第3話 返せない手紙
朝の光は薄い。窓の外は晴れているのに、路地の石畳はまだ冷たく、踏むと乾いた音が返らない。乾いたはずの空気の中に、昨夜の雨の匂いだけが残っている。
弔一は机の前に座り、帳面を開いていた。紙に触れる指先がひび割れ、割れ目に紙粉が入り込む。痛みはすぐ来ない。遅れて熱だけが立つ。
引き出しの箱から万年筆を出す。金具が冷たく、指の割れ目が鈍くなる。鈍くなったせいで、紙の冷たさが余計に分かる。
机の端に、封筒が一つ置いてある。
差出人欄は空白。宛名もない。紙は新しい。角は立っている。けれど匂いが古い。乾いた紙の匂いの奥に、古い木箱の内側みたいな匂いが混じる。倉庫の奥で息を止めたときの匂い。
封は、最初から半分だけ裂けていた。丁寧に裂かれたのではない。爪で引っかけて、途中でやめた裂け方。裂けた紙の繊維が、白く毛羽立っている。
弔一は封筒を持ち上げた。軽い。軽いのに、掌に残る冷たさだけが強い。紙の重さじゃない冷たさだ。
中から、紙片が一枚滑り出た。
紙片は小さい。名刺より小さい。角が少し丸い。古い紙の丸さ。白いのに、白さが濁っている。
そこに一文字だけ。
返。
黒い字は滲まない。滲まないのに、墨の匂いがしない。匂いのない黒だ。
弔一の指が止まった。紙片を摘んだまま、動かない。万年筆のキャップを閉める手も止まる。止まった手のひび割れが開き、熱が遅れて来る。
窓際で水の気配が動いた。
ミズハが立っていた。濡れていない。濡れていないのに、部屋の隅が少し湿る。カップの水面に指を落とし、波紋を作る癖は今朝も続いている。波紋が広がるたび、光が割れて机の端へ落ちる。
「それ」
ミズハが言う。
弔一は紙片を机に置いた。置く音は薄い。薄いのに、机の木目の奥へ沈む感覚がある。
「来た」
弔一が言う。
「来たな」
ミズハの声は短い。
「捨てろ」
「捨てない」
「捨てろ」
ミズハの指が水面を叩く。水音が小さく鳴り、波紋が広がる。波紋の影が紙片の黒い字を撫でる。撫でられた字が、少しだけ濃く見えた。
「何の印だ」
弔一は紙片を見たまま言った。
「店だ」
ミズハが言う。
弔一は返事をしない。返事をすると、言葉が重くなる。重くなると、紙に乗ってしまう。
玄関の下で、金属が擦れる音がした。差し入れ口が動く音。紙が滑る音。音が短く、すぐ止まる。
弔一は立ち上がり、玄関へ行った。床板が鳴る。鳴る音が現実の方へ寄せる。
差し入れ口に、何かが押し込まれている。角の立った紙。赤い色が一瞬見えた。赤は封筒じゃない。封筒の赤じゃない。
弔一はそれを引き抜き、机へ戻った。
赤いものは、封筒ではなかった。紙でもない。小さな札。赤い塗料が剥げた札。指で触れると、ざらつく。ざらつきが指の割れ目に刺さる。刺さる痛みが鈍い。
札を机の端に置く。置いた瞬間、部屋の隅が赤く見えた。
そこに、何かが立っている。
古いポストの赤。郵便局の入口にある赤。塗り直される前の赤。剥げた下から黒が覗く赤。
ポストは、部屋の隅に立っていた。実物じゃない。けれど立っている。立っているように見える。赤の輪郭が、棚の影と重なる。
弔一は目を細めない。目を細めると、見えるものが増える。増えると、仕事じゃなくなる。
「来たか」
弔一が言う。
返事は声じゃない。赤い輪郭が少し揺れ、机の上の紙が一枚だけ、端から浮く。浮いた紙は落ちない。落ちる前で止まる。
「依頼だ」
弔一が言う。
赤い輪郭が、机の上へ寄る。寄ってくるのに、床板は鳴らない。足がない。足がないのに、近づく。
