第5話 元水神の遺書
河川敷は、風が先に枯れていた。
草の先が白く擦れて、触れても戻らない。土の匂いが乾いていて、足を踏み出すたびに粉が舞う。水のはずの場所なのに、砂の匂いが勝つ。川底の泥が割れて、割れ目の奥が暗い。暗いのに冷たくない。冷たさがない暗さだ。
弔一は堤防の下を歩き、靴底で小石を踏み砕いた。砕ける音が短く鳴って、すぐ吸われる。音が吸われると、喉が乾く。乾くのに、口の中は濡れている。濡れているのに、言葉が出る前で止まる。
少し前を、ミズハが歩く。
濡れていない。濡れていないのに、空気だけが湿る。湿る匂いが、草の枯れた匂いに負けて、薄く散る。ミズハの足は迷わない。迷わないのに速くない。速くない歩き方が、ここを知っている歩き方だ。
ミズハは川底の割れ目の前で止まった。
止まった瞬間、風が一度だけ強くなる。枯れ草の擦れる音が鳴り、次に何も鳴らない。何も鳴らない間が、長い。
弔一はミズハの横に立ち、割れた川底を見た。割れ目の縁は乾いていて、指で触れれば粉が落ちそうだ。粉の匂いが鼻の奥へ入り、くしゃみが出る前で止まる。
「ここか」
弔一が言う。
ミズハは返事をしない。返事をしない代わりに、川底を見たまま、肩が少しだけ下がる。下がった肩の動きが、水面の沈み方に似ている。
弔一は言った。
「昔の縄張り」
ミズハの喉が動く。動いたのに声が出ない。出ない声の代わりに、湿った匂いが一瞬だけ濃くなる。濃くなって、すぐ薄くなる。
弔一は川底の割れ目へ近づいた。割れ目の中に、濡れた石が一つだけ残っている。濡れた石は小さい。小さいのに、冷たさが強い。乾いた土の中でそこだけ冷えるのが不自然だ。
弔一は足を止め、手を出しそうになってやめた。やめた指先がひび割れ、割れ目が開く。開いた割れ目に砂が入る。砂が入った感触が、紙の粉と同じで、気分が悪い。
背後で、足音がした。
砂利を踏む音。軽いのに、揃っている。揃いすぎる足音。慣れている歩き方じゃない。習った歩き方だ。
弔一は振り向いた。
若い男が立っていた。二十歳そこそこに見える。髪は短く、服は地味だ。川へ来る格好じゃないのに、足元だけが泥だらけでもない。汚れ方が中途半端で、現実の方に寄せている。
男の手首が冷たそうだった。
濡れていないのに、濡れているように見える。光が手首で一度だけ跳ね、跳ねたまま落ちない。落ちない光が、水の匂いを連れてくる。川の匂いじゃない。社の水鉢の匂い。陶器の内側の匂い。
男は弔一を見て言った。
「遺書を書いて」
声は低い。低いのに、喉が乾く。
「俺の」
言葉が短い。短い言葉の間に、風が抜ける。
「もう神じゃない」
ミズハの肩が動いた。動いたのに、声が出ない。出ない代わりに、湿った匂いが濃くなる。濃くなる匂いが、枯れ草の匂いを押し返せない。押し返せないまま、混ざって濁る。
弔一は男の足元を見る。靴は普通だ。普通の靴なのに、靴底の周りに水の跡がない。水の跡がないのに、冷たさだけが漂う。
「名は」
弔一が言いかける。
ミズハが弔一の袖を掴んだ。掴む力が強い。強いのに、指は震えていない。震えない強さが怖い。
弔一は言葉を変える。
「呼び方」
男は少しだけ口角を上げた。上げたのに笑っていない。笑っていない口角が、寒い。
「アオ」
男が言う。
言った瞬間、川底の割れ目の中の濡れた石が一度だけ光った。光って、すぐ戻る。戻ったあと、光が弱くなる。
ミズハが小さく息を吸う。吸った息が止まる。止まった息が、吐く前で固まる。
弔一はアオを見る。目は普通だ。普通の目なのに、瞬きをすると白目が乾いた紙みたいに見える。見えた瞬間に戻る。戻るのに、その白さだけが残る。
「書く内容は」
弔一が言う。
