第10話 水を避ける手順

 路地の夜は、甘い匂いがしない。油の匂いも、酒の匂いも、途中で切れる。切れた場所だけが冷える。


 弔一は手のひらに、鏡の欠片を載せていた。


 欠片の縁は滑らかに削ってある。削ったところだけ、指先の熱が逃げる。逃げる熱を追うみたいに、息が浅くなる。浅い息のまま、弔一は路地の角に背をつけた。


 真正面から見ても、何もない。


 壁。排水管。錆。コンクリの湿り。


 けれど、鏡片に角度をつけると、別の線が映る。線は扉の縁だ。縁の向こう側だけ、暗さが違う。暗いのに、光が吸い込まれない。吸い込まれない暗さは、人の目を拒む。


 弔一は鏡片を少しだけ動かした。


 動かすと、扉が動くように見える。動くのは扉じゃない。反射の中だけ、入口が呼吸している。


 ミズハが隣に立った。立っただけで、空気がわずかに湿る。湿りは冷たい。水たまりの前を通ったあとの靴の裏の匂い。


「見える」


 ミズハが言う。


「反射だけだ」


 弔一は鏡片から目を離さない。


 路地の奥で車が通り、風が一瞬だけ入った。風は紙を持っていない。紙の擦れる音がしない夜は、余計に薄い。


「行く」


 弔一が言うと、ミズハの手が弔一の袖を掴んだ。


 掴まれた布が重い。布の重さより、指先の冷たさが重い。


「近づくな」


 ミズハの声は低い。


「触れなければいい」


 弔一は短く返す。


 ミズハの指が、袖を離さない。


「触れなくても、呼ばれる」


 言葉の最後が少し濡れていた。濡れた音は嫌だ。嫌だと思った瞬間、弔一の喉が乾く。


 弔一は袖を引かない。引くと争いになる。争いは音が増える。音は店に届く。


 鏡片の角度をもう少しだけ変える。


 反射の扉が、ほんの一瞬、開いたように見えた。


 開く気配だけがある。音はない。音がないのに、内側の空気がこちらへ擦れる。擦れる空気が、口の中を乾かす。水を飲んだあとの乾きじゃない。飲めない乾きだ。


 ミズハが弔一の袖を掴む指に力を込めた。


 弔一は鏡片を仕舞わない。掌で包み、欠片の冷えを隠す。


「裏だ」


 弔一が言った。


 ミズハは息を吐く。吐いた息が白い。白さの中に、湿りが混ざる。


 路地の影を辿って、二人は壁の横へ回った。回ると、すぐ背中が冷える。冷えるのに汗は出ない。汗が出ないのが怖い。


 壁際の棚があった。


 古い木の棚。埃の匂い。湿った紙箱の匂い。


 棚の上に、洗面器が並んでいる。


 金属の洗面器。陶器の洗面器。プラスチックの洗面器。形は違う。けれど、水面だけは同じ。黒い水。黒いのに、上から落ちる街灯の光を薄く返す。


 水面に、文字が浮かんでいた。


 浮かぶ文字は、紙に書かれたインクみたいな黒じゃない。薄い。薄いのに、読む目だけが引っかかる。引っかかると、目の奥が痛い。


 文字が水面から剥がれていく。


 剥がれたものは、紙屑のように見える。薄い膜。膜がひらりと折れ、くしゃりと縮む。縮むと、どこかへ吸い込まれる。


 吸い込まれる先は、棚の端に置かれた一冊の帳簿だった。


 帳簿は閉じているのに、開いたみたいに紙屑を吸う。吸う音はしない。音がしない吸い込みが続くと、喉が空振りする。


 ミズハが洗面器を一つ指さした。


 指先が震えている。


「……あれ」


 ミズハが言う。


 弔一は視線だけを動かす。


 洗面器の縁に、削り屑が溜まっている。溜まっているのに、水面は静かだ。静かなまま削られている。削られるのに、刃が見えない。


 弔一は息を吸った。


 吸った息が喉の上で止まる。止まったまま、胸の中で冷える。冷えは、近づくなという警告よりも先に身体へ入ってくる。


「これが手順か」


 弔一が言う。


 ミズハは頷かない。頷くと認めることになる。認めると引き返せなくなる。


 そのとき、足音がした。


 路地の奥から。靴の音。細い音。急がない音。


 弔一は鏡片をもう一度、掌に載せた。反射で角度だけを確認する。真正面を見ない。真正面を見ると、入口に気づかれる。


