第4話 看板のない店

 昼の路地は、夜より残酷だ。


 影が少ないぶん、汚れがはっきり見える。壁の染み、割れたタイル、乾ききらない排水の匂い。人の足が通るたびに、空気が薄く擦れて、埃の味が立つ。


 弔一はその路地を歩いていた。繁華街でも観光地でもない。どこにでもある住宅の裏。自転車が二台置ける幅の道。電線の影が地面に落ちて、線が何本も重なっている。


 隣にミズハがいる。濡れていないのに水の匂いだけが強い。風が止まると、その匂いが弔一の喉に引っかかる。喉が一度動き、空気だけが鳴る。


「ここ」


 ミズハが言う。


 弔一は足を止めた。止めた場所の地面だけ、乾き方が違う。石の表面が少し白い。白さが粉っぽい。踏むと、靴底がわずかに滑る。


 前に、入口がある。


 入口らしいものは見えない。扉も看板もない。あるのは、壁の継ぎ目。古い木の板が一枚、はめ込まれているだけ。木目は薄く、乾いた色だ。触れれば粉が落ちそうな乾き。


 なのに、人がそこだけ避けて通る。


 路地の端から端へ歩く人が、入口の前だけ半歩膨らむ。肩をすぼめて通る人が、そこだけ息を止める。気づいていないふりをして、避けている。


 弔一は木の板を見る。木目は普通だ。普通の木目なのに、視線を置くと目が乾く。乾くせいで、瞬きが増える。増えた瞬きの間に、板の輪郭が少しずれる。


 ミズハが言う。


「名を言うな」


「分かってる」


 弔一の返事は短い。短いのに、舌が乾く。


 弔一は一歩進み、板の前に立った。距離が近づくと、匂いが変わる。古い紙の匂い。封筒の内側の匂い。乾いた紙の奥に、少しだけ鉄の匂いが混じる。朱肉の金属の匂い。


 弔一は喉を整えようとした。整えるために、口を開く。


「紙屋敷」


 音が出た瞬間、木目が動いた。


 歪む。歪むのに音はしない。板が鳴らない。鳴らないまま、木の筋が弔一の口へ向かって伸びる。伸びる筋が、拒むように中央へ寄る。寄って、穴を塞ぐみたいに閉じる。


 弔一の喉が空振りした。声が出る前に止まる。息だけが喉に残る。


 次の瞬間、ミズハの手が弔一の口を塞いだ。


 濡れていない手。濡れていないのに冷たい。冷たさが唇へ入って、言葉が割れる前に固まる。


「言うな」


 ミズハの声が低い。


 弔一はミズハの手を掴もうとして、止めた。止めた指先がひび割れ、割れ目が開く。開いた割れ目に、路地の乾いた埃が入る。痛みは遅れて来る。遅れて熱だけが立つ。


 ミズハが手を離した。


 木目の歪みがゆっくり戻る。戻るのに、元の筋と同じではない。戻った筋が、さっきの音を覚えているみたいに、少しだけ硬い。


 弔一は息を吐いた。吐いた息が白くならない。白くならないのに、喉が冷たい。冷たいまま、舌が乾く。


 弔一は言った。


「入れない」


 ミズハが言う。


「入れる」


「どうやって」


「言わない」


 ミズハは弔一の袖を引いた。引かれた瞬間、板の中央がほんの少しだけ凹む。凹んだ場所に影ができる。影の奥が暗い。暗いのに、冷たさが出てくる。冷たさが乾いている。


 ミズハは影へ足を踏み入れた。踏み入れたのに、板は鳴らない。鳴らないまま、路地の昼の音が一段落ちる。落ちた音の代わりに、紙が擦れる気配が増える。


 弔一は続いた。影へ入った瞬間、鼻の奥に紙の匂いが刺さる。紙が湿らない匂い。乾いた紙が束になって積まれている匂い。


 光が変わる。昼の光が薄くなり、代わりにランプの色が落ちる。黄色い光。温かくない光。温度がない明るさ。


 床は板張りだ。板は新しい。新しいのに、踏むと音が遅れる。遅れる音が、奥の方へ吸われる。


 店だ。


 看板はない。棚だけがある。棚に帳簿が並ぶ。帳簿は同じ大きさ、同じ厚み。背表紙の色が少しずつ違う。白、灰、黄土、黒。黒い背表紙だけが、光を返さない。


 空気は乾いている。乾いているのに、喉が渇く。渇く理由が違う。水分が足りない渇きではなく、音が足りない渇きだ。


 カウンターがある。カウンターの木は古い。古い木の匂いがする。そこに、帳簿だけが置かれている。


 帳簿は開かれている。開かれた紙面が白い。白さが眩しい。眩しいのに冷たい。


 人の姿ははっきりしない。


 けれど指先だけが見える。爪が黒い。塗られた黒ではない。黒い粉が染み込んだ黒。爪の先が光を吸う。


 指先が帳簿の端を押さえ、紙を一枚めくった。紙が擦れる音がする。音は乾いている。乾いた音が、弔一の指の割れ目に刺さる。


「いらっしゃいませ」


 声は丁寧だ。丁寧なのに、温度がない。温度がない声は、耳に入っても残らない。残らない代わりに、喉が動く。


「お二人」


 帳場の女は姿を見せない。帳簿の向こうの空気だけが少し濃くなる。濃くなる場所で、爪の黒が動く。


