第8話 担保にされた付喪神
朝の事務所は、夜より乾いている。
乾いているのに、紙だけが湿る。湿るというより、湿っているふりをする。机の上の帳簿の写しがそうだ。指で触れると指先がひやりとして、冷たさだけが残る。
弔一は窓を少し開けた。外の空気は冬の匂いがする。金属の匂い。遠い車の排気の匂い。濡れていないのに冷たい匂い。
足元でミズハが空のカップを回していた。回る音は小さい。小さいのに、床板に刺さる。
「回すな」
弔一は言った。
「止められるなら止める」
ミズハは言った。
カップは止まった。止まった瞬間、空気の湿りが薄くなる。湿りはミズハの側から来る。水の神だった、と弔一は言い切らない。言い切ると説明になる。説明は帳簿の側の言葉だ。
玄関の方で、何かが擦れる音がした。
擦れる音は、人の靴底の音じゃない。布でもない。木でもない。金属が石に触れたときの、軽い引っかかり。
弔一は万年筆を置いて、引き戸を開けた。
そこに赤いものが立っていた。
赤いポスト。
街角に置かれている、丸い肩の古い型。前に来たときより赤が薄い。薄いのに、赤の匂いが強い。古い塗料の匂い。雨に洗われた鉄の匂い。乾いたサビの匂い。
ポストは昨日まで、どこかの郵便局の隅にいたはずだった。
今は事務所の玄関の前にいる。
足はない。
なのに位置が変わっている。
弔一はポストの下を見る。底に砂が少し付いている。砂が一列に落ちて、玄関の石の上に細く残っている。細い線は、ここまで来た痕だ。
「歩けるようになったのか」
弔一は言った。
皮肉にしては声が平らだ。平らな声が、ポストの赤に吸われる。
ポストは答えない。
答えない代わりに、身体が小さく震えた。震えが鉄を鳴らす。鳴った音は低い。低い音は焦りを立てる。
ミズハが背後から覗いた。ミズハはポストを見ると、唇を薄くした。薄い唇は怒りにも見えるし、怖さにも見える。どちらかを言葉にすると崩れる。
「来たの」
ミズハが言った。
短い。
「来た」
弔一は言った。
弔一はポストの横に回り、少し押した。重い。重いのに、床を擦る感触がない。底が浮いている。浮いているのに砂が付く。矛盾が、皮膚の内側を掻く。
弔一はポストを事務所の中に入れた。
ポストは机の横に置かれた。置かれた瞬間、部屋の空気が少し冷える。冷えは水の冷えではない。冷蔵庫の冷えでもない。紙が長く箱に入っていたときの冷えだ。
ポストは投函口を少しだけ開けた。
金属が擦れて、薄い音が出る。
その隙間から、紙片が吐き出された。
白い紙片。端が少し毛羽立っている。毛羽立ちが新しい。なのに紙の匂いが古い。古い封筒の内側の匂い。乾いたのりの匂い。
紙片が机の上に落ちた。
落ちた音は軽い。
弔一は拾った。指で摘むと紙がふわりと反る。反りが戻らない。紙が湿っている。
紙片には、乱暴な線で短い言葉が書かれていた。
担保
名
返せ
ミズハが目を細めた。細めた目が、机の上の帳簿を見ないようにしている。
「また」
ミズハが言った。
「店」
弔一は紙片を裏返した。裏は白い。白い裏が冷たい。
「喋れないなら」
弔一は言った。
「吐け」
ポストは投函口を開けたまま、小さく震えた。震えが、拒否ではない。拒否なら動かない。動くのは苦しさだ。
弔一は紙片を机の端に置いた。
便箋を一枚出した。白い。白いのに光が強くない。柔らかい白。
万年筆を持つ。持った指先が硬い。硬さが進んでいる。進んでいるのに痛くない。痛みがないことが怖い。怖いと言わない。
弔一はポストの赤に向かって言った。
「遺書の形にする」
ミズハが反応する。眉が動く。
「物に遺書」
「書かせるの」
弔一は言った。
「使われなくなった理由だ」
言い切ってしまうと硬い。硬いけれど、仕事は硬い方がいい。柔らかい言葉は餌になる。
弔一は便箋の端に線を引いた。いつもの癖で線を引く。線はまっすぐ。まっすぐな線が、机の湿りを押し返す。
「お前が言え」
弔一はポストに言った。
ポストは震えを止めた。止めた震えの代わりに、投函口がきゅ、と閉じた。閉じる音は小さい。小さいのに喉の奥が乾く音に似る。
ミズハが言った。
「責めるの」
短い。
「物を」
弔一はミズハを見ない。
「物は」
弔一は言った。
「責められない顔をするから」
ミズハが黙った。黙りが、空気を湿らせる前に止まる。湿りが抑えられる。
弔一は机の上に、昨日までの痕が残っているのを見た。紙の角が少しだけ擦れて、木目の上に薄い筋がついている。筋は消えない。消えない筋が、この仕事の匂いだ。
弔一はポストに近づいた。
赤い塗装の剥げた部分に、指先が触れた。冷たい。冷たいのに濡れていない。濡れていない冷たさは、乾きの冷たさだ。
弔一の指先が紙みたいに乾いているから、余計に冷たく感じる。
「吐け」
弔一はもう一度言った。
ポストの投函口が、ゆっくり開いた。
中から、紙片が二つ、三つ、落ちる。
担保
記録
返せ
それから、少し長いものが落ちた。
書いてある文字は、途切れ途切れだった。紙の繊維が裂けた跡が、文字の途中を切っている。
届かない
返る
残る
弔一は紙片を揃えた。
揃えると、紙の端が少しだけ湿って指に張り付く。張り付く感触が嫌で、弔一は指を一度擦った。擦ると皮膚が硬い。硬い皮膚は音を立てない。音が立たないのが嫌だ。
ミズハが机の向かいに座った。座るとき、床が少し鳴る。鳴る音は現実だ。現実は救いじゃないが、地面がある。
「担保って」
ミズハが言った。
「何を」
弔一は答えない。答えると説明になる。説明になると店の言葉になる。弔一は紙片を見て、紙片が勝手に答えていることを確認する。
記録。
弔一は紙片の文字を指でなぞった。インクが乾いている。乾いているのに匂いが強い。古い封筒の匂いが、店の匂いに混ざっている。
「名じゃない」
弔一は言った。
「これが欲しい」
弔一は紙片を軽く叩く。
「これの束」
ミズハが目を細める。
「束」
「何の束」
弔一は紙片を揃え直した。揃え直すと、紙の端が指先に引っかかる。引っかかると皮膚が裂けそうで、弔一は指に力を入れない。力を入れないと、紙が風で飛びそうになる。飛ぶほど軽いのに、重いことをしている。
「配達の痕」
弔一は言った。
言ったあと、言い方が説明に近いことに気づく。気づいたとき、喉が一度だけ空振りする。空振りの乾きが、舌の裏に残る。
弔一は便箋に書き始めた。
題名は書かない。
題名は余計な飾りになる。
弔一は文書の形にする。文書は冷たい。冷たい方が腐らない。
まず、形式。
配達不能通知。
宛先不明。受取人不在。
転居先不明。
弔一の手が止まった。
止まったのは迷いじゃない。迷いと言うと情緒になる。止まったのは、紙の白さが濃く見えたからだ。濃い白は、目の奥を刺す。
弔一は万年筆を置き、机の上の帳簿の写しを見ないように、少し便箋をずらした。ずらすと机の木目が露出する。木目は古い。古い木目は匂いがある。匂いが、手の冷たさを戻す。
ミズハが言った。
「届けられない」
短い。
「言葉は」
弔一は言った。
「腐る」
ミズハが弔一を見る。見る目が固い。固い目は水面の下の石みたいだ。
「腐るって」
「何」
弔一は紙片の一つを指で弾いた。軽い音が鳴る。鳴る音が、答えの代わりになる。
「餌になる」
弔一は言った。
ミズハが黙った。
黙りが、今度は湿りを作らない。湿りを作らない黙りは、理解に近い。
弔一はポストの赤を見る。
ポストは投函口を閉じたまま、震えていない。震えないのに、部屋の隅に影がある。影が少しだけ濃い。濃い影は、役目が剥がれかけた影だ。
弔一は言った。
「お前」
短い。
「使われなくなった理由だ」
ポストは返事をしない。
返事の代わりに、また紙片を吐いた。吐く紙片は少し大きい。大きい紙片の角が折れている。折れた角に、湿りの跡がある。涙の跡みたいな跡。涙と言わない。
紙片には、短い文が書かれていた。