 影が近づく。


 影は一つ。


 やがて、女が見えた。


 黒いコート。髪はまとめている。匂いは香水じゃない。石けんの匂いでもない。紙の匂いがする。紙を抱えた人の匂いだ。乾いた繊維の匂いに、薄い汗が混じる。


 女は棚の前で立ち止まった。


 洗面器に手を伸ばしかけて、止める。止めた手が空中で揺れる。揺れ方が、何度も同じ動きを覚えている揺れ方だ。


 弔一は、ミズハと目を合わせないまま、小さく言った。


「依頼人だ」


 ミズハの喉が鳴る。


「店の客だ」


 女は、洗面器を見つめている。見つめる目が、鏡を見つめる目と似ていた。確かめたい。けれど確かめるのが怖い。怖いと言わない代わりに、女の指先が白い。


 女が振り向いた。


 弔一たちの隠れた影を見る。見る方向が正確だ。正確すぎる。店の裏で、視線の使い方だけが学習される。


「……ここにいるの、わかってた?」


 女の声は低い。低いのに息が浅い。浅い息が、言葉の端を切る。


 弔一は一歩だけ出た。出ると、路地の冷えが服の中へ入る。


「わかる匂いだ」


 弔一は言った。


 女が目を細める。細めた目が、涙の前の細め方じゃない。吐き気の前の細め方だ。


「弔一さん」


 女は名を呼ばない。呼べないわけじゃない。呼ぶと何かが動くのを知っている。


「遺書を」


 女は言った。


「書いてほしい」


 ミズハが短く息を吐いた。吐いた息が湿る。


 弔一は女の手元を見る。指先が、洗面器の方へ何度も寄っては戻る。戻るたびに爪が白い。


「中へ」


 弔一は言った。


 事務所へ連れていくのは危険だ。けれどここで書くと、店の水に近い。近いと削られる。


 弔一は決めた。決めた瞬間、手のひらが少し乾く。


 女は首を振った。


「中はだめ」


 女は言う。


「あそこに、行くと」


「吐く」


 ミズハが一歩出た。女の前に立つ。立っただけで空気が湿る。湿りが女の顔に触れる。女の顔がわずかに緩む。緩むのに、喉が動く。


「呼ばれるたびに吐くんだな」


 ミズハが言った。


 女は頷く。頷く動きが小さい。小さい動きは、体力を残す動きだ。


「宇賀神」


 女は言った。


「澪」


 苗字と名を言った瞬間、口の端が歪む。歪みは笑いじゃない。胃の方へ沈む歪みだ。


 弔一はその歪みを見て、言った。


「売ったのか」


 澪は、視線を落とした。落とした視線が、洗面器の縁の削り屑に吸われる。吸われると目が痛む。


「売った」


 澪は言った。


「代わりに」


 言葉が止まる。止まる間に、喉が鳴る。喉が鳴るのに、涙は出ない。


「買ったんだね」


 弔一が言うと、澪は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。


「芸名」


 澪は言った。


「それで」


「仕事が」


 弔一は頷かない。頷くと慰めになる。慰めは甘い。


「成功した」


 弔一が言うと、澪は短く笑った。笑いは乾いている。乾いた笑いが、路地の冷えに似ている。


「した」


 澪は言った。


「でも」


 ミズハが言う。


「家族に呼ばれると」


 澪は頷いた。


「吐く」


 吐くと言った瞬間、澪の胃が動いた。動いた音が小さく聞こえる。聞こえる音が現実だ。


 弔一は鏡片を仕舞い、代わりに小さなメモ帳を取り出した。聞き取りの準備だ。準備は手順だ。手順は職業だ。職業は説明を偽装する。


「依頼は何だ」


 弔一が問う。


 澪は喉を指で押さえた。押さえると息が整う。整うのに、指が震える。


「本当の方を」


 澪が言った。


「思い出せない」


 言った瞬間、目が一瞬だけ泳ぐ。泳ぐ目は水面の反射に似る。似るのが嫌だ。


「だから」


 澪は続ける。


「遺書を」


「書いて」


「思い出せないまま」


 弔一はメモ帳に書かない。ここで書くと固定になる。固定は削る。削るのは店の仕事だ。