「終わらせるのが」


 そこで一拍、紙の音が鳴る。


「好きでしょう?」


 弔一は返さない。返す前に、指の割れ目を布で拭った。布は乾いている。乾いているのに、冷たさだけが布へ移る。移った冷たさが手のひらへ戻り、熱を鈍らせる。


「違う」


 ミズハが言った。


「好きじゃない」


 帳場の女の爪が止まる。止まった爪の先が、白い紙面に影を落とす。影は細い。細いのに濃い。


「そう」


 帳場の女が言う。


「好きじゃないのに」


 紙がもう一枚めくられる。


「よく書ける」


 弔一は棚を見る。帳簿の背表紙の色が、微妙に段になっている。白い背表紙が多い。黒い背表紙が少ない。黒い背表紙だけが少し高い位置に置かれている。


「用件は」


 弔一が言う。


 言葉は短い。短いのに、舌が乾く。乾きが音にならないまま残る。


「ここは」


 帳場の女が言う。


「用件がなくても来る場所」


 弔一は鼻で息を吐いた。鼻の奥に紙の匂いが残る。残る匂いが、昼の路地の匂いを押し返す。


「名を売る店」


 弔一が言う。


 その言葉のあと、空気がわずかに冷える。冷えるのに、湿らない。湿らない冷えが、背中へ入る。


 帳場の女が笑った。声で笑わない。紙が一枚、余計に擦れる音で笑う。乾いた音が笑いだ。


「通貨です」


 帳場の女が言った。


「皆さま」


 丁寧語が続く。


「自分の名を置いていかれる」


 弔一は棚の中段を見る。小さな木箱が並ぶ。箱は同じ形。蓋に札が貼られている。札に文字がある。文字があるのに、読めない。読めないまま、視線が滑る。


 ミズハが言う。


「置いていくな」


 帳場の女は丁寧に返す。


「置いていかれます」


 弔一は言った。


「代わりに何を渡す」


 帳場の女の爪が帳簿を閉じ、別の帳簿を開いた。背表紙が灰色の帳簿。開かれた紙面に、細かい字が並ぶ。並ぶ字が一瞬だけ揺れ、揺れたあと固まる。


「死」


 帳場の女が言う。


「忘却」


「運」


 短い語が並ぶ。並ぶたび、弔一の喉が動く。動くのに声は出ない。空気だけが鳴る。


 弔一は言った。


「そんなもの」


 言葉が短い。


「遺書で十分だ」


 帳場の女の爪が止まる。止まったあと、爪が紙面を軽く叩いた。叩く音は小さい。小さいのに、耳に残る。


「遺書は無料」


 帳場の女が言う。


「無料だから」


 紙が一枚めくられる。


「価値がない」


 弔一は息を吐いた。吐いた息が白くならない。白くならないのに、胸の奥が冷たい。冷たいまま、指の割れ目が開く。


 ミズハが言った。


「価値がある」


 帳場の女は丁寧に返す。


「ありますよ」


 そして、刺す。


「だから」


「なに」


「あなた方は」


 帳場の女の声が少しだけ近づく。近づいたのに姿は見えない。見えない近さが、視界の端を乾かす。


「うちの商売の」


「何だ」


「邪魔」


 弔一は笑わない。笑うと、負けになる。負けになると、紙が濡れる。紙が濡れると、字が滲む。


 弔一は机の上の帳簿を指さした。


「依頼か」


 帳場の女が言った。


「ええ」


 爪が紙面を撫でる。撫でた跡に、わずかな黒が残る。残った黒は粉だ。粉が紙の繊維に入る。


「名を売った者が残す」


 帳場の女が言う。


「代金の内訳」


 弔一は言った。


「書かない」


 短い拒否だ。拒否は音を減らす。音を減らすと、店の空気が濃くなる。濃くなると、喉が動く。


 帳場の女は丁寧に返す。


「書いてください」


「嫌だ」


「契約にしますか」


「しない」


 帳場の女は笑わない。笑い声を出さない。代わりに帳簿を閉じ、別の紙を出した。紙は薄い。薄いのに冷たい。冷たさが空気へ漏れる。


 紙の上に、ひとつの小さな札が置かれる。


 透明な札。学校の名札に似ている。透明の中に文字がある。文字が薄い。薄いのに、見ようとすると目が乾く。


 弔一は分かった。触れなくても分かる。紙の匂いが同じだ。第2話の朝、少年の胸で薄くなった文字の匂い。


「見せるな」


 弔一が言った。


 帳場の女が丁寧に言う。


「事実です」


 札の文字が薄い。薄いのに、完全には消えない。消えない薄さが残る。残る薄さが、次に消える場所を示す。


 ミズハが息を止める。止めた息が、吐く前で止まる。


 弔一は言った。


「脅しじゃない」


 帳場の女が言う。


「脅しは」


 爪が帳簿の角を軽く叩く。


「信用を削る」


 弔一は札を見る。札の文字は薄い。薄さが均一ではない。角の方だけ濃い。角の濃さは、呼ばれた回数の濃さに似ている。似ているのに、まだ言葉にしない。言葉にすると、ここで終わる。