アオは答える。
「守れなかったもの」
ミズハが言いかける。
「やめ」
そこで止まる。止まる前に、喉が一度動く。動いた喉が音を出さない。
弔一はミズハを見ない。見ないまま、仕事の形を探す。探すとき、目を動かすと紙の匂いがする。紙の匂いをすると、指が落ち着く。
「場所を変える」
弔一が言う。
アオは頷いた。頷き方が軽い。軽いのに、首の皮膚が冷たそうだ。
堤防の影にコンクリートの段がある。そこへ移る。段に座ると、冷たさが尻から上がってくる。上がってくる冷たさは水の冷たさじゃない。乾いた冷たさだ。
弔一は鞄を開け、便箋を取り出した。便箋は白い。白いのに、表面が少しだけ硬い。指先の割れ目が、硬さに引っかかる。引っかかった割れ目が開いて、熱が遅れて来る。
万年筆を出す。金具が冷たい。冷たさが割れ目へ入り、痛みが鈍る。鈍った痛みの奥で、熱だけが立つ。
弔一は便箋を膝の上に置き、定規で枠を取った。上段に件名欄。中段に本文。下段に付記。証人欄。封をするための折り代も計算する。折り代を雑にすると、封の角が歪む。角が歪むと、後で読むときに手が止まる。
弔一は言った。
「目録にする」
アオが言う。
「目録」
弔一は頷く。
「列挙する」
「何を」
「守れなかったもの」
弔一は便箋の端に番号を書いた。数字は小さく。目立つ数字は紙をうるさくする。
「一つずつ」
弔一が言う。
アオは黙る。黙ると、手首の冷たさが強くなる。強くなる冷たさが、弔一の指先に移る気がして、弔一は便箋を少しだけ遠ざけた。
ミズハは堤防の斜面に立ったまま、川底を見ている。見ているのに焦点が合っていない。合っていない目が怖い。
弔一はアオに言った。
「まず」
短く置く。
「溺死」
アオの喉が動く。動いたのに声が出ない。出ない声の代わりに、指先が冷える。冷えるのに、手が震えない。震えない冷えが、長い。
「守れなかった」
アオが言う。
弔一は便箋に書いた。
一 溺死。
字は滲まない。滲まないのに、紙の上に冷たさだけが残る。残った冷たさが、指先の割れ目をさらに乾かす。
「次」
弔一が言う。
「氾濫」
アオが言う。
「止められなかった」
弔一は書く。
二 氾濫。
ミズハが背中で息を吸う。吸う息が止まる。止まった息が、草の擦れる音より小さい。
「次」
弔一が言う。
アオが言う。
「願い」
短い言葉が落ちる。
「言えなかった」
弔一は書いた。
三 願い。
ペン先が紙を掴む音が乾いて鳴る。鳴った音が風に混ざり、消えない。消えない音が、喉に残る。
弔一はアオを見た。アオの目は乾いていない。乾いていないのに、涙がない。涙がない目が普通に見えるのが不自然だ。
ミズハが言った。
「それで」
言葉が短い。
「何になる」
弔一は答えない。答えないとき、仕事の手順を増やす。手順を増やすと、言葉が減る。
弔一は便箋の中段に見出しを置いた。守れなかったものの目録。見出しは硬い。硬い見出しは、後で紙が受ける。紙が受けると、読む手が迷わない。
弔一はアオに言う。
「一つ目」
アオは言った。
「夏」
弔一は頷く。
「場所」
「ここ」
アオが言う。
「この川」
弔一は紙に落とす。川の名は書かない。書くと、手が止まる。止まると、紙が濡れる。濡れると滲む。
弔一は書く。
夏。浅い場所。石が滑った。足が届くと思った。届かなかった。
文章は短く切る。切ると、読む側の目が止まらない。止まらない目が、喉の乾きを減らす。
アオが言う。
「子どもだった」
弔一は書く。
声が高かった。笑い声が乾いていた。水に入る前、手が温かかった。
アオの指先が少しだけ白くなる。白くなって、戻らない。戻らない白さが冷たさに変わる。
弔一は言った。