弔一の鼻に、古い紙の匂いが入った。封筒の匂いより古い。郵便袋の布の匂い。雨の日に濡れた紙束の匂い。乾く前にしまわれた匂い。
赤い輪郭の中から、封筒が一つ現れた。封筒は茶色い。角が丸い。何度も触られた角。けれど封はされている。封の糊が固く乾き、指でなぞると粉が落ちる。
弔一は封筒に触れずに言った。
「用件」
赤い輪郭の中に、言葉が落ちた。
「返せなかった」
次に、間が来る。間が長い。長いのに、雨音がない。外は晴れている。晴れているのに、部屋の中だけ雨の匂いが濃い。
「手紙」
言葉が二つ、落ちる。
「遺書を作れ」
弔一は封筒を見た。封筒の角の丸さが、触れられた回数を匂いで語っている。匂いが古い。古い匂いが、乾いた朝の空気を押し返す。
ミズハが言った。
「やめろ」
弔一は言う。
「仕事だ」
「違う」
ミズハは水面から指を上げた。水面が静かになる。静かになった水面が、赤い輪郭を映さない。映さないことが不自然に見える。
弔一は依頼用紙を引き寄せる。依頼種別の欄は三つ。神、人、物。弔一は三つ目に線を引いた。線は短い。短い線が、紙に置かれる。
「付喪か」
弔一が言う。
赤い輪郭が揺れた。肯定の揺れ。揺れが終わる前に止まる。
弔一は条文紙を出した。付喪神用の条文は短い。短い条文は、読む側の手を止めない。その代わり、確認項目が多い。確認項目が多いのは、道具の方が嘘をつくからだ。
「条文を読む」
弔一が言う。
赤い輪郭は返事をしない。返事の代わりに、机の上の温度が少し下がる。紙の冷たさが増す。
弔一は淡々と読む。
「依頼者は紙面に対する所有権を保持すること」
弔一は封筒を指さす。所有権の確認。封筒はここにある。ここにあることが所有の形だ。けれど封筒の匂いは古い。古い匂いは、長く手元にあったことを示す。
「依頼者は手紙の内容を開示しないこと」
ミズハの目が動く。動いた目が、封筒の封へ刺さる。
「代筆者は封の上から内容を写すこと」
弔一はそこで止めた。止めた指が、封筒に触れそうになる。触れそうになって止まる。止めた指の割れ目が開く。熱が遅れて来る。
ミズハが言った。
「触るな」
弔一は言う。
「触らない」
赤い輪郭から、また言葉が落ちた。
「開けるな」
弔一は赤い輪郭を見た。輪郭の中は空洞だ。空洞なのに、古い紙の匂いだけが詰まっている。
「開けると」
赤い輪郭が言う。
「返送先が消える」
ミズハが息を吸う。吸う気配だけが聞こえ、吐く前で止まる。
弔一はその文を、条文紙の余白に短く書き足した。例外の注意事項。黒い線だけで十分。黒い線が紙に置かれた瞬間、紙が少し冷える。
「返送先」
弔一が言う。
「宛名の方だな」
赤い輪郭が揺れる。肯定の揺れ。揺れが止まる前に、机の上の封筒がわずかに震えた。震えは音を出さない。音が出る前に止まる。
弔一は封筒を手に取らない。代わりに、封の上へ掌をかざした。触れない距離。紙の匂いが、掌の中へ入る。入るのに、濡れない。濡れない匂いだけが入る。
弔一は便箋を一枚出し、机の中央に置いた。紙は白い。白いのに冷たい。指の割れ目がひりつき、ひりついたまま鈍くなる。鈍くなった痛みの奥に、熱だけが残る。
「手順だ」
弔一が言う。
ミズハが言った。
「やめろ」
弔一は返す。
「黙れ」
短い会話が落ち、落ちた言葉が跳ねない。跳ねない言葉が、机の白の上で乾く。
弔一は封筒の封の端に、指先を近づけた。触れない。触れないまま、封の糊の硬さを匂いで測る。硬い糊は粉の匂いがする。粉の匂いは、乾きすぎた証拠だ。乾きすぎた封は、内側の紙も乾いている。乾いていると、文字が浮く。浮いた文字は、封の上からでも影になる。