 弔一は言った。


「依頼は受けない」


 帳場の女が言う。


「それでも」


 弔一は続ける。


「名を売った客の遺書は」


 指の割れ目が開く。熱が遅れて来る。


「俺が書く」


 帳場の女の爪が止まった。止まった爪の黒が、紙面に影を落とす。影が細く伸び、札の透明の上に掛かる。掛かった影が、札の文字を一瞬だけ濃く見せた。


「商売敵」


 帳場の女が言う。


 言い方は軽い。軽いのに、温度がない。


「ね」


 ミズハが言った。


「そんなの」


「何」


「できるのか」


 ミズハの声が揺れる。揺れは言葉に乗らない。水の匂いが揺れる。匂いが揺れて、店の奥へ流れる。


 店の奥に水鉢がある。


 水鉢は小さい。陶器の鉢。水面が静かだ。静かな水面が、光を返さない。返さないのに、そこだけ空気が湿る。湿る匂いが、ミズハの方へ寄る。


 ミズハが水鉢へ近づいた。近づく足取りが一瞬だけ遅れる。遅れた瞬間、ミズハの肩が固まる。固まったまま、指が水面の上で止まる。


 触れる前で止まる。


 止まった指先が震えた。震えは小さい。小さいのに、弔一の目にははっきり見える。


 水鉢から匂いが立つ。


 古い木。苔。濡れた石。線香の灰。紙垂の紙が濡れたときの匂い。社の匂い。祀られていた場所の匂い。


 ミズハの喉が動く。動くのに声が出ない。出ない声が、吐く息にならずに戻る。


 弔一はミズハを見た。ミズハの瞳の奥が、今だけ遠い。遠いのに、店の水鉢を離せない。


 帳場の女が言った。


「懐かしいでしょう」


 ミズハは返事をしない。返事をしない代わりに、指が水面の上で止まったまま、少しだけ下がる。触れない距離まで下がる。下がった距離で、指先の震えが止まる。止まった瞬間、店の乾きが戻る。


 弔一は言った。


「帰る」


 帳場の女が丁寧に言う。


「いつでも」


 弔一は札を見た。札の文字は薄い。薄いまま、消えない。消えない薄さが、少年の顔を思い出させる。


 弔一は店主へ言った。


「うちの仕事を」


 短く置く。


「安売りするな」


 帳場の女は笑わない。紙の音で笑う。乾いた音が一度だけ鳴る。


「安いから」


 帳場の女が言う。


「皆さま」


「何だ」


「救われない」


 弔一は返さない。返すと、ここで争いが始まる。争いはこの店の土俵だ。土俵に乗ると、契約になる。


 弔一はミズハの袖を引いた。引かれたミズハが一瞬だけ抵抗し、抵抗が止まる。止まると、袖の布が乾いた音を立てる。


 二人は店を出た。


 出るとき、扉は音を立てない。木目の板が歪み、昼の路地の光を吐き出す。吐き出された光が眩しい。眩しいのに温かくない。路地の匂いが薄く感じる。店の紙の匂いが鼻に残っている。


 階段を下りる。板が軋む。軋む音が現実に戻す。戻すのに、指先の冷たさが消えない。


 路地へ出た瞬間、弔一のポケットが重くなる。


 重くなる音はない。音がないのに、布が少しだけ引かれる。引かれたところが冷える。


 弔一はポケットに手を入れ、紙片を掴んだ。紙片は乾いている。乾いているのに冷たい。冷たさが指の割れ目に入る。痛みが鈍くなる。


 紙片を出す。


 白い紙。角が立っている。新しい紙。新しいのに、匂いが古い。店の匂い。


 紙片に書かれているのは、名ではない。名がない。名がないのに、呼び方だけがある。


 水神。


 ミズハの顔が止まった。止まった顔のまま、喉が一度動く。動いた喉が音を出さない。


「それ」


 ミズハが言う。


 声は短い。短いのに、背中が冷える。


「私のこと」


 弔一は紙片を見たまま言った。


「違う」


 ミズハの指先が震える。震えはすぐ止まる。止まった瞬間、路地の乾いた音が戻る。


 弔一は続ける。


「お前じゃない」


 ミズハが息を吸う。吸う息が喉で止まる。止まった息が、吐く前で固まる。


「元水神がいる」


 弔一は紙片を折り、ポケットへ戻した。折り目が紙に残る。残る折り目が冷たい。


 ミズハが言った。


「行かないで」


 弔一は言う。


「行く」


「また」


「仕事だ」


 路地の先で、誰かが笑った。笑い声ではない。紙が擦れる音みたいな笑い。乾いた音が一度だけ鳴って消える。


 弔一は足を進めた。乾いた石畳を踏む。踏むたび、靴底が少し滑る。滑る感覚が、店の入口の白い粉と同じだ。


 最後に弔一は、一つだけ思った。


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