「見たか」
アオは頷く。
「見た」
「触ったか」
アオは首を振る。
「触れなかった」
ミズハの背中が揺れる。揺れは小さい。小さいのに、堤防の草が擦れる音が増える。
弔一は紙に書く。
手は伸ばした。指先が水を切った。掴めなかった。水は重くなかった。重くないのに、戻せなかった。
アオが言った。
「水は」
そこで止まる。止まる前に、喉が一度動く。
「言うことを聞かない」
弔一は書く。水という言葉は使う。使ってもいい。湿り気の具体だ。
ミズハが言った。
「聞く」
短い言葉が落ちる。
「聞くはずだ」
アオはミズハを見ない。見ないまま言う。
「昔は」
その言葉が硬い。
弔一はミズハを見ずに続ける。
「二つ目」
アオは言った。
「雨」
「雨の前」
「匂いが変わった」
弔一は書く。匂いの変化を書く。匂いで先に来る。先に来るものが、仕事の手がかりになる。
アオが言う。
「社が」
そこで止まる。止まると、手首の冷たさが強くなる。
「なくなった」
ミズハの肩が一度だけ跳ねる。跳ねたのに、足は動かない。動かない足が、堤防の斜面に根を張ったみたいに見える。
弔一は書いた。社という言葉は使う。固有ではない。具体の器だ。
社が撤去された。板が外された。釘が抜けた音が乾いていた。線香の匂いが薄くなった。代わりに新しいコンクリートの匂いが来た。
アオは続ける。
「祭りが消えた」
弔一は書く。消えたという言葉は使う。抽象にしないために、具体で置く。
太鼓の音が来なくなった。提灯が来なくなった。子どもの足音が来なくなった。水鉢の縁が欠けたまま直らなかった。
ミズハが言いかける。
「そんなの」
弔一はミズハに言わない。ミズハの言葉は今、紙を濡らす。
アオが言う。
「代わりに」
そこで止まる。止まると、指先がさらに冷える。
「便利な呼び方が増えた」
弔一は書く。便利という言葉を具体へ落とす。
紙に刷られた字。看板の字。案内板の字。誰でも読める字。読みやすい字。読みやすい字が、耳に入っても音にならない。
アオが言う。
「子どもが」
「俺を」
そこで止まる。止まる前に、口の中が乾く。
「呼ばない」
弔一は書く。呼ばないという事実を、音の欠落で書く。
河原で呼ぶ声が変わった。短くなった。音が軽くなった。呼ばれても、胸に届かなくなった。
ミズハの手が握られる。握られた拳の爪が掌に食い込む音がしない。音がしないのに、空気が少しだけ湿る。湿りが濃くなると、便箋の端がわずかに柔らかくなる気がして、弔一は便箋の位置を変えた。
弔一が言う。
「三つ目」
アオは言った。
「願い」
短い。
弔一は頷く。
「内容」
アオは少し間を置く。間が長い。長い間に、堤防の上を自転車が通る音がする。音が通り過ぎると、また静かになる。
アオは言った。
「誰にも」
そこで止まる。
「言えない」
「言うな」
ミズハが言う。短い。短いのに刺さる。
アオはミズハを見ずに言った。
「言わない」
弔一は言った。
「言える形にする」
アオが首を振る。
「形もいらない」
弔一はペン先を止めない。止めないまま、紙の端に小さく印を付ける。省略符号を使わない。空白で置く。空白は紙の仕事だ。
弔一は言った。
「目録だ」
「目録」
「目録は」
弔一は便箋の下段に項目を増やした。
四 言えなかった願い。
この一行だけでいい。詳細は書かない。書かないことで、読み手が止まる。止まることで、喉が動く。喉が動くと、痛みが残る。
ミズハが堤防の斜面から降りてきた。降りてくる足音が軽い。軽いのに砂利が鳴らない。鳴らない足音が、湿った匂いだけを連れてくる。
ミズハは弔一の横に立った。立った瞬間、便箋の上の空気が少しだけ湿る。湿りは紙に乗る。乗ると滲む。弔一は便箋を守るように、手の甲で風下を作った。
