第9話 名札の白

 夜の事務所は、昼より音が少ない。


 少ない音の中で、紙だけが擦れる。机の上の便箋を指で揃えるたび、乾いた摩擦が耳の奥に残る。暖房は弱い。弱いのに、喉が渇く。渇きは冬のせいじゃない。インクが乾く前に、皮膚が乾く。


 玄関の引き戸が開く気配がした。


 鍵は回らない。ノブも鳴らない。隙間だけがすっと広がる。誰かが入るときの熱がない。熱がないまま影が伸びて、制服の裾が見えた。


 朔だった。


 朔は胸元を押さえたまま立っている。押さえた指が白い。指先に力が入っている。入っているのに震えていない。震えないことの方が危うい。


 胸の名札が真っ白だった。


 白いプラスチック。そこに黒い文字があるはずの場所が、ただの白になっている。反射する光だけがある。反射はあるのに、読めるものがない。


 弔一は椅子から立ち上がらなかった。


 立ち上がると迎えに行く形になる。迎えに行くと慰めに近づく。慰めは油断になる。


「進んだな」


 弔一はそれだけ言った。


 朔は笑おうとした。笑いの形は作れた。声が遅れて出る。遅れて出た声が、いつもの朔の声と少し違う。高い成分が抜けている。抜けた部分を埋めようとして喉が鳴る。


「……うん」


 朔は頷く。頷きが浅い。浅い頷きのあと、目が左右に動いた。部屋を確認している。部屋がいつもの部屋かどうか確かめている。


 ミズハが奥から出てきた。床板が小さく鳴る。ミズハは朔の胸元を見て、眉を寄せた。寄せた眉が、怒りにも、焦りにも見える。どちらとも決めない。


「白い」


 ミズハが言った。


「白くなった」


 朔は名札を指でなぞった。なぞる指が止まらない。止まらない指先が、白に吸われていく。


 弔一は机の上の便箋を一枚、端に寄せた。寄せると木目が見える。木目の色が暗い。暗い色が落ち着く。落ち着くのに、指先は落ち着かない。


「座れ」


 弔一が言うと、朔は椅子に腰を下ろした。腰を下ろす動きが慎重すぎる。慎重すぎる動きは、身体の境界が曖昧になっているときの動きだ。


 朔は机の上のペン立てを見た。見た瞬間、目が一度だけ瞬いた。瞬きのあと、視線が少し遅れる。遅れはまぶたの速度じゃない。視線の戻りが遅い。


 弔一は言わない。


 症状だ、と言うと説明になる。説明は店の言葉になる。


 朔が自分のスマホを出した。画面を点ける指が迷う。迷った指が、結局ホームボタンを押した。画面が明るくなり、朔の顔が少し白く照らされる。その白さが、名札の白と同じ温度に見える。


「鏡」


 朔が言った。


「おかしい」


 弔一は立ち上がって、洗面所の方へ行った。洗面所の明かりを点ける。電球の光が硬い。硬い光は、輪郭を出す。輪郭は出すほどズレが見える。


 朔が後ろからついてくる。足音が軽い。軽いのに、床が鳴る。鳴り方が一定じゃない。足が床のどこに乗っているか、朔自身が確かめられていない。


 洗面所の鏡の前に立つと、朔は自分の顔を見る。


 最初は映っている。


 次に、遅れて動く。


 口角を上げると、鏡の中の口角が一拍遅れる。目を細めると、鏡の中の目が遅れて細まる。ズレは小さい。小さいのに、喉が冷える。冷えるのは、見ているものが自分じゃなくなる冷えだ。


「遅い」


 朔は言った。


 指で自分の頬を押す。押した指の跡が、鏡の中では遅れてつく。遅れてつく跡が、ついた瞬間に消える。消え方が急だ。


 ミズハが洗面器を持ってきた。金属の洗面器。冷たい音がする。ミズハは蛇口をひねらない。水を出さない代わりに、洗面器を床に置いた。置いた洗面器の中は空なのに、空気が湿る。