弔一は便箋の上段に、枠を引いた。定規を当て、薄い線で。線は感情じゃない。位置決めだ。位置が決まると、字が迷わない。
「内容を読むな」
赤い輪郭が言う。
弔一は答える。
「読まない」
ミズハが言った。
「嘘だ」
弔一は言う。
「読めない」
言葉の違いが、机の上の空気に残る。残るのに湿らない。湿らない残り方は、後で痛む。
弔一は封筒の上に掌をかざし、もう片方の手で万年筆を持った。ペン先が紙に触れる前、指の割れ目が開く。開いた割れ目がペン軸の冷たさで鈍くなる。鈍くなることで、ペン先の位置が安定する。
弔一は封筒の封の上を、ゆっくりとなぞる。触れない。触れないまま。封の内側の紙の厚みを、空気の圧で読む。封の内側の紙の角。紙が折れている場所。折れた場所は硬い。硬い場所は影を作る。影は言葉の区切りになる。
弔一は便箋に書き始めた。
最初の一文は短く置く。短く置かないと、紙がうるさくなる。うるさくなると、匂いが負ける。
弔一はペン先を走らせる。線は滲まない。滲まないのに、机の端でミズハのカップの水面が濁る。濁りは色ではない。光の揺れ方が変わる濁り。
「やめろ」
ミズハが言う。今度は短くない。短くないのに、言葉は増えていない。強さだけが増えた。
弔一は言う。
「濁っても書く」
ペン先が紙を掴む音がする。乾いた音。乾いた音が、朝の静けさに残る。
ミズハが言った。
「文字が」
そこで止まる。止まる前に、喉が一度動く。
「濁る」
弔一は手を止めない。止めると、封の上の影が逃げる。影が逃げると、書けなくなる。
「濁るのは」
弔一が言う。
「俺の手じゃない」
ミズハの目が弔一の指を見る。割れ目。白い紙粉。熱。熱の遅れ。水に触れられない癖。触れられない癖が、今も手の位置を決めている。
弔一は続ける。
「お前の恐れだ」
ミズハの指がカップを掴み、少しだけ力が入る。力が入ったせいで水面が揺れる。揺れた水面の影が、便箋の白へ一瞬だけ落ちる。落ちた影が、文字の端を暗くする。
弔一は影を避けて書く。影の上に書くと、読めなくなる。読めなくなると、手順が崩れる。
便箋の上に、届かなかった言葉が並ぶ。並ぶのに、言葉は言葉のまま残らない。線の重さでしか残らない。
弔一は封の上の影を最後まで写し取り、最後に空白を残した。空白は署名のため。署名は呼び方があるときしか置けない。呼び方がない場合、証人が必要になる。
弔一は赤い輪郭へ言った。
「署名」
赤い輪郭は揺れない。
「置けない」
言葉が落ちた。
弔一は便箋の署名欄に、代わりの記号を置かない。記号は契約違反だ。記号は誤魔化しだ。誤魔化しは紙が嫌う。
弔一は証人欄を開き、そこに短く書いた。
返送不能。
書いた瞬間、赤い輪郭の匂いが薄くなる。薄くなるのに、紙の冷たさが増す。
弔一は便箋を封筒へ入れない。入れないまま、条文の最後を読む。
「代筆完了と同時に、失われるのは依頼者ではない場合がある」
赤い輪郭が揺れた。揺れは小さい。小さいのに、机の上の封筒が震える。震えが止まる前に、封筒の宛名欄の空白が一瞬だけ黒く見えた。黒く見えたのに、文字はない。
弔一は便箋の末尾を読み上げた。読み上げる声は低い。淡々と。感情の言葉を増やさない。増やすと、紙が濡れる。
読み終えた瞬間、部屋の空気が一度だけ薄くなる。薄くなるのに、寒くなる。寒さは水の寒さではない。乾いた寒さだ。