ミズハがアオに言いかける。
「まだ」
そこで止まる。
「残ってる」
言い切れない。言い切れない言葉が、口の中で乾く。
弔一が静かに言った。
「残ってるのは」
短く切る。
「水じゃない」
ミズハの目が動く。動いた目が弔一の手を見る。割れ目。乾いた指。滲まない線。
「罪悪感だ」
弔一はそこで止めた。止めた瞬間、喉が少しだけ痛む。痛むのに声は揺れない。揺れると紙が濡れる。
ミズハの顔が固まる。固まった顔で、眉だけが動く。動いた眉が怒りの形に近い。
「お前」
ミズハが言う。
短い。
「それを」
短い。
「終わらせるために」
言葉が増える。増えるほど、湿りが増える。
「書いてるだけだろ」
弔一はミズハを見ない。見ないで紙を見る。紙を見ると、手が落ち着く。落ち着くと、喉の痛みが鈍くなる。
弔一は言った。
「仕事だ」
ミズハが言う。
「仕事で」
そこで止まる。止まると、水の匂いが濃くなる。
「人を削るな」
弔一は返す。
「削るのは」
短く置く。
「俺じゃない」
アオが言った。
「いい」
短い。
「書いて」
弔一は頷いた。頷くと、首の筋がきしむ。きしむ音がしないのに、喉が動く。
弔一は便箋を整え、目録の形に沿って本文を仕上げる。見出し、項目、短い描写。各項目の最後は名詞で止める。止めると、読む側の舌が乾く。
弔一は封をする前の確認をする。順番、語尾、字の濃さ。濃さが均一か。均一だと嘘になる。嘘になると紙が冷える。冷えすぎた紙は読めない。読めないと、代筆にならない。
弔一は便箋の端に、証人欄を作った。証人欄には具体の置き方がある。名前を書く欄ではない。置いたことの証明をする欄だ。
弔一はアオに言う。
「指」
アオが手を出した。手首が冷たい。冷たい手首が便箋の上に影を落とす。影が濃い。濃いのに、湿らない。
「触れない」
弔一が言う。
アオは頷く。
「触れない」
弔一は朱肉を出さない。朱肉の湿りは今、紙を壊す。代わりに乾いた印を使う。乾いた印は粉を使う。粉は黒い。帳簿の女の爪の黒と同じ匂いがする。
弔一は小さな紙袋から粉を出し、便箋の隅に薄く置いた。薄く置く。濃いと重くなる。重いと後で剥がれる。剥がれると、置いたことが消える。
アオは指先を粉の上にかざした。触れない距離で止める。止めた指先が一度だけ白くなる。白くなって、すぐ戻る。戻ったあと、粉の形が変わる。変わった粉の形が、指紋に似た筋になる。
弔一はそれを証とした。証を紙に固定する。固定するための折り方がある。折り方を間違えると、折り目が本文を潰す。潰れると読めない。読めないと、遺書の形にならない。
弔一は便箋を三つ折りにした。折り目を爪で押さえる。押さえた爪が乾いている。乾いているのに、爪の先だけが冷たい。冷たさが紙へ移る。移った冷たさが戻ってこない。
弔一は封筒を出した。封筒は普通の封筒じゃない。紙が少しだけ厚い。厚いのに、匂いが薄い。匂いが薄い紙は、他の匂いを吸う。吸った匂いが残る。残る匂いが後で効く。
弔一は便箋を封筒に入れ、封をする。
糊は使わない。糊は湿る。湿ると滲む。代わりに折り返しで封をする。封の角を差し込む。差し込みの角度がずれると、抜ける。抜けると、終わらない。
封が閉じた瞬間、川底の割れ目の中の濡れた石の光が消えた。
消えたのに、石は残っている。残っているのに、冷たさが薄い。薄い冷たさが、土の乾きに混ざっていく。
アオは消えない。
立っている。立っているのに、手首の光がさらに薄い。薄い光が、皮膚の内側へ引っ込む。
代わりに、空気が変わる。