 弔一は澪の指先を見る。爪の根元が赤い。赤さは、吐いたあとの血色じゃない。握りしめた赤さだ。


「条件がある」


 弔一は言った。


 澪が顔を上げる。上げた顔が青い。青いと言わない。青は水の言葉だ。ここでは冷たい顔と言う。


「本当の方は書かない」


 弔一は言った。


「書けない」


 澪の眉が寄る。寄った眉が、怒りじゃなく、焦りに近い。


「じゃあ」


 澪が言う。


「何を書くの」


 弔一は澪の目を見た。見た目の奥に、吐き気の影がある。影は色がない。色がないものを、言葉にするのが仕事だ。


「影だけだ」


 弔一は言った。


「呼ばれたときの体の反応」


「家の匂い」


「声の抑揚」


「その辺りだけを書いて封をする」


 ミズハが口を開いた。開いた口が言葉の前で止まる。


 澪は少しだけ肩を落とした。落とした肩が、息を吐く形になる。


「影でいい」


 澪が言った。


「形がほしい」


 弔一はメモ帳を閉じた。閉じると紙が擦れる音がする。音がするだけで落ち着く。落ち着くのに喉は渇く。


「ここだと危ない」


 弔一は言った。


 ミズハが弔一を見る。見る目が鋭い。鋭さは止めたい鋭さだ。


「水から遠い場所へ」


 弔一は続けた。


 路地を抜けて、事務所へ戻る。戻る途中で、背中が何度も冷える。冷えるたびに、洗面器の水面が頭に浮かぶ。浮かぶたびに、喉が空振りする。


 事務所に入ると、空気が乾いていた。


 乾いた木の匂い。乾いた紙の匂い。乾きは守りになる。守りになるのに、弔一の指先はさらに乾く。乾きが、守りと傷の境目を曖昧にする。


 澪は椅子に座った。座った瞬間、胸を押さえた。押さえた手の下で胃が動く。動くのに吐かない。吐かないことが怖い。


「まず」


 弔一は言った。


「呼ばれたとき、どこが先に反応する」


 澪は目を閉じた。閉じたまぶたが震える。震えは涙じゃない。胃の方へ向かう震えだ。


「喉」


 澪が言った。


「先に、喉が狭くなる」


「次に、舌が重くなる」


 弔一は紙を出した。厚い紙。濡れにくい紙。けれど濡れにくい紙ほど、乾きが目立つ。


 弔一は万年筆を持つ。ペン先が冷たい。冷たいのにインクは出る。出るのに滲まない。滲まない線は硬い。


「家の匂いは」


 弔一が問う。


 澪は少し考える。考える間に、胃が動く。動くたびに喉が鳴る。


「煮物」


 澪が言った。


「醤油」


「台所の、布巾の匂い」


 ミズハが静かに息を吐く。吐いた息が湿る。湿りが紙へ寄る。寄る前に、弔一は紙を少しだけ引く。引いた指が紙に吸いつく。吸いつく指が乾いている。


「声の抑揚は」


 弔一が言う。


 澪の口が少しだけ上がる。上がるのに笑いにならない。上がったまま、喉が詰まる。


「祖母」


 澪が言った。


「語尾が上がる」


「呼ぶときだけ、少し早口」


 弔一は書く。喉。舌。狭くなる。重い。醤油。布巾。早口。語尾が上がる。言葉の意味は置かない。体の反応だけを並べる。並べると、そこに人が浮く。


 澪が手を握った。握った手が白い。白さが名札の白を思い出させる。思い出すと、弔一の指先が乾く。


 ミズハが言った。


「澪」


 澪は顔を上げる。


「水に近づく癖が残ってる」


 澪は一瞬、首を傾げた。傾げた瞬間、目が洗面所の方へ行く。行く目が、行ってはいけない場所を知っている目だ。


「無意識に」


 澪が言った。


「手を洗いに行こうとする」


「呼ばれたあと」


 弔一は書く手を止めない。


「手順に組み込まれてる」


 弔一は言った。


 澪の呼吸が少し速くなる。速くなる呼吸の中で、吐き気がまだ形を保っている。


 そのとき、澪が立った。


 立った動きが唐突だ。唐突なのに、足が洗面所へ向かう。向かう足取りが、店の棚へ向かう足取りと同じだ。


「待て」


 弔一が言った。


 澪は止まらない。止まらないのに目が虚ろだ。虚ろな目のまま、洗面所の蛇口へ手を伸ばす。


 水を出す前に止めないといけない。


 弔一は立ち上がり、澪の手首を掴んだ。


 掴んだ瞬間、指先が冷える。冷えは水の冷えじゃない。水が近い冷えだ。


 澪の指が蛇口の金属に触れる寸前で止まる。


 止まった場所に、見えない水面があるみたいに、空気が硬くなった。硬くなった空気が、弔一の指先を舐める。舐めた瞬間、乾きが一段進む。


 皮膚が白くなる。


 白くなるのに痛みがない。痛みがないのが嫌だ。嫌だと思った瞬間、喉が空振りする。


 ミズハが澪の肩を掴み、後ろへ引いた。


 引かれて澪の足がもつれる。もつれた足が床を擦る。擦れる音がやけに大きい。


 澪はその場に座り込んだ。座り込んだ姿勢が、吐く前の姿勢に似ている。似ているのに吐かない。吐かないことが苦しい。


「触れてない」


 澪が言った。


「触れてないのに」


 言葉の端が震える。震えが胃へ落ちる。


 弔一は自分の指を見る。


 乾いている。乾きすぎている。紙の端を持つと、紙と指が同じ質感になる。同じになると、指の境界が薄くなる。


 ミズハが弔一の手を見て言った。


「呼ばれるって言っただろ」


 弔一は答えない。


 答えると負けになる。負けは次に繋がる。繋がると削られる。


 弔一は指を握り、乾きを隠す。隠しても、握った皮膚の内側が紙に似ている。似ていると、戻れない。


「続ける」


 弔一は言った。


 澪は頷いた。頷きは小さい。小さい頷きは、耐える頷きだ。


 弔一は紙を二部構成にする。


 前半は事務的に書く。冷たい文面。芸名の生活。仕事の結果。時間。移動。収録。契約。領収。数字。数字は助けになる。数字は痛みを薄める。


 後半で影を書く。


 影は、名前を置かない。置くのは反応だけ。匂いだけ。声の抑揚だけ。削られる前の残り方だけ。


 弔一は澪に言う。


「今の生活を、箇条書きで言え」


 澪が目を瞬いた。


「箇条書き」


 弔一は頷かない。


「順番に」


 澪は息を整え、口を開く。


「朝」


「台本に目を通す」


「駅まで走る」


「メイク」


「収録」


「帰りにコンビニ」


 弔一はそれを冷たく並べる。冷たく並べると、紙が仕事の書類になる。書類は言い訳になる。言い訳は守りになる。守りになっても、喉は乾く。


 後半に入る前に、弔一はペン先を一度拭く。拭く布は乾いている。乾いている布に触れると、指先がさらに乾く。


 弔一は澪に言った。


「影だけでいい」


 澪は目を閉じる。閉じた目の奥に、台所の匂いが戻る。戻る匂いが、胃を動かす。動いた胃が喉を押す。押されても吐かない。


「醤油」


 澪が言う。


「煮物の匂い」


「布巾が湿ってる」


 湿ってると言った瞬間、澪の顔が歪む。歪みは痛みだ。痛いと言わない。


「玄関の、靴」


「祖母の、早口」


「語尾が、上がる」


 弔一は一つずつ書く。書いた言葉の周りに、余計な飾りを置かない。置かないと、匂いがそのまま残る。残る匂いが、読み手の喉を乾かす。


 澪が続ける。


「呼ばれたとき」


「喉が狭くなる」


「舌が重い」


「そのあと」


「手を洗いたくなる」


 弔一の指先が少しだけ震えた。震えは寒さの震えだ。感情の震えと言わない。言うと薄くなる。


 弔一は書きながら、最後の一行だけを残す。最後の一行だけ、澪自身の言葉を置く。置くのは短い。短いほど刺さる。


 澪は目を開けた。開けた目が濡れている。濡れは涙ではない。吐き気の前の湿りだ。


「最後に」


 弔一が言う。


「一行だけ言え」


 澪の喉が動く。動いた喉が詰まる。詰まったまま、澪は息を吐いた。吐いた息が震える。震えが声になる。


「触れたくない」


 澪が言った。


「でも」


 言葉が止まる。


 弔一は待つ。待つ間に、紙の匂いが強くなる。強くなる匂いは、店の匂いと違う。違う匂いが、仕事を保つ。


 澪が続けた。


「影だけは」


「残してほしい」


 弔一はそのまま書いた。