投函されない
読まれない
返される
弔一はその三つの文を便箋の余白に移した。移すとき、筆圧を少しだけ弱める。弱めると、インクが紙に滲まない。滲まないと冷たい。冷たいのが必要だ。
弔一は続けて文書を整える。
配達不能通知
宛先不明
受取人不在
転居先不明
保管期間経過
返送
文書の言葉は、誰の声でもない。誰の声でもないから、腐りにくい。腐りにくいから、店の餌になりにくい。
ミズハが言った。
「終わらせるの」
「抵抗なの」
弔一は万年筆の先を、便箋の端で一度止めた。止めると、ペン先が紙を引っかく音がする。音がするから現実だ。
「封をする」
弔一は言った。
「腐らせない」
ミズハは口を閉じた。閉じた口が、何かを飲み込む。飲み込む音はしない。音がしない飲み込みは、少しだけ怖い。
弔一は最後の一行だけ、文書の外へ出すことにした。
文書の中は冷たい。
冷たいまま終えると、ポストの赤が黒くなる。
弔一は便箋の下の方に、行を一つ空ける。空けた白が、冬の空みたいに薄い。
そこに、短い文を置く。
それでも、届けたかった。
置いた瞬間、部屋の空気が少しだけ温かくなる。温かいのは暖房のせいじゃない。紙の上の一行が、誰かの喉を通った気がするからだ。
ミズハが、目を逸らした。逸らした目が、窓の外の白い空を見る。見た空は、雲の裏が灰色だ。
「やめろって」
ミズハが小さく言った。
「言わないの」
弔一は答えない。
答えないまま、便箋を二つ折りにした。折ると紙が鳴る。鳴る音は乾いている。乾いた音が、封をしたことを知らせる。
封筒は使わない。
封筒は言葉を溜める器になる。溜めると腐る。
弔一は封をする代わりに、便箋の折り目に細く線を引いた。線は封印じゃない。目印だ。目印は、勝手に開かれないための工夫だ。
ポストが震えた。
震えはさっきより小さい。小さい震えは、痛みの終わり方に似る。
弔一は便箋を、ポストの前に置いた。置くと紙が赤に映る。映る赤が、少しだけ濃くなる。
ポストの投函口が、ゆっくり開いた。
中は暗い。暗いのに、乾いた匂いがする。古い紙が何年も入っていた匂い。乾いた匂いは、喉を擦る。
弔一は便箋を投函口へ差し込んだ。
差し込んだ瞬間、指先が一瞬だけ熱い。熱いのに濡れない。濡れない熱さは、摩擦の熱さだ。摩擦は現実だ。
便箋は中へ吸い込まれた。
吸い込まれたあと、投函口が閉じる。閉じる音が、今までで一番柔らかい。柔らかい音は、役目が戻る音に似る。
ミズハが言った。
「返るの」
短い。
「担保」
弔一は机の上の紙片を見た。紙片の字が、薄くなっている。薄くなっていく字は、息の消え方みたいだ。
ポストの赤が、少しだけ鮮やかになる。
鮮やかになるのに、部屋が明るくならない。
明るくならない代わりに、ポストの投函口が、きゅう、と音を立てて固く閉じた。
閉じた音は硬い。硬い音は、錠の音だ。
弔一は近づき、指で投函口を押した。
開かない。
押しても、びくともしない。
ミズハが言った。
「塞がった」
短い。
弔一は頷かない。
頷くと、勝ちみたいになる。
これは勝ちじゃない。
役目を取り戻す形じゃない。
終える形だ。
ポストの赤が震えた。震えは、さっきの焦りの震えではない。震えというより、小さな揺れ。揺れは息の代わりだ。
弔一はポストに触れた。冷たさが少しだけ薄い。薄い冷たさは、人肌ではないけれど、鉄が鉄に戻った冷たさだ。
「終えた」
弔一は言った。
ミズハが弔一を見る。
「終えさせた」
弔一は答えない。
答えないまま、机の上の帳簿の写しに視線が滑りそうになる。滑りそうになって、弔一は視線を切った。切ると喉が乾く。乾くと舌が硬い。硬い舌が、言葉を節約する。
窓の外で、鳥が鳴いた。鳴き声は短い。短い鳴き声が、時間を進める。
その日の夕方、朔が来た。
制服のまま。靴を揃えすぎる癖は変わらない。変わらないのに、名札の白が増えている。
名札の文字が、ほとんど消えていた。