赤い輪郭は消えない。消えないまま、輪郭の赤が少し剥げる。剥げた下から黒が覗く。黒は匂いを持たない。
代わりに、封筒が変わった。
封筒の宛名欄。そこに貼られていたはずの町名の印刷だけが、剥がれるように抜けた。紙が破れたのではない。印刷だけが紙から離れる。離れた印刷が空気へ散り、散る前に止まらない。止まらずに薄くなる。
町名が消えると、封筒はただの紙になる。紙はただの紙になる。宛先がない紙は、返せない。
ミズハが言った。
「消えた」
弔一は言う。
「返送先だ」
赤い輪郭の中から、短い音が漏れた。音は声ではない。紙が擦れる音。郵便袋の中で紙束が動く音。乾いた音。
「返せない」
赤い輪郭が言う。
弔一は便箋を封筒へ入れ、封をした。封の糊を薄く塗る。糊は湿っているのに、指先が濡れない。濡れないまま、割れ目に粘りだけが残る。
弔一は控えを取る。控えの紙は普通の紙だ。普通の紙の温度が、今は妙に温かい。温かいのに、指の割れ目が痛む。
赤い輪郭は、机の端へ少し下がった。下がったせいで、部屋の隅の赤が薄くなる。薄くなるのに、古い紙の匂いだけが残る。
弔一は赤い輪郭へ言った。
「これで終わりだ」
赤い輪郭は返事をしない。返事の代わりに、机の上の封筒が一度だけ重く見えた。重く見えるのに、持ち上げれば軽いはずだ。重いのは紙じゃない。
ミズハが言った。
「背負うな」
弔一は言う。
「背負ってない」
「背負ってる」
ミズハの言葉は短い。短いのに、部屋の湿り気が増す。増すのに、水滴は見えない。見えない湿り気が、紙の端に近づく。
弔一は紙を棚へしまう前に、机の白を拭いた。布巾で。布巾は乾いている。乾いているのに、紙の冷たさが布へ移る。移った冷たさが指先へ戻り、割れ目の痛みを鈍くする。
そのとき、外階段で足音がした。
足音は軽い。軽いのに、階段が鳴らない。木が鳴らない歩き方。雨の日の靴音でもない。濡れた音がない。
弔一は窓へ目を向けた。窓の外の階段に、足跡が残っている。
濡れていない足跡だった。
乾いた足跡が、濡れた木の上に付いている。乾いた跡が濡れた面に残るのはおかしい。おかしいのに、足跡は確かにある。
足跡の先に、封筒が一つ置かれていた。
白い封筒。差出人欄は空白。封の糊は新しい。新しいのに、匂いが古い。最初の封筒と同じ匂い。木箱の奥の匂い。
弔一は封筒を取り、机に置いた。置いた瞬間、机の上の空気が薄くなる。薄くなるのに、冷たい。冷たさが紙からではなく、空気から来る。
封筒の表に短い文がある。印刷ではない。手書き。滲まない黒。
名を返してほしければ、店へ。
ミズハが言った。
「行くな」
弔一は封筒を開けずに見た。
「そこは」
ミズハの声が少し硬い。硬いのに、水の匂いが強くなる。
「神が神でなくなる場所だ」
弔一は封筒を机の中央へ置き、万年筆を箱から出した。金具が冷たい。冷たさが割れ目へ入る。痛みが鈍くなる。鈍くなると、考えが固くなる。
弔一はミズハを見ずに言った。
「じゃあ行く」
ミズハが言う。
「何で」
弔一は封筒の文字を見たまま答えた。
「俺は神じゃない」
窓の外で風が動き、階段の乾いた足跡が少しだけ薄くなる。薄くなるのに、消えない。消えない薄さが、次の場所を指している。
弔一は封筒を棚にしまわず、机の上に残した。
残した白の上で、黒い文が冷たく光っていた。
最後に弔一は、一つだけ思った。
名前。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます