第7話 名前のない青年

 玄関の引き戸の向こうに、人が立っていた。


 雨は降っていない。石段も乾いている。なのに戸の前だけ、空気が少しだけ冷たい。朝の湿りでもない。冷蔵庫の前に立ったときの冷たさに近い。


 弔一は引き戸を半分だけ開けた。


 青年は頭を下げた。角度が丁寧で、戻りが速い。身なりは普通だ。黒い上着に、淡い色のシャツ。靴のつま先に砂は少ない。歩いてきた距離が短いか、歩くことに慣れすぎているか。


 名乗らない。


 名札もない。名刺も出さない。ポケットから何かを探す動きもしない。


 それが一番、居心地が悪い。


 弔一は青年の喉を見る。喉が乾いていない。乾いていないのに、声を出す前の準備がない。言葉を持っていない人間の立ち方だ。


「入れ」


 弔一は短く言った。


 青年は一歩だけ踏み出した。足の裏の重さが薄い。軽いのに音がする。音がするから現実だ。


 青年は靴を脱いだ。揃えない。揃えないのが普通だ。普通の動作に見えるのに、どこかだけが決まっていない。身体が何かを避けている。


 ミズハが奥から出てきた。手には水の入っていないカップがある。空のカップを持つ癖が、この数日で増えた。


 ミズハは青年を見て、目を細くした。


 青年は目を逸らさない。逸らさないのに、焦点が合っていない。人を見ているのではなく、人の周りの空気を見ている。


 弔一は言った。


「お前」


 青年は息を吸った。吸った息が、喉の手前で止まる。止まった間に、口の中が乾く音が聞こえる気がした。


「お前、呼ばれたことがない顔だ」


 青年の口角が上がった。笑う形を作ったのに、目が笑わない。


「呼ばれてました」


 青年は言う。


 声は細い。細いのに、割れない。割れない声は練習の声だ。


「でも今は」


 そこで止まる。


「呼ばれません」


 弔一は頷かなかった。


 ミズハが一歩前に出た。出た足の先が床に触れる瞬間、空気が少し湿る。湿りが嫌で、弔一は机の上の紙束を手で押さえた。


「何しに来た」


 弔一が言う。


 青年は椅子に座らない。立ったまま、両手を下げる。下げた指先の爪が白い。


「返してほしい」


 青年は言った。


「呼ばれ方を」


 ミズハが鼻で笑いかけて、やめた。笑うと空気が軽くなる。軽くなると、薄いものがさらに薄くなる。


 弔一は青年に言った。


「座れ」


 青年はようやく椅子に座った。座るときの重さが遅れてくる。遅れてくる重さが、床板をきしませる。きしみが現実へ寄せる。


 弔一は便箋を一枚出した。白い。冷たい。冷たいのに湿らない。


「呼ばれ方」


 弔一は繰り返す。


「どういうことだ」


 青年は膝の上で手を握った。握った手が震えない。震えないのに、指の腹の色が抜ける。


「店で」


 青年は言う。


「担保にされた」


 ミズハの眉が動いた。動いた眉が、怒りよりも先に苦さを作る。


 弔一は青年に聞く。


「何を買った」


 青年はすぐ答えない。答えない間が長い。長い間のあいだ、喉が何度も動く。動くたび、声が出る前で止まる。


「安全を」


 青年は言った。


「事故が起きない」


「病気もしない」


 言い切ったあと、青年は一度だけ息を吐いた。吐いた息が熱くない。熱くない息が、冬みたいに冷たい。


 弔一はそれを聞いて、万年筆のキャップを回しそうになった。回すと落ち着く。落ち着くと、言葉が増える。増えると請求が増える。


 弔一はキャップを回さずに置いた。


「代償は」


 弔一は短く聞いた。


 青年は口を開けたまま止まる。止まった口が、次の言葉を探している。探しているのに見つからない。


 ミズハが言った。


「舌が」


 短い。


「絡む」


 青年は頷いた。


「呼ぼうとすると」


 青年は言う。


「もつれる」


「笑われる」


「説明しても」


 そこで止まる。


「同じ」


 弔一は青年の唇を見る。乾いている。乾いているのに、唾を飲み込まない。飲み込むと喉が鳴る。喉が鳴ると呼び名が出る前提になる。前提が壊れている。


 弔一は机の上に便箋を置き、青年の目の前にまっすぐ向けた。


「じゃあ」


 弔一は言った。


「ここに書け」


 青年は便箋を見た。見た瞬間、瞳孔が少しだけ開く。開いた目が、紙の白さを怖がっている。


「書けない」


 青年は言った。


 声が薄い。


「書く欄が」


 そこで止まる。


「ない」


 ミズハが言った。


「自業自得」


 短い。


 青年の肩が沈んだ。沈み方が、紙が湿る前の沈み方に似ている。


 弔一はミズハを見ない。


 青年に言う。


「仮に置く」


 青年が顔を上げる。


「久遠」


 弔一は短く言った。


「仮の呼び名だ」


 青年はすぐ否定しなかった。否定できない。否定する言葉が、自分を呼ぶ言葉になるからだ。


 青年は小さく頷いた。


 弔一は言った。


「久遠」


 声は低い。低いのに乾く。


 青年の喉が動く。動いた喉が、返事を出す前で止まる。止まったまま、目が一度だけ揺れた。


「呼ばれる」


 青年は言った。


「今」


「初めてに近い」


 弔一は頷かなかった。


「近い、は要らない」


 弔一は言う。


「今、呼ばれた」


 青年は息を吸った。吸った息が、少しだけ喉を通る。通った息が、胸を持ち上げる。


 ミズハが言った。


「返すな」


 短い。


「返したら」


「店が得をする」


 弔一は青年を見たまま答える。


「返さない」


 ミズハの眉がさらに動く。


「じゃあ何をする」


 弔一は言った。


「返すほど」


 短い。


「鎖が締まる」


 青年が目を見開く。見開いた目が乾く。乾いた目が、涙を作らない。


「鎖」


 青年は言う。


 弔一は首を振らない。首を振ると説明になる。説明すると空気が重くなる。重くなると、青年の薄さが増える。


 弔一は机の上の紙を一枚、軽く叩いた。叩く音が硬い。硬い音で、ルールを置く。


「呼ばれた回数が重い」


 弔一は短く言う。


「重いほど」


「ここに繋がる」


 青年は唇を噛んだ。噛んだ唇が白くなる。


「重くていい」


 青年は言った。


「軽いまま」


 そこで止まる。


「消えるのが怖い」


 ミズハが一度だけ目を閉じた。閉じた瞼が、痛みを隠す動きに見える。


「怖いって言うな」


 ミズハが言いかけて、言わなかった。


 弔一は青年に言った。


「返してほしいのは」


 短い。


「言葉だろ」


 青年は頷いた。


「呼んでほしい」


「振り向いてほしい」


「それだけで」


 そこで止まる。


「いい」


 弔一は便箋をもう一枚出した。


「遺書だ」


 弔一は言った。


 青年が固まる。


「死ぬ話じゃない」


 弔一は続けた。


「履歴書だ」


 ミズハが眉を寄せる。


「履歴書」


 短い。


「遊ぶな」


「遊ばない」


 弔一は言った。


「証拠にする」


 青年は目を落とす。落とした視線が、便箋の白を避ける。避けた先で、机の木目を見る。木目は古い。古い木目は、昔の匂いを持つ。匂いが、青年の喉を少しだけ動かす。


「私はここにいた」


 青年は小さく言った。


 弔一は頷かない。


「それも書かない」


 弔一は言う。


「書くのは」


「ここにいた痕だ」


 青年の眉が動く。動いた眉が、理解より先に反発を作る。


「痕って」


 青年は言う。


 弔一は便箋の左半分に線を引いた。線はまっすぐ。まっすぐな線は冷たい。冷たい線は文書に向く。


 左に、事実。


 右に、呼ばれた記憶。


 そして一番上に、名前欄。


 そこだけ空白にした。


 空白は目立つ。目立つから痛い。痛いから、見るだけで意味が立つ。


 ミズハが言った。


「空白を」


 短い。


「見せるな」


 弔一は言った。


「空白を隠すと」


「空白が勝つ」


 青年が唾を飲み込んだ。喉が鳴らない。鳴らないのに、飲み込む動きだけが見える。


 弔一は青年に言う。


「学校は」


 短い。


「行ったか」


 青年は頷く。


「どこ」


 青年の唇が動く。動いた唇が止まる。止まった唇が、単語を探す。


「覚えてる」


 青年は言う。


「でも」


 そこで止まる。


「言うと」


 青年は指先を見た。指先が白い。


「ほどける」


 弔一は言った。


「書ける分だけでいい」


 青年は小さく頷いた。


 弔一は左欄に短く書き始める。


 学歴:市立中学校 卒


 職歴:配送(短期)/飲食(夜)/工場(派遣)


 住所:京都市内(詳細不明)


