開いた。
開く音はしない。音がしないまま、ページがめくれる。めくれた白が目に刺さる。
弔一は動けない。動くと触れる。触れると記録が増える。
ミズハが机の端に手を置いた。置いた手が冷たい。冷たさが、紙の冷たさと混ざる。
帳簿の写しの端に、新しい一行が増えていた。
水神ミズハ:未払い(信仰)。
ミズハの顔から色が抜けた。抜けた色は水の色じゃない。紙の色だ。
「……載った」
ミズハが言った。
弔一の喉が乾き、息が一度だけ詰まった。詰まった息が胸の中で硬くなる。
ミズハが弔一を見る。見る目が凍る。凍った目は、河川敷の枯れた流れの目だ。
「お前」
ミズハが言う。
「今のは」
弔一は言った。
「俺のせいだ」
言った瞬間、指先が少しだけ裂けそうになった。裂けそうな感覚だけが走る。痛みはまだ来ない。痛みが来ないのが怖い。
ミズハが唇を噛んだ。噛んだ唇が白い。
「未払い」
ミズハが言った。
「信仰って」
弔一は帳簿の写しから目を離せない。離すと、見なかったことになる。見なかったことは、店に任せることになる。
「仕事じゃない」
弔一は言った。
ミズハが目を瞬く。瞬きの中に、水面の揺れが混ざる。
「第十二話は」
弔一は言った。
「お前の遺書の下書きだ」
ミズハの喉が鳴った。鳴った音が湿る。湿りは涙の湿りじゃない。信仰が削られる湿りだ。
机の上の帳簿の写しの白が、静かに増えていくように見えた。
白の中で、弔一の指先だけが、紙より乾いていた。
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