「水面に映してみろ」


 ミズハが言った。


 朔はミズハを見る。見る目が頼る目じゃない。確認する目だ。今いる場所が安全かどうか確かめる目だ。


 ミズハは洗面器に手をかざした。かざした手のひらの下で、空のはずの底が濡れたように見える。実際に水が出る音はしない。音がないのに湿りだけが増える。


 朔はゆっくり覗き込んだ。


 洗面器の中に、朔の顔は映らなかった。


 光の輪郭だけが揺れる。揺れるのに、人の形がない。ない場所に視線が落ち続けると、目の奥が痛む。朔は目を閉じた。閉じるのが少し遅い。


「映らない」


 朔は言った。


 声が軽い。軽さが、諦めに近い。


 ミズハの指が洗面器の縁を掴む。掴む指が白い。白い指が震える。震えが嫌で、ミズハは指を離した。


「そういうこと」


 ミズハが言った。


 弔一は鏡を見ない。鏡を見ると自分の顔も映る。その映り方を確認したくなる。確認したくなる時点で負けだ。


 弔一は洗面所を出て、事務所へ戻った。朔とミズハも戻る。戻る途中、朔が壁に手をついた。ついた手が離れるのが遅い。遅いのに、壁に跡は残らない。


 机の前に座ると、朔は弔一を見た。


 見上げる目が、真っ直ぐだ。真っ直ぐなのに焦点が少し揺れる。揺れは涙じゃない。揺れは焦点の迷子だ。


「頼みがある」


 朔が言った。


「書いてほしい」


 弔一は頷かない。


「何を」


 朔は胸元を押さえた指を離した。名札の白が露出する。露出した白が、部屋の光を返す。返す光が痛い。


「俺を呼ぶ言葉」


 朔は言った。


「全部」


 ミズハが口を開いた。開いた口が言葉の前で止まる。止まったまま、唇が薄くなる。


 弔一は紙を出した。便箋ではない。少し厚い紙。書類の紙。厚い紙は、途中で破れにくい。破れにくいから残る。


「辞書だな」


 弔一が言うと、朔は小さく笑った。笑いの音は出ない。息だけが出る。息が短い。


「辞書」


 朔は言った。


「索引みたいなやつ」


「自分を見つけるための」


 弔一は言い換えない。言い換えると柔らかくなる。柔らかくなると甘くなる。甘さは危険だ。


「それは遺書になる」


 弔一は言った。


 朔は目を逸らさない。


「いい」


 朔は言った。


「遺書でも」


 ミズハが低い声で言った。


「終わらせるな」


 短い。


 弔一はミズハの方を見ない。見ないことで、言い争いを避ける。避けると、仕事が進む。


 弔一は紙の上に線を引いた。紙面を二段に割る。左に事実。右に呼び方。呼び方は事実じゃない。呼び方は癖だ。癖は、人の口の温度を残す。


 名前欄だけは空白にしておく。空白が一番目立つように、四角い枠を作って、そこだけを白のまま残す。


 朔はその枠を見て、息を吐いた。吐いた息が震える。震える息が、声にならない。


「書けば書くほど」


 弔一は言った。


「他人の記憶が削れる」


 ミズハが弔一の方を向いた。向いた目が硬い。


 朔は一度だけ目を閉じて開いた。開いたとき、瞳の湿りが減っている。泣きたい湿りではなく、目が乾く湿りの減り方。


「それでもいい」


 朔は言った。


「散らばったまま消えるのが嫌」


 弔一は紙の端を指で押さえた。押さえた指が乾いている。乾いた指が紙に吸いつく。吸いつくと紙が動かない。動かないことが、今はありがたい。


「素材を集める」


 弔一は言った。


「順番に」


 朔は頷いた。頷きは小さい。小さい頷きは、体力を節約する頷きだ。


 弔一は万年筆の先を紙に落とす。落とした瞬間、インクが滲まない。滲まないのに線が出る。線が出るのが不自然だ。弔一は気づかないふりをする。気づくと止まる。止まると、朔の白が進む。