風が一度だけ止まり、次に風が戻る。戻った風の匂いが違う。川の匂いが薄い。薄いのに、草の匂いが濃い。濃い草の匂いが、ここがただの土になったことを告げる。
堤防の上で、散歩していた老人が立ち止まった。
老人は川を見下ろし、眉をひそめる。ひそめた眉が、探す形になる。探す形のまま口が動く。
「この川」
老人が言う。
そのあとが出ない。出ないまま、唇が乾く。
「何て呼んでた」
隣の人が首を振る。振った首の動きが鈍い。
「知らん」
知らんと言い切る声は普通だ。普通の声なのに、何かが欠けた音がする。欠けた音が、弔一の喉に刺さる。
ミズハが膝をついた。
膝をついた場所の土が粉っぽい。粉が舞って、ミズハの袖に付く。付いた粉が湿らない。湿らない粉が白いまま残る。
ミズハの肩が上下する。上下するのに泣き声はない。声がないのに、息だけが荒い。荒い息が喉で止まる。
弔一はミズハに手を伸ばさない。伸ばすと水の匂いが濃くなる。濃くなると紙が濡れる。紙はもう封をした。それでも湿りは仕事を壊す。壊れるのは紙じゃない。手だ。
弔一は封筒を胸の内側のポケットへ入れた。入れた封筒が薄く冷える。冷える封筒が、皮膚の上で硬い。
アオが言った。
「消えない」
弔一は答える。
「お前は」
短く置く。
「消えない」
アオが言う。
「じゃあ」
そこで止まる。
「俺は」
弔一は言った。
「呼ばれ方が」
短く置く。
「先に削れる」
ミズハが顔を上げた。上げた顔の目が乾いている。乾いているのに涙がない。涙がない目が怖い。
「やめて」
ミズハが言う。
短い。
「やめろ」
弔一は答えない。答えない代わりに、手袋を出した。薄い手袋。仕事用の手袋。紙を汚さないための手袋。手袋の内側が乾いている。乾いているのに、指を入れると皮膚が引っ張られる。引っ張られると割れ目が開く。
帰り道、堤防を上がる。上がる足音が重い。重い足音が乾いた音で鳴る。鳴る音が、背中に残る。
ミズハが後ろから言った。
「お前」
弔一は歩きながら答えない。
「手」
ミズハの言葉が短い。短いのに、喉が痛む。
「見せろ」
弔一は歩幅を変えない。変えないまま、指先をポケットの中で折る。折ると、割れ目が痛む。痛むのに、痛みが遅れる。
事務所へ戻る。階段が軋む。軋む音が現実の方へ引っ張る。引っ張られると、店の紙の匂いが薄くなる。薄くなるのに消えない。
机の上に、紙が置かれていた。
白い紙じゃない。薄い茶色の紙。帳簿の紙に似ている。匂いが古い。古い紙の匂いの奥に、黒い粉の匂いが混じる。
ミズハが紙を見る。見るだけで肩が固まる。固まった肩が、川底で止まったときの固さに戻る。
弔一は紙を指先で摘んだ。摘んだ瞬間、指先に冷たさが来ない。来ないのが不自然だ。紙は冷たいはずだ。冷たいはずの紙が温い。
弔一は紙を見る。そこに字がある。字は滲まない。滲まない字が、帳簿の字だ。
紙屋敷弔一 未払い
ミズハが言った。
「お前」
短い。
「水に」
そこで止まる。止まる前に喉が一度動く。
「触れるな」
弔一は答えない。
答えない代わりに、指先を見る。
インクが付いていない。さっき封をしたとき、粉も糊も触っていないのに、指先が妙に乾いている。皮膚が紙みたいに硬い。硬いのに、割れ目が開かない。開かない割れ目が、逆に怖い。
ミズハが弔一の指先へ手を伸ばし、途中で止めた。止めた手が震える。震えが小さい。小さいのに、室内の空気が少し湿る。
弔一は言った。
「触るな」
ミズハは言った。
「何で」
弔一は答えない。
机の上の未払いの紙が、乾いた音も立てずに冷えていく。
最後に弔一は、一つだけ思った。
名前。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます