第6話 未払いの帳簿

 朝の空気は、紙より先に乾くはずだった。


 けれど事務所の机の中央には、乾き切らない湿りがあった。濡れていない。指を当てても水は付かない。それでも紙の束が、雨の日の畳みたいな匂いを吐く。古い木の匂いの上に、墨の冷えた匂いが薄く重なる。


 弔一はシャッターの隙間から差す光を一度だけ見て、視線を机に戻した。


 紙束は帳簿の写しだ。薄い茶色。角が硬い。めくる前から指の割れ目がうずく硬さ。


 弔一は万年筆を取り、キャップを回した。


 回して止める。


 回して止める。


 音はしない。金具の擦れが指先の皮膚だけに残る。残る感触が、喉の奥を乾かす。乾くと、言葉が出る前で止まる。


 ミズハが台所から戻ってきた。カップを二つ持っている。湯気が立っていない。湯気を立てるほど温めていない。


「朝から嫌な匂い」


 短い声。


 弔一は答えない。


 ミズハは机の向こう側へ回り、帳簿の写しを覗き込んだ。覗き込んだ瞬間、ミズハの髪の先で空気が一度だけ湿る。湿りが紙へ移りそうで、弔一は紙束の端を指先で押さえた。押さえた皮膚が紙みたいに硬い。


 帳簿の一行目。


 紙屋敷弔一:未払い


 金額はない。数字もない。代わりに、単位が文字だ。墨が濃い。濃いのに滲みがない。滲まない字は、見え方だけが刺す。


 ミズハが言う。


「未払いって」


 言葉が短い。


「何を」


 弔一はキャップを回すのをやめた。やめた手が止まる。止まった指先の割れ目に、冷たさだけが入る。


「言葉だ」


 弔一の声は低い。低いのに乾いている。


 ミズハの眉が動く。動く眉が怒りの形に寄る。


「言葉を払う?」


 ミズハは机を指で叩かなかった。叩けば湿りが出る。湿りが出れば紙が歪む。歪めると仕事が壊れることを、ミズハは知っている。


「誰に」


 弔一は答えない。


 答える代わりに、帳簿の二行目を見た。文字が並ぶ。行が続く。読めるのに、読んでも意味が立たない書き方だ。書き方だけで、嫌な相手の手癖が分かる。


 ミズハが言う。


「命じゃない」


 短い。


「その匂いじゃない」


 弔一は頷かない。頷けば、肯定になる。肯定すると、請求書になる。


 ミズハが言う。


「終わらせるな」


 言い切る声が硬い。


 弔一は紙束を閉じた。


 閉じると匂いが薄くなる。薄くなるのに、机の上の湿りは残る。


「仕事だ」


 弔一はそれだけ言った。


 ミズハはカップを置いた。置いた音が軽い。軽いのに、机の木目が少しだけ震える。


「仕事で」


 ミズハの声が低くなる。


「お前を削るな」


 弔一は答えない。


 シャッターの隙間が少しだけ明るくなる。朝が進む。進むのに、室内の空気が乾かない。


 チャイムは鳴らなかった。


 この事務所の呼び鈴は、客の手で鳴らない。鳴るのは、弔一が扉を開けると決めたときだけだ。決めない限り、外の気配は廊下に溜まる。


 溜まった気配が、一段濃くなる。


 ミズハが廊下を見る。見る目が硬い。


「来た」


 短い。


 弔一は立ち上がり、扉へ向かった。足音を立てないように歩く。床板が軋む。その軋みが現実の方へ引っ張る。引っ張られると、紙の匂いが少し薄くなる。


 扉を開ける。


 女が立っていた。


 年は三十代後半。髪はきれいにまとめている。スーツは清潔で、肩の線が固い。香水はない。ないのに、指先だけが紙の匂いを持っている。新品の封筒を大量に触った匂い。乾いた段ボールの匂い。指の腹に残る、インクが付く前の匂い。


 女は軽く頭を下げた。角度が正しい。正しい角度は、練習の角度だ。


「初めまして」


 声が硬い。硬いのに、喉が乾く。


「沢渡と申します」


 名乗った瞬間、ミズハがわずかに眉を動かす。動かしただけで、女の肩に薄い湿りが乗る。女は気づかない。


 弔一は女の靴を見る。靴底の砂がない。外を歩いてきたのに、足元がきれいすぎる。


「依頼です」


 沢渡は鞄から封筒を出した。封筒は白い。白いのに冷たい。冷たいのに湿らない。


「夫の遺書が」


 沢渡は言葉を切った。切った間に、息が止まる。


「届いていないんです」


 弔一は封筒を受け取らなかった。受け取らないまま、封筒の縁を見た。糊の跡がない。封が軽い。軽い封は、開けた形だ。


「受け取った証明が欲しい」


 沢渡は続けた。


「領収書のようなもの」


 領収書という言い方が、紙の匂いと合う。合うから余計に寒い。


 ミズハが言った。


「領収書」


 短い。


「言葉にするな」


 沢渡はミズハを見ない。見ない目線で弔一だけを見る。弔一だけを見ているのに、目の奥が一点に固定されていない。


 弔一は言った。


「中へ」


 沢渡は頷き、靴を脱いだ。脱いだ靴を揃えすぎる。揃えすぎる癖は、怖さを隠す癖だ。隠す癖が、指先へ集まっている。


 事務所の椅子に座ると、沢渡の背筋がさらに真っすぐになる。真っすぐになりすぎて、息が浅い。


 弔一は机に帳簿の写しを置かない。置けば、話がそこへ寄る。寄せたくない。寄せると請求が形になる。


 弔一は便箋を出した。便箋は白い。白いのに、触れると冷たい。冷たい紙は、濡れなくても手の熱を奪う。


 万年筆を机に置く。置くと、金具の冷たさが木へ移る。移った冷たさが戻らない。


 弔一は沢渡に言った。


「夫の」


 短い。


「声を」


 沢渡の喉が動く。動いた喉が、声を出す前で止まる。


「最後に聞いたのは」


 弔一は続けた。


「いつ」


 沢渡は目を伏せた。伏せたまつ毛が震えない。震えないのに、指先が紙の匂いを強くする。


「一か月前です」


 弔一は頷かない。


「手紙は」


「届きました」


 沢渡は言い切った。言い切る声が硬い。


「届いたのに」


 そこで止まる。止まった間に、室内の空気が少しだけ重くなる。


「中身が」


 沢渡は指先を握った。握った指先の爪が白くなる。


「空だった」


 弔一は沢渡の口元を見る。口元が乾いている。乾いているのに、唇が濡れているように見える。見え方だけがずれる。


 弔一は言った。


「それは夫じゃない」


 沢渡の瞳が動いた。動いたのに、焦点が合わない。


「何を」


 沢渡は言う。短いのに、喉が詰まる。


 弔一は言った。


「夫の呼び名を被った何かだ」


 ミズハが小さく息を吸う。吸った息が止まる。止まった息が、湿りを生む。


 沢渡は笑わない。笑わないまま言った。


「そんなこと」


 弔一は便箋を裏返した。裏面は硬い。硬い紙は、嘘を弾く。


「嘘の匂いがする」


 弔一は沢渡を責めない声で言う。責める声にすると、相手が防御に入る。防御に入ると、匂いが薄くなる。


 沢渡は鞄からスマホを出した。出した手が震えない。震えないのに、指先が冷たい。


「録音があるんです」


 沢渡は再生ボタンを押した。


 雑音。


 風の音みたいな、白い雑音。人の声の帯域が空っぽだ。空っぽのくせに、沢渡の目がそこを追う。追う目の動きが、聞こえるはずの声をなぞっている。


 ミズハが言った。


「抜かれてる」


 短い。


 弔一は頷かない。


 弔一は沢渡に言った。


「受け取った証明を」


 短く置く。


「作る」


 沢渡は唇を噛んだ。噛んだ唇が乾いている。


「受け取ったら」


 ミズハが言う。


「終わる」


 弔一はミズハを見ない。見ないまま便箋を整える。整えることで、言葉を減らす。


 沢渡が言った。


「終わっていい」


 言い切る声が、少しだけ割れる。割れた声が、喉に刺さる。


「終わらないから」


 そこで止まる。止まった間が長い。


「苦しい」


 弔一はその言葉に頷かない。頷けば、依頼の形が感情で固まる。固まると、書く紙が濡れる。


 弔一は万年筆のペン先を確かめた。インクの出が良すぎないか。良すぎると滲む。滲むと、証明文書として弱い。弱いと、受け取ったことにならない。


 弔一は言った。


「これは遺書じゃない」


 沢渡が目を上げる。


 弔一は続ける。


「受領証だ」


 ミズハが顔をしかめた。しかめた表情のまま、言う。


「言葉を」


 短い。


「貨幣にするな」


 弔一は答えない。


 答えない代わりに、文書の形を作る。形を作れば、喧嘩が紙の外へ出る。紙の外へ出せば、紙が濡れない。


 弔一は便箋の上部に日付欄を作った。日付は具体だ。具体は嘘を嫌う。


 次に、件名。


 受領証


 次に本文。本文は定型句から入る。定型句は冷たい。冷たい言葉は、書く手を守る。


 弔一は沢渡に言った。


「夫が」


 短い。


「何を」


「最後の言葉を」


 沢渡は言う。言った瞬間、喉が乾く。


「残したのか分からない」


 弔一は首を振らない。


「分からないなら」


 短く置く。


「受け取った側の文を書く」


 沢渡が眉を寄せる。


「私が」


「書く」


 弔一は言い切る。


「あなたの言葉として」


 沢渡の指先が震えた。震えは小さい。小さいのに、紙の匂いが一瞬濃くなる。


 ミズハが言った。


「受け取ったら」


 短い。


「抜ける」


 弔一はミズハに言わない。ミズハの言葉は今、湿りに寄る。


 沢渡は小さく息を吐く。吐いた息が白くならない。白くならない室内で、息だけが冷たい。


「それでも」


 沢渡は言った。


「欲しい」


 弔一は頷いた。


 頷いた瞬間、指先の割れ目が少しだけ開いた。開いた割れ目に、インクの匂いが入りそうで、弔一は手袋をはめた。薄い手袋。紙を汚さないための手袋。内側が乾いていて、皮膚が引っ張られる。


 弔一は書き始めた。


 確かに受領した。


 私は、あなたの最後の言葉を受領した。


 受領した日付。


 受領した者。


 文は冷たく。余計な形容詞を削る。削るほど、紙が硬くなる。硬い紙は、読む手を迷わせない。


 ミズハが低い声で言った。


「受領って」


 短い。


「嫌い」


 弔一は答えない。


 沢渡は便箋を見ている。見ているのに、文字を追っていない。追っていない目の動きが、別のものを見ている。見ているのは夫の顔じゃない。顔そのものじゃない。もっと細いもの。