 書いた瞬間、インクが滲まない。滲まない線が硬い。硬いのに、紙の上に湿りが残る。湿りはミズハの空気じゃない。澪の湿りだ。


 弔一は紙を折り、封筒に入れた。封をする前に、指先が封筒の糊の部分へ触れそうになる。触れそうになって止める。糊は水に近い。近いと呼ばれる。


 弔一は糊を使わない封をする。糸と紙片だけで閉じる。手順が増えるほど、身体が落ち着く。落ち着くのに指先は乾く。


 封を終えた瞬間、澪の呼吸が変わった。


 浅い呼吸が少しだけ深くなる。深くなると、喉が開く。開くと、胃が少し下がる。下がると、吐き気が形を変える。


 澪は顔を手で覆った。


 覆った指の隙間から、水滴が落ちる音がしない。


 代わりに、温かい湿りが、指の隙間を通って頬を滑った。


 涙だった。


 澪は本当の方を取り戻していない。取り戻していないのに、吐き気が涙に変わっている。変わっただけだ。消えてはいない。消えていないことが、正直だ。


 ミズハが澪の肩に手を置いた。置いた手の湿りが優しい。優しい湿りは、洗面器の水と違う。


 澪が小さく言った。


「家族から電話が来たら」


「また吐くかもしれない」


 弔一は言う。


「吐くなら吐け」


 澪が顔を上げる。目の赤みが薄い。薄い赤みが、まだ生きてる赤みだ。


「吐けない形に変わったなら」


 弔一は続ける。


「それが今のお前だ」


 ミズハが弔一を睨む。睨みは怒りじゃない。守りたい睨みだ。


「冷たい」


 ミズハが言った。


 弔一は答えない。答えると慰めになる。慰めは、削り屑の餌になる。


 澪は封筒を抱えた。抱えた腕が震える。震えは弱さじゃない。体が反応しているだけだ。


 澪は立ち上がり、玄関へ向かった。向かう足が今度は洗面所へ寄らない。寄らないことに、澪自身が気づいて息を吐く。吐いた息は短い。短いけれど詰まらない。


「ありがとう」


 澪が言った。


 弔一は頷かない。


「帰れ」


 弔一が言う。


 澪は笑った。笑いは湿っていない。湿っていない笑いが、少しだけ軽い。


 澪が去ったあと、事務所の空気が戻った。


 戻った乾きが、弔一の指先の乾きとぶつかる。ぶつかると、どちらが本物かわからなくなる。


 ミズハが弔一の手を見る。


 弔一は手をポケットに入れない。隠すと認めることになる。認めると、次に進めない。


「さっき」


 ミズハが言った。


「水面すれすれだった」


 弔一は言う。


「触れてない」


 ミズハは首を振る。


「触れたかどうかじゃない」


 ミズハの声が少しだけ震える。震えは水じゃない。怒りと焦りの間だ。


 そのとき、机の上の帳簿の写しが勝手に開いた。


 紙が開く音がしない。


 音がしないのに、ページがめくれる。めくれたページの白が目に刺さる。刺さる白は、名札の白と同じだ。


 ミズハが息を止めた。


 弔一は近づかない。近づくと、記録に触れる。触れると、さらに削られる。


 けれど、文字は見える。


 帳簿の写しの、新しい項目。


 紙屋敷弔一。


 水接触(未遂)。


 未遂の二文字が薄い。薄いのに、読むと喉が乾く。


 ミズハの顔色が落ちる。落ちた色は灰だ。灰は燃えたあとの色だ。


「記録されたら」


 ミズハが言う。


「終わりだ」


 終わりと言った瞬間、部屋の温度が一段落ちる。落ちた温度が、指先の乾きを進める。


 弔一は初めて小さく息を吐いた。


 吐いた息が、途中で空振りする。空振りは音にならない。音にならないまま、喉だけが擦れる。


「終わりにされる前に」


 弔一は言った。


 言葉は短い。短いほど、硬い。


「俺が書く」


 ミズハが弔一を見る。


「何を」


 弔一は帳簿の写しを見たまま答える。


「帳簿の遺書だ」


 机の上の白が、少しだけ増えた気がした。


 増えた白の中で、万年筆の金属だけが冷たく光っていた。

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