 資格:なし


 右欄は、呼ばれた記憶。


 弔一は青年に聞いた。


「一番最後に」


 短い。


「呼ばれたのは」


 青年は目を閉じた。閉じた目が乾いている。乾いている目が、暗さの中で音を探す。


「会社で」


 青年は言う。


「名字で」


 そこで止まる。


「呼ばれた」


 弔一は右欄に書く。


 倉庫で、名字で呼ばれた。返事をした。返事の声は普通だった。


 青年が言う。


「普通だった」


 弔一は言った。


「普通だったと書くな」


 青年が眉を寄せる。


「じゃあ」


 短い。


「何を」


 弔一は青年の手を見る。手の甲に、細い傷がある。傷の色が薄い。薄いのに、治り切っていない。


「そのとき」


 弔一は言う。


「手は」


「何してた」


 青年は一瞬だけ口を開けて、閉じた。閉じた口が乾く。


「段ボールを」


 青年は言った。


「持ってた」


 弔一は書く。


 段ボールを抱えていた。腕が痺れた。指先が冷えた。


 青年の眉が少しだけ緩む。緩むと、頬の筋肉が動く。動く筋肉が、人に戻る。


 ミズハが言った。


「返したいって」


 短い。


「言うな」


「返したいんじゃない」


 青年が言い返す。


「呼ばれたい」


 ミズハは青年を睨む。睨む目が濡れない。濡れない睨みは冷たい。


「呼ばれると」


 ミズハは言う。


「重くなる」


「重くなると」


「締まる」


 弔一が言った。


「締まるのは」


「今のままでも同じだ」


 青年が弔一を見た。見た目が、初めて焦点を持つ。焦点が合うと、顔の輪郭が少し濃くなる。


「選べない」


 青年は言った。


「なら」


 そこで止まる。


「選ばせてほしい」


 弔一は便箋の右欄に、もう一行足す。


 呼ばれない日が続いた。返事をする癖だけ残った。


 ミズハが言った。


「帳簿が」


 短い。


「整う」


「整わせない」


 弔一は言う。


「整う前に」


「俺が書く」


 ミズハが舌打ちしそうになって、やめた。やめた瞬間、空気の湿りが少しだけ収まる。


 弔一は青年に聞く。


「家では」


 短い。


「呼ばれたか」


 青年の指が膝の上で動く。動いた指が、布を抓む。抓む布が伸びない。伸びない布が、現実の硬さを作る。


「母が」


 青年は言った。


「一回だけ」


 そこで止まる。


「呼んだ」


 弔一は言った。


「何て」


 青年は目を逸らした。逸らした先の壁の染みを見る。染みが薄い。


「言えない」


 青年は言う。


「言うと」


 そこで止まる。


「舌が」


 ミズハが言った。


「もつれる」


 青年は頷いた。


 弔一は右欄に書いた。


 台所で、誰かが呼んだ。振り向いた。返事をした。声は喉の手前で止まった。


 青年が小さく笑った。笑いは短い。短い笑いが、すぐ乾く。


「それ」


 青年は言った。


「嘘じゃない」


「嘘は書かない」


 弔一は言う。


「書けないものは」


「書かない形で書く」


 ミズハが言った。


「ややこしい」


 短い。


 弔一は答えない。


 答えないまま、最後の欄へ行く。


 希望職種:問わない


 志望動機:空白


 特記事項:呼ばれるとき、舌がほどける。ほどけない日が多い。


 青年が息を吸う。吸う息が、少しだけ胸まで入る。入った息が、肩を上げる。上げた肩が、ほんの少しだけ重くなる。


「これで」


 青年は言った。


「戻るの」


 弔一は首を振らない。


「戻らない」


 弔一は言う。


「ただ」


 短い。


「呼べる仮ができる」


 ミズハが言った。


「仮」


 短い。


「そんなの」


 青年が言う。


「仮でいい」


 言い切る声が少し太い。太い声は、喉が仕事をした証だ。


「呼ばれるなら」


 弔一は便箋を青年の前に置いた。青年が触れると紙が湿るかもしれない。けれど今は、触れた方がいい。触れないと、共同の記憶にならない。


 青年は指先で便箋の角を押さえた。押さえた指が白い。白いのに、汗が出ない。


 ミズハが青年を見て言う。


「久遠」


 短い。


 青年の喉が動く。動いた喉が、返事を作る。


「はい」


 青年の声が出た。出た声が、途中で止まらない。止まらない声は、紙の上の線みたいにまっすぐだ。


 ミズハの目が一度だけ揺れた。揺れた目が、怒りと別のものの間に落ちる。


「呼べた」


 ミズハが小さく言った。


 弔一は便箋の名前欄の空白を見た。


 空白は残る。残る方がいい。埋めると、締まる。


 青年が言った。


「久遠で」


 短い。


「いい」


「本当は」


 そこで止まる。


「違う」


 弔一は言った。


「違うのは」


「今は置け」


 青年は頷いた。


 玄関の方から、紙が擦れる音がした気がした。気がしただけだ。実際の音はしない。しない音ほど嫌だ。


 青年が立ち上がる。


「これ」


 青年は便箋を指で叩く。叩く音が硬い。硬い音が現実を支える。


「持って帰る」


「持っていけ」


 弔一は言った。


「誰かに見せるな」


 青年は頷いた。


「見ると」


 弔一は続ける。


「呼べる仮が増える」


「増えると」


 そこで止まる。


「締まる」


 青年の眉が動く。理解が遅れてくる動きだ。


「締まっても」


 青年は言った。


「今より」


 そこで止まる。


「まし」


 ミズハが言った。


「そうやって」


 短い。


「自分を売るな」


 青年は反論しない。反論できない。反論は、呼ばれる前提が必要だ。


 青年が玄関へ向かう。


 靴を履くとき、青年のポケットから紙片が落ちた。


 紙片は小さい。名刺の角くらい。白いのに、墨が一画だけある。線が一画。ひらがなでも漢字でもない。部首の一部みたいな線。


 青年はそれに気づかなかった。気づかないまま、靴紐を結ぶ。


 弔一は紙片を拾った。


 指先が硬い。硬い指で紙を摘むと、紙が負ける。負けた紙が少しだけ曲がる。曲がりが戻らない。


 ミズハが近づいてくる。近づくと空気が湿る。湿りが紙に移る前に、弔一は紙片を目の高さに上げた。


 墨の一画。


 見覚えがある。


 似ている。偏の形に似ている。紙の偏の、最初の線に似ている。


 ミズハが言った。


「似てる」


 短い。


「お前の」


 青年が振り向いた。振り向いた目が、その紙片を見る。見る目が怯える。怯える目が、呼ばれない日々の目に戻る。


「それ」


 青年は言った。


「俺の」


 そこで止まる。


「本当の」


 弔一は青年を見た。


 青年の喉が動く。動くたび、言葉が出る前で止まる。止まるのに、目は必死だ。必死な目が、紙片の一画を鎖みたいに掴んでいる。


 ミズハが言った。


「店が」


 短い。


「投げてる」


「返せって」


 弔一は紙片を手のひらに置いた。手のひらが乾いている。乾いているのに冷たい。


 弔一は言った。


「似てるなら」


 短い。


「なおさら返せない」


 青年の顔が固まる。


「なんで」


 青年は言った。


 弔一は答えない。


 答えないまま、台所へ行き、ガスコンロに火を点けた。火の匂いが立つ。乾いた匂い。乾いた匂いが、机の湿りを少しだけ押し返す。


 弔一は紙片を火に近づけた。


 紙はすぐ黒くなる。黒くなって、縁が縮む。縮む音は小さい。小さいのに、耳に残る。


 青年が言った。


「やめて」


 短い。


 弔一は火を止めない。


 紙片は燃えて、灰になる。灰は軽い。軽い灰が、指に付く。付いた灰が、指先の割れ目に入りそうで、弔一はすぐ手を払った。


 ミズハが言った。


「お前」


 短い。


「何してる」


 弔一は言った。


「店は」


 短い。


「似てる線で縛る」


「縛りを増やす」


 青年は立ち尽くす。立ち尽くす足が軽い。軽い足が、逃げる方向を見つけられない。


 弔一は青年に言った。


「久遠」


 青年が弔一を見る。


「今日から」


 弔一は言う。


「それで生きろ」


 青年は唇を噛んだ。噛んだ唇が白い。白い唇が、言葉を作る前で止まる。


「ありがとうございます」


 青年は言った。


 その声は止まらなかった。


 玄関の扉が閉じる。


 閉じたあと、事務所の空気が少しだけ軽くなる。軽くなるのに、机の上の帳簿の匂いが戻ってくる。


 ミズハが弔一を見る。


「燃やした」


 短い。


「逃げた」


 弔一は答えない。


 答えないまま、机へ戻る。机の上には、未払いの帳簿の写しがある。紙は濡れていないのに、湿りの匂いを吐く。


 余白が、ゆっくり滲む。


 文字が出る。


 次は、もっと分かりやすい形で来る。


 弔一は万年筆を握った。握った指先は硬い。硬いのに、冷たさが来ない。


 ミズハが言った。


「終わらせるな」


 短い。


 弔一は息を吐いた。吐いた息が、喉の奥で引っかかる。引っかかった痛みが、紙の白さへ吸われる。


 机の上の灰を、弔一は指で集めた。集めた灰は軽い。軽いのに、落とすと音がする。音がするから現実だ。


 弔一は灰を捨てた。


 そして、口の中で一度だけ、言葉を転がした。


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