黒いはずの糸で縫われた文字が、灰色になり、灰色が薄くなり、紙だけが残っている。
朔は笑った。笑い方は前と同じなのに、笑いの音が軽い。軽い音は危ない。
「進んだ」
朔は言った。
短い。
「何が」
弔一が聞く。
朔は自分の名札を指で叩いた。叩いた音が鈍い。鈍い音は、布の重さが消えている音だ。
「次は」
朔は言った。
「顔かも」
ミズハが息を呑んだ。呑んだ音はしない。音がしない呑み込みは、恐れの呑み込みだ。
弔一は朔を見る。朔の目は乾いている。乾いているのに、まばたきが少ない。少ないまばたきは、見えるものを固定しようとする。
そのとき、電話が鳴った。
事務所の古い固定電話。番号表示はない。表示がない画面は黒い。黒い画面が、机の湿りを映す。
ミズハが先に動いた。動こうとして、止まった。止まった手が、空のカップを握る。握ったカップが軋む音を立てる。空のカップが軋むのは変だ。変な音は現実を歪める。
弔一が受話器を取った。
耳に当てると、冷たい。冷たいのに湿りがある。湿りのある冷たさが、帳簿の紙の冷たさと同じだ。
「はい」
弔一は言った。
返事は、すぐ来た。
女の声。
丁寧で、乾いていて、刺さる声。
「未払い、増えましたね」
弔一は瞬きをしない。瞬きをしないと目が乾く。乾くと、紙の白さが濃く見える。濃く見えると、喉が空振りする。
弔一は答えない。
答えない代わりに、受話器を持つ指が硬くなる。硬くなる指が、皮膚の内側から割れそうになる。
ミズハが小さく言った。
「誰」
弔一は受話器の向こうの声を聞く。
声は笑っていない。笑っていないのに、笑っているみたいな間がある。間が、相手の余裕だ。
「返してあげる」
女の声が言う。
「返したいものがあるでしょう」
弔一は息を吐く。吐いた息は短い。短い息が喉の奥で引っかかる。引っかかった痛みが、舌の裏に残る。
朔が、弔一を見た。見た目が、助けを求める目ではない。確認する目だ。確認する目は、消える前に形を揃える目だ。
弔一は言った。
「何を」
女の声が答える。
「一通」
弔一の指先が、受話器の硬さを感じなくなる。感じなくなることが、怖い。怖いと言わない。
女の声が続ける。
「あなたが払っていない一通」
ミズハが弔一の横に寄る。寄ると空気が少し湿る。湿りが紙に移りそうで、弔一は受話器を持つ手を少しだけ離した。離すと冷たさが増える。
朔が言った。
「俺」
短い。
「次に消えるの」
「顔かもしれない」
その言葉が落ちた瞬間、受話器の向こうの女の声が、最後に一つだけ柔らかい音を混ぜた。
「急いでくださいね」
受話器は、切れた。
ツー、という音がしない。
沈黙だけが残った。
弔一は受話器を戻した。戻すとき、受話器の底が台に当たる音が硬い。硬い音が現実を留める。
ミズハが言った。
「増えた」
短い。
「未払い」
弔一は机の上の帳簿の写しを見る。見たくないのに、目が行く。行った目が、余白の滲みを拾う。
滲みが、新しい文字を作っていた。
未払い:一件
弔一の喉が一度だけ動く。動いた喉が、声を出す前で止まる。止まった間が、朔の白い名札より薄い。
弔一は朔を見る。
朔は笑った。笑いは前より軽い。軽い笑いが、消える側の笑いだ。
弔一は言った。
「座れ」
朔は座った。座るとき、椅子が鳴る。鳴る音が現実だ。現実は救いではないが、地面がある。
弔一は便箋を出した。
白い便箋。
白い便箋が、今日の赤いポストの赤より冷たい。
弔一は万年筆を握った。握った指先が、紙のように乾いている。
ミズハが言った。
「終わらせるな」
短い。
弔一は答えない。
答えないまま、便箋の上にペン先を落とした。
落ちたペン先が、紙を鳴らさない。
鳴らない音が、いちばん嫌だった。
弔一は、紙の上に小さく線を引いた。
線は、支払いの始まりの線だった。
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