「一つ目」


 弔一は言った。


「母親の呼び方」


 朔の喉が動いた。動いた喉が、言葉の手前で止まる。止まったあと、朔は小さく口を開いた。


「……さっくん」


 朔は言った。


 言った瞬間、声が少しだけ割れた。割れた音が、幼い呼び方に合っているのがつらい。


 弔一は右の欄に書く。さっくん。左の欄には事実。母。呼ぶ癖。朝。玄関。靴を揃えながら。そこまで書いて止める。止めると、映像が立ち上がる。


 朔は言葉を続けた。


「朝」


「家を出るとき」


「母さん、俺の制服の襟を直して」


「そのとき、さっくん、って」


 朔は笑いそうになる。笑いそうになって止まる。止まった笑いが、口の端に残る。


 弔一は書く。襟。指。洗剤の匂い。台所の湯気。湯気の匂い。湿った空気。湿りは今の事務所にはない。ない湿りを、紙が受ける。


 弔一は言った。


「二つ目」


「友人のあだ名」


 朔が少しだけ肩を落とした。落とした肩が、背中の布を引っ張る。布がきゅっと鳴る。鳴る音が苦い。


「サク」


 朔は言った。


「呼び捨て」


「体育のとき」


「ボール投げるときに、サク、行け、って」


 弔一は書く。サク。体育館。ゴムの匂い。汗の匂い。ボールが床に当たる音。音が跳ねる。跳ねる音が、呼び方にくっついている。


 朔は言った。


「からかいもあった」


「でも、悪いやつじゃない」


 弔一はそこは書かない。悪い、良い、は抽象になる。抽象は削る。代わりに書く。肘で小突かれる強さ。笑い声の高さ。あだ名が飛ぶ距離。距離は体感だ。


「三つ目」


 弔一は言った。


「教師の呼び方」


 朔の口が少し固くなる。固さが距離だ。


「神崎」


 朔が言った。


「苗字だけ」


「先生は、苗字でしか呼ばない」


「呼び捨てじゃない」


 弔一は書く。神崎。教室。チョークの粉。窓の外の運動部の声。黒板に当たるチョークの音。先生の声は低い。低い声は温度がない。温度がない呼び方は、失っても痛みが薄い。薄いのに、今は全部が痛い。


「四つ目」


 弔一は言った。


「自分で自分を呼ぶとき」


 朔が瞬いた。瞬きのあと、視線が少し遅れる。遅れが増えている。


「呼ばない」


 朔は言った。


「呼ばないけど」


「胸の中で」


「朔、って」


「言うことがあった」


 弔一は書く。朔。小声。夜。布団。耳の中の血の音。血の音が、自分の声をかき消す。かき消された声が、胸の内側に残る。


 ミズハが机の角に手を置いた。置いた手が濡れていない。濡れていないのに、周囲の空気が湿る。湿りが紙に移りそうで、弔一は紙を少し引く。引く動きが速い。速い動きは焦りだ。焦りと言わない。


「五つ目」


 弔一は言った。


「店で買った名」


 朔の目が一度だけ揺れた。揺れは恐怖じゃない。恐怖と言うと甘い。揺れは冷えだ。


「……買った、っていうか」


「言わされた」


 朔は言った。


「その場で」


「名乗れ、って」


 ミズハの喉が鳴った。鳴った音は水の音じゃない。喉の乾きの音だ。


 朔は続けた。


「便利な名前」


「それを名乗ると」


「先生が優しくなった」


「部活の先輩が」


「一回だけ、褒めた」


 弔一は書く。便利。褒める声の高さ。手のひらに残る汗。汗が乾く速さ。乾く速さは異常の印だ。


 朔が言った。


「でも」


「その名前、冷たい」


「口に入れると」


「舌がしびれる」


 弔一はそのまま書く。舌。しびれ。金属の味。味は記憶の鎖だ。鎖を紙に移すのが、この仕事だ。


「六つ目」


 弔一は言った。


「俺が仮に置く呼称」


 朔は弔一を見た。見る目が、少しだけ頼る目に近づく。近づくと危ない。危ないから、弔一は視線を逸らさない。逸らさないことで、距離を一定に保つ。


「朔」


 弔一は言った。


「お前を呼ぶとき」


「それで足りる」


 ミズハが小さく息を吐いた。吐いた息が湿る。湿る息が、紙に触れそうで、弔一は紙をさらに引く。引くと、机の上の帳簿の写しが視界の端に入る。入ると目の奥が痛い。痛いのに、顔は動かない。


 朔が言った。


「足りるなら」


「それでいい」


 弔一は紙面の右欄に、呼び方を並べる。さっくん。サク。神崎。朔。便利な名。朔。重複も書く。重複は鎖の重なりだ。重なりは、助けにも足枷にもなる。


 朔は呼び方ごとに、短い情景を置いていく。弔一はそれを記録する。記録は冷たい。冷たい記録に、口の温度が乗る。


 書いているうちに、朔の声が少しずつ薄くなる。薄くなるのに、本人は気づいていない。気づいていないのがいちばん怖い。怖いと言わない。


 ミズハが言った。


「辞書は呪いになる」


 短い。


 弔一は書く手を止めない。


「呪いでも」


 弔一は言った。


「散らばるよりは」


 ミズハの手が紙に伸びた。伸びた手のひらが湿る。湿りが紙を濡らす前に、弔一は手で遮った。


 遮った指先が、紙と同じ質感だった。


 乾いている。


 乾いた指が、紙の上を滑る。滑ると音がしない。音がしないのが嫌だ。


 ミズハは弔一の指を見た。見た瞬間、顔の色が一段落ちる。落ちた色は青じゃない。青と言うと水になる。落ちた色は灰だ。


「お前」


 ミズハが言った。


「もう」


 言葉が続かない。


 弔一は否定しない。否定すると説明になる。説明は、自分を守る言葉になる。自分を守る言葉は、朔を削る。


 弔一は紙の上に、最後の索引を作る。


 呼び方ごとに、ページ番号はない。代わりに、場面の手触りを添える。朝の襟。体育館のゴム。チョークの粉。布団の匂い。金属の味。乾いた机の木目。これが索引だ。紙の上の索引は、誰かの頭の中の索引と繋がる。


 朔は見ている。見ているのに、目が少し遅れる。遅れが増すと、瞼が重くなる。重い瞼を支えるために、朔は指で目尻を押さえた。押さえた指が、目の湿りを奪う。


「これで」


 朔が言った。


「俺は」


「戻れる」


 弔一は答えない。


 戻れる、と言うと救いになる。救いは簡単に言うと薄くなる。


 弔一は紙の下端に、枠をもう一つ作った。連絡先ではない。呼び方の一覧の下に、空白の枠。空白は今の朔の名札と同じ白だ。白が続くと、目が疲れる。


 弔一は枠の横に小さく書く。


 未記入。


 朔がその文字を見て、笑った。


 笑いが出る前に、喉が一度だけ空振りした。空振りの音が微かに鳴る。鳴った音が、朔の喉の中で消える。


 辞書が完成した瞬間、部屋の空気が少し軽くなった。


 軽くなったのは良い兆しじゃない。軽さは薄さだ。薄さは抜ける前触れだ。


 朔はスマホを取り出した。手が勝手に動く。動きが慣れている。慣れは危険だ。危険なのに、止めない。


 朔は友人に電話をかけた。


 呼び出し音が鳴る。


 鳴る音が三回。四回。


 五回目で、通じた。


「もしもし」


 友人の声。


 朔はすぐに言う。


「俺」


「朔」


 言ったのに、声が自分の耳に届くのが遅い。遅れは、通信の遅れじゃない。朔の中の遅れだ。


 相手が言う。


「あれ」


「君」


「誰だっけ」


 その言葉は短い。短いのに、床が沈むみたいに重い。


 朔は口を開いたまま止まった。止まった口から息が漏れる。漏れた息が震える。震えが声にならない。


 ミズハが椅子の背を掴んだ。掴んだ手が鳴る。木が軋む音が出る。出る音が現実だ。


 弔一は机の上の辞書を見た。


 右欄の一つのあだ名。


 サク。


 その文字だけが、薄くなっていた。


 薄くなるのはインクの乾き方じゃない。紙が白を飲み込む速度だ。速度が速い。速いのに、音はしない。音がしないのが怖い。


 朔がスマホを握りしめる。握りしめた手が硬直する。硬直した指から血が抜ける。血が抜けた指は冷たい。冷たい指がスマホのガラスを冷やす。


「今」


 朔が言った。


「今の」


「サクって」


 弔一は言わない。


 消えた、と言うと終わる。終わると言うと、ミズハが壊れる。


 ミズハが低く言った。


「言った瞬間」


「崩れる」


 弔一は辞書の薄くなった文字を、指でなぞらない。なぞると確かめになる。確かめると固定になる。固定は削る。


 朔はスマホを耳から離した。相手はまだ何か言っている。雑音に近い。近いのに意味がある。意味があるのに届かない。その形が、今の朔だ。


 朔は笑った。笑いは出ない。息だけが出る。息が短い。


「やっぱり」


 朔が言った。


「そういうことか」


 弔一は紙を折らない。折ると封になる。封は終わりに近い。まだ終わらせない。終わらせないと言うと嘘になる。嘘はこの部屋では腐る。


 朔が小声で言った。


「店で」


 弔一の指先が止まる。止まった指が乾く。乾いた指が、紙の端に引っかかる。引っかかると皮膚が割れそうになる。割れそうなのに痛くない。痛くないことが嫌だ。


「洗面器が並んでた」


 朔は言った。


「いくつも」


「水に」


「名前を映して」


「削ってた」


 ミズハが息を呑む。呑む音がしない。音がしない呑み込みが続くと、空気が硬くなる。硬い空気が喉を擦る。


 弔一は紙を見たまま言った。


「水で削るなら」


 声が乾いている。乾いた声は、感情を置かない。


「俺の手が乾く理由も」


 言葉が途中で止まる。


 止まったのは迷いじゃない。


 喉が空振りしたからだ。


 空振りは、呼ぼうとした言葉が喉で消える感触。消える感触が、今の朔の名札と同じ白に触れる。


 弔一は続ける。


「そこだ」


 ミズハが弔一を見る。見る目が、確信に近い。確信は痛い。痛い確信は、刃になる。


「水に触れるな」


 ミズハが言った。


「最初から言ってた」


 弔一は答えない。答えないまま、辞書の紙面に視線を落とす。落とした視線が、薄くなったサクの文字の周辺を避ける。避けると、そこだけがより白く見える。


 朔が言った。


「俺」


「次に消えるの」


「顔かも、って言ったよね」


 弔一は朔を見る。


 朔の顔はまだある。


 あるのに、輪郭の端が少しだけ曖昧だ。曖昧さは照明のせいじゃない。視線のズレだ。ズレが増えると、顔が先に消える。


 ミズハが言った。


「止める」


 短い。


「こんなの」


 弔一はミズハの言葉を否定しない。否定すると戦いになる。戦いは今じゃない。今は作業だ。


 弔一は紙を指で押さえた。押さえた指が紙に吸いつく。吸いつくと紙が動かない。動かないのは助けになる。助けになるのに、指先が少し白い。白い指先が、朔の名札の白と似ている。


 弔一は万年筆を持った。持った瞬間、ペン先が冷たい。冷たいのに、インクは出る。出るインクは滲まない。滲まない線は美しい。美しいのが嫌だ。嫌と言わない。


 弔一は辞書の一番下に、短い一文を書いた。


 呼べるうちに呼べ。


 書いてしまってから、抽象に近いことに気づく。気づいた瞬間、弔一はペン先を止める。止めたペン先が紙を少し削る。削れた音はしない。音がしない削れが、店の儀式に似る。


 朔が言った。


「これ」


「持って帰っていい」


 弔一は紙を見たまま言った。


「持って帰るなら」


「条件がある」


 朔が頷く。頷きが遅い。遅い頷きが、承諾というより残り時間の確認に見える。


「誰にも見せるな」


 弔一は言った。


「読ませるな」


 朔が眉を寄せる。


「なんで」


 弔一は言わない。なんで、と答えると説明になる。説明は餌になる。


 代わりに、弔一は紙面の薄くなったサクを指で示す。示すだけで、理由になる。理由は紙の上にある。口で言うと腐る。


 朔は理解したように、息を吐いた。吐いた息が短い。短い息が、喉の奥で引っかかる。引っかかりが、声を出さない。


 ミズハが言った。


「辞書は呪いだ」


 弔一は言った。


「呪いでも」


「索引がないと」


「戻れない」


 朔は辞書を両手で持った。持つ手が丁寧だ。丁寧すぎる手つきは、壊れ物を扱う手つきだ。壊れ物は朔自身だ。


 朔は立ち上がった。立ち上がる動きが一拍遅れる。遅れが増える。増える遅れが、鏡の遅れと同じだ。


 朔は玄関へ向かう前に振り返った。


「弔一さん」


 朔は言った。


 弔一は返事をしない。返事をすると、呼ばれ方が固定される。固定は削る。


 朔は続けた。


「店で見た」


「洗面器の水」


「俺のじゃない名前が」


「水面に浮いてた」


 ミズハが一歩前に出る。出た足が鳴る。鳴る音が硬い。


「どんな形」


 ミズハが聞く。


 朔は首を振った。振った動きが遅い。遅い動きは、思い出すのに時間がかかっている動きだ。


「覚えてない」


「でも」


 朔が言う。


「削ってた」


「削って」


「薄くして」


「最後に」


「真っ白にしてた」


 弔一の喉が動いた。動いた喉が、言葉の手前で止まる。止まる間が、事務所の空気を硬くする。


 ミズハが言った。


「水で削る」


 弔一は机の上の自分の指を見る。乾いている。乾きが進んでいる。進んでいる乾きが、誰の手の乾きなのか分からなくなる。


 朔が玄関を開けた。開けた瞬間、外の冷たい空気が入る。冷たい空気が紙を撫でる。撫でた空気が、薄くなったサクの文字の上を通る。通っても、文字は戻らない。


 朔が去る足音が遠ざかる。遠ざかる音が、途中で薄くなる。薄くなる音は、街の音に溶ける。


 事務所に残ったのは、紙と、乾きと、湿りの気配だけだった。


 ミズハが言った。


「次は」


「止める」


 弔一は言わない。


 止める、と言うと約束になる。約束は破れる。破れると腐る。腐ると店の餌になる。


 弔一は帳簿の写しを見ないまま、机の引き出しを開けた。開けると紙の匂いがする。紙の匂いの中に、湿りの匂いが混じっている。混じっているのが不快だ。


 引き出しの奥に、封のされた紙束がある。紙束はまだ開けない。開けると支払いになる。支払いは増える。


 ミズハが弔一の指を見て言った。


「お前」


「乾きすぎてる」


 弔一は答えない。答えないまま、万年筆のキャップを回した。回す回数が二回。二回目で止める。止めることで、まだ自分の手が自分の手だと確認する。


 窓の外で、遠い車の音がした。音が途切れず流れる。流れる音に、電話のベルは混じらない。


 混じらないのに、弔一は受話器の冷たさを思い出す。思い出すと、指先がさらに乾く。


 弔一は机の上の紙の白を見た。


 白は、朔の名札の白に似ている。


 白が増えると、読めるものが減る。


 弔一は紙を一枚取り、短く書いた。


 水を避けろ。


 書いた文字は滲まない。滲まない文字は硬い。硬い文字が、ミズハの湿りを拒む。


 ミズハが言った。


「何に使う」


 弔一は言った。


「次の仕事だ」


 仕事と言った瞬間、喉が一度だけ空振りした。空振りは、呼ぶべきものが喉で消える感触。感触が、白に吸われる。


 弔一は紙を折り、机の端に置いた。


 折り目の音が乾いていた。


 乾いた音のまま、夜が進んだ。

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