 弔一はペンを止めずに言った。


「声」


 短い。


「最後に聞いた」


「電話」


 沢渡は言う。


「出世するって」


 言葉が硬い。硬いのに、口の中が乾く。


「いい話があるって」


 弔一はペン先をわずかに止めた。止めたのは一拍だけ。拍は作らない。ただ、インクの出を確かめるために止める。


「いい話」


 弔一が繰り返す。


 沢渡は頷いた。


「呼び名を」


 沢渡はそこで止まる。止まった間に、唇が乾く。


「買えば」


 その言い方が、帳簿と同じ匂いを持つ。


「運が変わるって」


 ミズハの目が細くなる。細くなった目は水面みたいに冷たい。


「買う」


 ミズハは言った。


「売る」


 弔一は沢渡に聞く。


「夫は」


 短い。


「何を差し出した」


 沢渡は首を振る。振った首が小さい。


「知らない」


 弔一は便箋に書く文を一段変えた。


 私はあなたの最後の言葉を受領した。


 それは私の手に残り、私の生活の中に置かれる。


 置かれるという言葉を使う。置くは具体だ。置くと重さが出る。重さが出ると、紙が現実に寄る。


 沢渡が言った。


「遺書は」


 そこで止まる。


「届いたんです」


 弔一は言った。


「届いたのは」


 短く置く。


「紙だ」


 沢渡の喉が動く。動いた喉が、声を出す前で止まる。


「中身が空だった」


 弔一は頷かない。


「受け取り人が」


 短く置く。


「薄い」


 沢渡は瞬きをした。瞬きが遅い。遅い瞬きは、眠いんじゃない。焦点を合わせるのを諦めかけている。


 弔一は書いた。


 あなたの言葉を受領した。


 受領したことは、確かに私の手に残る。


 受領したことは、確かに私の胸に残る。


 残るという言い方は危うい。危ういから、すぐ具体を足す。


 私は今日、あなたの言葉を読み上げた。


 読み上げたとき、部屋の空気が少しだけ軽くなった。


 軽くなった、と書く。重さで書く。気持ちで書かない。


 弔一は最後に署名欄を作った。


 沢渡綾乃


 署名は、書く側の手が震えると崩れる。崩れると、受領の証にならない。


 沢渡はペンを取った。取った指先が冷たい。冷たいのに汗はない。汗がない冷たさは、紙へ移る。


 ミズハが言った。


「やめろ」


 短い。


 沢渡はミズハを見ない。見ないまま、署名欄に書いた。字は整っている。整っているのに、最後の払いだけが少し遅れる。遅れた払いが、紙の上で一瞬止まる。


 止まった瞬間。


 音が抜けた。


 室内の小さな音が、ひとつだけ欠ける。冷蔵庫の低い唸り。遠い車の音。階段の軋み。どれか一つが消える。消えた穴が、耳の奥でひりつく。


 沢渡が目を瞬かせた。


「今」


 短い。


「何か」


 弔一は沢渡を見る。沢渡の目が乾いている。乾いているのに涙がない。涙がない目は、この話では普通になりつつある。


 沢渡がスマホを握る。


「録音」


 短い。


「もう一度」


 沢渡は再生ボタンを押した。


 雑音。


 白い雑音。


 けれど、さっきより薄い。薄いのに、別のものが抜けた。


 沢渡の表情が固まる。固まると、頬の筋肉が動かない。動かない頬で、口だけが動く。


「声が」


 そこで止まる。


 沢渡の喉が動く。動いた喉が、痛そうに沈む。


「思い出せない」


 弔一は「辛い」と言わない。沢渡も言わない。ただ、指先が白くなる。白くなる指先が、紙の匂いを薄くする。薄くなる匂いは、受領したことの証みたいに残る。


 ミズハが言った。


「抜けた」


 短い。


「声だけ」


 沢渡は泣かない。


 泣かない代わりに、スマホを何度も再生する。再生するたび、雑音が同じ形で鳴る。同じ形の雑音が、夫の声の輪郭を消していく。


 沢渡は口を動かす。


「顔は」


 言葉が短い。


「覚えてる」


 短いのに、喉が乾く。


「出来事も」


 そこで止まる。


「覚えてる」


 沢渡は自分の喉へ指を当てた。触れた指が震えない。震えない指が冷たい。


「でも」


 短い。


「呼び方」


 弔一は沢渡が使った言葉をそのまま受け取らない。受け取ると、帳簿へ寄る。


 沢渡は息を吐く。吐く息が白くならない。白くならない息が、ただ冷たい。


「思い出せない」


 沢渡は言い切った。


 言い切った瞬間、室内の湿りが少しだけ増える。増えた湿りが紙束の匂いと混ざる。混ざる匂いが、机の上の帳簿を呼ぶ。


 沢渡は立ち上がった。立ち上がると膝が鳴りそうなのに鳴らない。鳴らない膝は、外で転ばない膝だ。


「ありがとうございました」


 沢渡は頭を下げた。角度が正しい。正しい角度のまま、目だけが泳ぐ。泳ぐ目が、夫の声を探している。


 弔一は沢渡を玄関まで送らない。送ると、現実へ寄り過ぎる。寄り過ぎると、喪失が軽くなる。軽くなると、この仕事の刃が鈍る。


 沢渡が出ていく。


 靴を揃えすぎる癖は最後まで崩れない。


 扉が閉じる。


 閉じた瞬間、事務所の空気が少しだけ軽くなる。軽くなるのに、机の中央の湿りは残る。


 ミズハが言った。


「お前」


 短い。


「何をした」


 弔一は答えない。


 ミズハは机に歩み寄り、帳簿の写しを見る。見るだけで、眉が動く。


 紙の余白に、墨が滲む。


 滲むのに、線は崩れない。滲みは、水じゃない滲み。紙の内側から湧く滲み。


 未払い:一通


 ミズハが言った。


「一通って」


 短い。


「何の一通」


 弔一は万年筆を取った。取った瞬間、指先の皮膚が硬い。硬いのに、冷たさが来ない。来ない冷たさが、逆に怖い。


 弔一は小さく息を吐いた。吐いた息が途中で引っかかる。引っかかった喉が痛む。


「俺の」


 短い。


「遺書だ」


 ミズハの目が開く。開いた目が濡れていない。濡れていないのに、湿りの匂いだけが強くなる。


「ふざけるな」


 ミズハは声を荒げない。荒げない怒りの方が重い。


「お前が」


 短い。


「書くな」


 弔一は答えない。


 答えないまま、玄関の方を見た。廊下の気配が増える。増える気配は人の形に寄っている。寄っているのに、足音がない。


 扉の向こうに、立つ影がある。


 弔一は立ち上がり、扉へ行く。床板が一度だけ軋む。その軋みが現実へ寄せる。


 扉を開ける。


 青年が立っていた。


 年は二十代前半。顔立ちは整っているのに、視線が定まらない。定まらない目が、鏡の前で自分を見失った目だ。服は普通だ。普通の服なのに、胸元に何も付けていない。名札も、刺繍も、タグも、呼び名の痕がない。


 青年は弔一を見て言った。


「返して」


 短い。


 声が乾く。


「俺の」


 青年はそこで止まる。止まった喉が動く。動いた喉が、何かを探す。


「……呼び方」


 青年は言い直した。言い直した声が薄い。


「返してくれませんか」


 ミズハが背後で息を吸う。吸った息が止まる。止まった息が、湿りになる。


 弔一は青年の匂いを嗅ぐ。嗅ぐというより、空気の重さを測る。青年の周りは軽い。軽いのに冷たい。冷たいのに、汗の匂いがない。


 弔一は言った。


「中へ」


 青年は靴を脱ぐ。脱いだ靴を揃えない。揃えないのが普通だ。その普通が逆に痛い。


 青年は椅子に座り、両手を膝に置く。置いた手が震えていない。震えていないのに、爪が白い。


 弔一は青年に言った。


「どこで」


 短い。


「手を出した」


 青年は言う。


「店」


 短い。


 ミズハが眉を動かす。動いた眉が苦さになる。


 青年は続ける。


「出世できるって」


 そこで止まる。


「言われた」


 弔一は帳簿の写しを開かなかった。開けば、青年がそれに吸われる。吸われると、話が帳簿の都合になる。都合に寄せると、この青年がさらに薄くなる。


 弔一は青年に言った。


「何を差し出した」


 青年は笑おうとした。笑おうとして、口角だけが上がる。上がった口角が寒い。


「分からない」


 青年は言った。


「気づいたら」


 そこで止まる。


「呼ばれなくなった」


 弔一は青年の声を聞く。声色は残っている。残っているのに、芯が薄い。芯が薄い声は、録音したときに雑音に負ける。


 ミズハが言った。


「自業自得」


 短い。


 青年の肩が少しだけ下がる。下がる肩の動きが、紙が湿る前の沈み方に似ている。


 弔一はミズハに言わない。ミズハの正しさは今、紙を濡らす。


 弔一は青年に言った。


「領収書は」


 短い。


「切れない」


 青年が眉を寄せる。


 弔一は続ける。


「返す手順は」


 短く置く。


「別だ」


 青年の喉が動く。動いた喉が、声を出す前で止まる。


「じゃあ」


 青年は言う。


「どうすれば」


 弔一は便箋を出した。


「書く」


 短い。


「受け取ったものを」


 青年は首を振る。


「受け取ってない」


 弔一は言った。


「受け取ってる」


 短い。


「抜かれた分だけ」


 ミズハが机の端を指で押さえた。押さえた指が白い。白い指先が湿りを抑える。


 弔一は青年に言った。


「今の呼び方は」


 短い。


「誰も言わない」


 青年は頷いた。頷き方が小さい。小さい頷きが、喉をさらに乾かす。


 弔一はペン先を紙に当てる。紙が冷たい。冷たい紙が手袋越しでも分かる。分かる冷たさが、指先の硬さを強くする。


 弔一は書き出しを定型にしない。定型にすると、店の言葉になる。店の言葉になると、未払いが増える。


 弔一は書く。


 私は呼ばれなかった。


 呼ばれなかった場所が増えた。


 呼ばれない間が長くなった。


 青年が顔を上げる。上げた目が、文字を追う。追う目が、初めて焦点を持つ。


 ミズハが言った。


「それ」


 短い。


「やめろ」


 弔一は答えない。


 答えないまま、文を進める。


 私は便利な言い方を買った。


 買ったつもりで、薄いものを渡した。


 渡したとき、手は冷たくなった。


 冷たくなったのに、汗は出なかった。


 青年が息を吸う。吸う息が止まる。止まった息が、喉を鳴らさない。


 弔一は言葉を削る。削って、残すべき具体だけを置く。


 誰かの声が私を呼んだ。


 その声は、耳の手前で止まった。


 止まった声は、届かなかった。


 届かないまま、私は返事をした。


 返事の形だけが残った。


 弔一は青年に問う。


「呼ばれた音を」


 短い。


「覚えてるか」


 青年は首を振る。


「分からない」


 弔一は頷かない。


「なら」


 短い。


「分からないと書く」


 ミズハが言った。


「そんなの」


 短い。


「救いじゃない」


 弔一は言わない。救いという言葉を避ける。避けて、手順にする。


 弔一は青年に言った。


「店へ行くな」


 青年は頷いた。頷きが速い。速い頷きは、追い詰められた頷きだ。


 弔一は書く。


 店へ行かない。


 呼び方を探さない。


 呼ばれない場所で、呼ばれない日を重ねる。


 その上で、誰かが呼ぶなら、それを受け取る。


 受け取るという言葉を置く。さっき沢渡に使った受領とは違う。違うために、文体を変える。文体を変えると、紙の温度が少し変わる。


 青年が言った。


「それで」


 短い。


「戻るの」


 弔一は首を振らない。約束しない。約束すると、契約になる。契約になると、帳簿が増える。


「戻らないかもしれない」


 弔一は言う。短い。


 青年の唇が乾く。乾いた唇が震えない。震えないのに、目だけが揺れる。


 ミズハが言った。


「終わらせるな」


 短い。


「薄いままにするな」


 弔一は便箋を畳まない。畳むと封になる。封にすると終わる。終わると青年がさらに薄くなる可能性がある。


 弔一は便箋を机の上に置いたまま、帳簿の写しへ視線を移した。


 余白がもう一度滲む。


 未払い:二通


 ミズハが声を落とす。


「増えた」


 短い。


 弔一の指先が硬い。硬いのに冷えない。冷えない指先が、紙を触るのを怖がっている。


 弔一は青年に言った。


「今日は」


 短い。


「帰れ」


 青年が戸惑う。


「これ」


 短い。


「どうする」


 弔一は便箋を指で押さえた。押さえた手袋の上で、紙が冷たい。冷たいのに、湿らない。


「持っていかない」


 弔一は言う。


「ここに置く」


 青年は立ち上がった。立ち上がると、椅子が小さく鳴る。鳴った音が現実に戻る音だ。


 青年が玄関へ向かう。


 靴を履くとき、青年は一瞬だけ止まった。止まった間に、喉が動く。


「ありがとうございました」


 青年は言った。言った声が少しだけ太くなる。太くなった声が、まだ完全に薄くないことを示す。


 扉が閉じる。


 ミズハが弔一を見る。見る目が硬い。


「お前」


 短い。


「未払いを」


「増やすな」


 弔一は答えない。


 答えないまま、万年筆を握る。握った指先が紙みたいに硬い。硬い指先が、キャップを回したがる。回したら落ち着く。落ち着いたら、また一通増える。


 弔一はキャップを回さなかった。


 机の上の帳簿の写しが、じっとりと匂う。匂いが古い木の匂いを押し返す。押し返されると、事務所が店の中みたいになる。


 ミズハが言った。


「誰に」


 短い。


「払う」


 弔一は答えない。


 答えない代わりに、手袋を外した。外した指先が硬い。硬い皮膚の表面に、インクが滲まない。滲まないのに、黒い筋が皮膚の中に残る気がする。


 弔一は便箋を一枚取り出した。


 自分用の紙は、いつも最後だ。最後に回してきた紙だ。最後に回してきたせいで、未払いが一通になっている。


 弔一は万年筆の先を紙に当てた。


 当てた瞬間、喉が空振りする。言葉が出る前で止まる。止まったまま、指先の割れ目が開く。開いた割れ目に痛みが遅れて来る。遅れて来る痛みが、逃げるように肩へ上がる。


 ミズハが言った。


「書くな」


 短い。


 弔一は答えない。


 紙に書く前に、帳簿の写しの余白が滲んだ。


 未払い:一通


 墨が戻る。戻った墨の匂いが、少しだけ軽くなる。軽くなるのに寒い。


 弔一は紙に一文字も書かず、ペン先を離した。


 離したペン先から、インクが落ちない。落ちないのが異常だ。異常が日常になるのが、いちばん嫌だ。


 弔一は小さく息を吐いた。吐いた息が、喉の奥でひっかかる。ひっかかりが痛い。


 ミズハが低い声で言った。


「お前は」


 短い。


「終わらせないと」


 弔一はミズハを見ずに、机の上の紙を整えた。整えることで、言葉を減らす。減らすことで、湿りを抑える。


 そして、最後に一つだけ思った。


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