第2話 死ねない少年の遺書

 夜明けの光は、雨上がりの路地に薄く貼りついていた。石畳はまだ冷たく、踏むと靴底がわずかに吸いつく。水たまりはない。濡れた気配だけが、地面の目地に残っている。


 長屋の階段を上ると、木の匂いが鼻の奥に刺さる。昨夜より乾いているはずなのに、乾ききらない匂いがある。手すりに触れた指が、ささくれに引っかかって白くなった。割れ目が開き、熱が遅れて来る。


 弔一は鍵を回し、扉を押した。蝶番が小さく鳴る。鳴った音が、朝の静けさに残る。


 机の上のランプは消えていた。窓からの光が、便箋の白を薄く照らしている。白い紙は、朝だと冷えが目立つ。触れなくても分かる冷たさだ。


 窓際で、ミズハがカップを持っていた。カップの中の水面に指先を落とし、同じ速度で波紋を作り続けている。指は濡れていないのに、水面だけが震える。波紋が広がり切る前に、また指が落ちる。終わらない繰り返し。


「暇なら消えろ」


 弔一が言う。


 ミズハは波紋を止めない。


「消えるのが怖いのは」


 ミズハの声は短い。


「お前だ」


 弔一はカップを見た。水面の波紋が光を割って、机の縁へ細い影を落とす。その影が、紙の角を一度だけ撫でた。


「ここで水遊びするな」


「遊びじゃない」


 ミズハは指を上げ、カップの縁に一滴も残さない。指先は乾いたまま。けれど空気は少し湿る。


「確認だ」


「何を」


「お前の手が」


 ミズハは言い、そこで止めた。止めた言葉の隙間に、外の鳥の声が入る。遠い。乾いた声。


 弔一は引き出しを開けた。黒い箱に入った万年筆。昨夜より温度が低い。金具が指先を冷やし、割れ目の熱が鈍くなる。


 机の上に、今日のセットを作る。便箋、封筒、契約条文、依頼用紙、控え、朱肉、印、糊、定規、クリップ。並べる順番は変えない。変えると、手が迷う。迷うと、ペン先が滑る。滑ると、線が乱れる。


 ミズハが言った。


「今日も来る」


「来るだろ」


「来ない方がいい」


「それは俺が決める」


「決めてるのは」


 ミズハの目が、机の白へ落ちる。


「紙だ」


 弔一は答えない。代わりに、帳面を開く。依頼番号の欄に、今日の日付の数字を書き入れる。数字は滲まない。滲まないのに、ペン先の音がやけに乾いて聞こえる。


 玄関の鈴は鳴らない。


 けれど、階段の下で足音が止まったのが分かる。止まった場所の空気が、ほんの少し重くなる。木の軋みが、遅れて上がってくる。


 弔一は扉を開けた。


 制服の少年が立っていた。傘は差していないのに、肩が濡れていない。髪も乾いている。雨の気配だけが、靴の裏に薄く残っている。


 少年は靴を脱ぎ、揃えた。揃えすぎるほど、真っ直ぐに。つま先の角度まで同じにする。玄関の板が少し鳴り、少年はその音に反応して足を引く。音を嫌う動きだ。


 弔一は言った。


「上がれ」


 少年は頷き、畳の縁を踏まないように歩いた。足運びが丁寧すぎる。丁寧すぎると、身体のどこかが硬いのが分かる。手首のあたりに、薄い痕が見えた。袖口の隙間。細い線がいくつか、淡い色で残っている。


 少年は椅子に座る前に、机の上を見た。便箋の白、封筒の白、条文の紙、朱肉の黒。色が少ないのに、視線が落ち着かない。


「用件は」


 弔一が言う。


 少年は口を開き、音を小さく置いた。


「死ねません」


 短い。言い切りだ。


 ミズハがカップを置く。置いたはずなのに、音が薄い。薄い音が、机の下へ吸われる。


 弔一は少年を見た。頬の血色は普通だ。目の下に薄い影。呼吸は浅い。浅いのに乱れていない。乱れていないから、言葉が固い。


「事故でも」


 少年が言う。


「病でも」


 言葉が二つ、並ぶ。


「戻ります」


 弔一は質問しない。質問すると、物語になる。物語になると、机の上の紙が仕事から離れる。仕事は、確認から始める。


 弔一は依頼用紙を取り、上段の枠を指でなぞった。依頼種別のチェック欄が三つある。昨夜は一番上に線を引いた。今日は二番目に線を引く。紙の上でペン先が鳴る。鳴る音が、少年の肩を一瞬だけ硬くした。


「遺書は」


 弔一が言う。


「死ぬためじゃない」


 少年の目が弔一の口元へ動く。動いて止まる。止まる間が短い。


「死ねないなら」


 弔一は続ける。


「遺書はやめ方を書く」


 少年はすぐに頷かない。頷かない代わりに、喉が一度動く。音にならない動き。乾いた動き。


「やめ方」


 少年が小さく言った。


 弔一は条文紙を引き寄せ、読み上げる準備をする。紙は乾いている。乾いているのに、触れると少し冷たい。


「条文を読む」


 弔一が言う。


 少年は頷いた。頷き方が小さい。小さいのに、首の筋が張る。


 弔一は読み始める。声は低く、淡々と。紙の字を追うだけ。


「依頼者は自署できない場合に限り、代筆を依頼できる」


 弔一は便箋を一枚、少年の前へ滑らせた。万年筆を差し出す。差し出した指の割れ目が、ペン軸の冷たさで鈍くなる。


「書けるか」


 少年は万年筆に触れない。触れないまま、手を膝の上で握った。指の関節が白くなる。白くなった指先が、机の白を見ている。


「書けません」


 弔一は便箋を戻した。戻す音が薄い。紙が机に触れる音が薄い。


「意思確認」


 弔一は条文の次の行を指で押さえる。押さえた指の腹に、紙の粉がつく。白い粉が割れ目に入り、痛みが少し戻る。


「拒否できる」


「できます」


 少年の返事は早い。早いのに、声が小さい。小さい声は、床に落ちて跳ねない。


 弔一は次の条文へ進む。ここから先は、毎回同じ文なのに、読むたびに空気の重さが変わる。


「代筆完了と同時に、依頼者はこの街から退く」


 少年の瞳が動かない。動かないのに、呼吸が一拍だけ浅くなる。


 弔一はそこで止めた。止めたまま、紙を見た。少年を見ない。少年を見ると、読み方が変わる。読み方が変わると、字が揺れる。


 弔一は言った。


「今回は」


 喉が一度動く。乾きが引っかかる。


「言い切れない」


 ミズハの指が止まる。カップの水面が動かない。動かない水面が、朝の光を一枚だけ返す。


 少年が言った。


「消えないことも」


 言葉が途中で止まる。止まる前に、喉が動く。


「あるんですか」


 弔一は答えを急がない。答えを急ぐと、軽くなる。軽くなると、少年が持ってきた重さが床に落ちない。


「中身次第だ」


 弔一はそう言い、条文紙の余白に短い線を引いた。例外扱いの印。印は赤じゃない。黒い線だけ。黒い線で十分だ。


 ミズハが言った。


「人間で」


「黙れ」


 弔一の声は短い。短いのに、語尾が整っている。整っているのは癖だ。癖がないと、仕事が崩れる。


 弔一は少年へ視線を戻す。


「遺書は」


 弔一が言う。


「やめ方の手順」


 少年の目が机の上の封筒へ移る。封筒の宛名欄は空白。空白が、少年の目に刺さっている。


「宛先は」


 少年が言った。


 弔一は短く答える。


「未来のお前」


 少年は唇を閉じ、開き直すように言った。


「書きたい」


 声が小さい。小さいのに、言い切っている。


 弔一は便箋を新しく出した。紙は白い。白いのに、触れると冷たい。指の割れ目がひりつく。ひりつくのに、手が冷えているから痛みが鈍い。


「内容」


 弔一が言う。


「まず言え」


 少年は机の端を見た。端の木目。木目の暗い筋を見ている。


「生きるのを」


 そこで止まる。止まる前に、喉が動く。


 少年は首を振った。首の動きが小さい。


「違う」


 弔一は少年を急かさない。代わりに、便箋の上段に枠を引く。行の位置を決めるための薄い線。定規で引く。定規の端が紙を擦る音が、少年の耳に届く。


「繰り返すのを」


 少年が言う。


「やめたい」


 弔一は頷いた。頷きは小さい。頷きが大きいと、同意に見える。仕事は同意じゃない。確認だ。


「手順にする」


 弔一は言った。


「箇条に落とす」


 少年はわずかに肩の力を抜く。抜いたはずなのに、手首の痕が目に残る。薄い線。消えかけの鉛筆の線みたいな色。


「一つ目」


 弔一が言う。


「何をやめる」


 少年はすぐ答えない。答えない間に、口の中が乾いているのが見える。唇が少し白い。


「名乗らない」


 少年が言った。


 弔一は便箋に書く。短く。滲まない線で。


 名乗らない。


 書いてから、弔一はその語を見て、すぐに線で消した。二本線で消す。消しても紙は白のままだ。黒い線だけが残る。


 少年の目が動く。


「だめですか」


 弔一は短く言う。


「言い方を替える」


 弔一は新しい行に書く。


 呼び方を置かない。


 少年の喉が一度動く。返事はない。けれど、息が少しだけ深くなる。深くなった息が、朝の冷たさで薄く白い。


「二つ目」


 弔一が言う。


「どこへ行く」


 少年は机の上のカップを見る。ミズハのカップ。水面は静かだ。静かな水面が、少年の目を引く。


「誰にも」


 少年が言いかけて止まる。止まる前に、唇が乾く。


「誰にも呼ばれない場所」


 弔一は書く。短い線。乾いた音。


 呼ばれない場所へ。


 書いて、すぐに少年の手首へ視線を滑らせた。痕はまだ薄い。薄いから、触れられる距離にいる。触れられる距離にいるのに、触れない。仕事は触れない。


「三つ目」


 弔一が言う。


「何を避ける」


 少年は一瞬、視線を落とした。落とした視線が、床の木目をなぞり、机の脚へ戻る。


「水」


 少年が言う。


 ミズハの目が動く。動いたのに、顔は動かない。水の匂いが、ほんの少し尖る。


 弔一はすぐに書かない。書かずに、紙の端を押さえた。押さえた指の割れ目が紙に触れて、鈍い痛みが戻る。


「触れない」


 少年が言った。


「水に触れない」


 弔一は書いた。


 水に触れない。


 書き終えた瞬間、ミズハが机を叩いた。


 乾いた音ではない。水滴が落ちた音が混じる。混じった音が、便箋の白を揺らす。


 弔一は反射で手を出した。紙の上に手のひらを置く。守るように置く。紙が湿る前に、押さえ込む。


 手のひらが触れた紙は冷たい。冷たさが骨へ入る。割れ目がひりつく。ひりつくのに、熱が出ない。熱が出ないまま、痛みだけが残る。


「やめろ」


 ミズハの声は短い。


 弔一は言う。


「滲みは残る」


 ミズハの指先から、見えない水滴が落ちたのか、便箋の端に薄い影ができた。影が紙の繊維へ染み込むみたいに広がる。白が少しだけ灰色になる。


 弔一は続ける。


「消えるのは本人だ」


 ミズハの目が細くなる。


「消えるって」


 弔一は遮る。


「条文だ」


 少年は二人の会話を見ていない。便箋の灰色の滲みを見ている。滲みの輪郭が広がり切る前に止まる。その止まったところを、少年が目で確かめている。


「滲みでいい」


 少年が言った。


 声は小さい。小さいのに、言い切っている。言い切ったあと、唇が少し震える。震えはすぐ止まる。止まる前に、喉が一度動く。


 弔一は手のひらを上げた。紙に薄い湿り気が残っている。残っているのに、指先は濡れない。濡れないまま、紙の白が少しだけくすむ。


 弔一は便箋を新しくしない。新しくすると、滲みが消える。消えると、少年の「滲みでいい」が宙に浮く。浮く言葉は、仕事じゃない。


 弔一は滲みの上を避け、字の位置を一段ずらした。ずらすと、封筒に入れたとき折り目が変わる。折り目が変わると、字の切れ方が変わる。弔一は定規で折り線の位置を確認し、行間を少し詰めた。


 仕事の手順は、淡々と積み上げるほど強くなる。


 弔一は言った。


「今の三つは」


「手順ですか」


 少年が言う。


「手順だ」


 弔一は箇条の頭に丸をつけた。丸は大きくしない。大きい丸は感情に見える。小さい丸で十分だ。


 一、呼び方を置かない。

 二、呼ばれない場所へ行く。

 三、水に触れない。


 弔一は少年へ視線を上げた。


「追加は」


 少年は首を振った。振り方が小さい。


「これで」


 弔一は条文紙をもう一度引き寄せる。最後の確認へ進むため。


「読み上げる」


 弔一が言う。


 少年は頷いた。


 弔一は便箋を手に取り、声を整える。整えると言っても、息を大きく吸わない。吸うと、乾きが引っかかる。乾きが引っかかると、声が割れる。割れると、字が揺れる。だから淡々と始める。


「未来の自分へ」


 弔一は最初の一文を短く置いた。そこから箇条を読み上げる。読み上げるたび、少年の肩が少しずつ下がる。下がるのに、顔は動かない。動かない顔のまま、目だけが便箋の行を追う。


 一つ目を読んだとき、少年の喉が動く。

 二つ目を読んだとき、少年の指先が膝を押す。

 三つ目を読んだとき、少年の目がカップから離れる。


 弔一が最後の行を読み終えた瞬間、部屋の空気が一度だけ薄くなる。薄くなるのに、寒くなる。寒さは水の寒さではない。乾いた寒さだ。


 弔一は封筒を開き、便箋を入れる準備をする。封筒の口の糊は乾いていない。指で触れると粘りがある。粘りが割れ目に引っかかり、鈍い痛みが戻る。


 そのとき、少年の制服の胸を弔一は見た。胸の布地に、小さな札が縫い付けられている。透明なケースの中に、文字がある。学校の札。呼び方を置くための札。


 弔一はその札の文字を見た。


 文字が、薄くなっていた。


 薄くなるのは、紙じゃない。布でもない。印刷でもない。文字だけが、空気へ逃げるみたいに淡くなる。淡くなるのに、札の透明はそのまま。透明は変わらない。


 少年は気づいていない。気づいていないのに、目の奥が少しだけ楽になっている。楽と言わない。けれど、瞬きの回数が減る。


 ミズハが言った。


「消えない」


 弔一は短く答える。


「体はな」


 少年が弔一の視線の先を追い、胸の札へ目を落とした。落とした瞬間、唇が乾いた。乾いた唇が、擦れた音を立てる。


「薄い」


 少年が言う。


 弔一は便箋を封筒へ入れ、封をしないまま置いた。まだ終わっていない。終わっていないのに、空気の薄さが戻り始める。戻る速度が遅い。遅い戻り方は、後を引く。


 弔一は少年へ言った。


「お前は」


 言葉が短く切れる。切れた言葉の間に、雨の匂いが一瞬混じる。外は晴れているのに、雨の匂いだけが混じる。


「呼ばれ方が」


 弔一は続ける。


「先に抜ける」


 少年は弔一を見た。見たまま、笑った。口角だけが上がる。目は笑わない。笑わないのに、声が出る。


「ちょうどいい」


 少年の声は小さい。小さいのに、はっきりしている。はっきりしているから、机の白へ落ちる。


 ミズハが椅子の背に手を置く。背もたれが鳴る。鳴る音が、今は妙に現実っぽい。


「それでいいのか」


 ミズハが言う。


 少年は頷いた。


「それでいい」


 弔一は封筒に糊を塗り、口を閉じた。閉じる音は薄い。薄いのに、そこだけ空気が固くなる。


 弔一は控えの用紙を取り、同じ内容を写す。写す線は滲まない。滲まない線が、紙の冷たさを強くする。強くなる冷たさが、指の割れ目を鈍く痛ませる。


 控えを書き終え、帳面に依頼番号と内容の要約を書く。要約は短い。短いのに、背中に冷たさが残る。冷たさが残るのは、紙のせいではない。少年の札の文字が薄くなったからだ。


 弔一は封筒を少年へ渡した。渡すとき、指が触れないようにする。触れると、湿り気が移る。湿り気が移ると、紙が変わる。紙が変わると、手順が揺れる。


 少年は封筒を受け取り、胸の前で抱えた。抱えた封筒は軽い。軽いのに、少年の腕が少しだけ震える。震えはすぐ止まる。止まる前に、喉が一度動く。


「これで」


 少年が言う。


「やめられる」


 弔一は頷かない。頷かない代わりに、玄関の方へ視線を向けた。外の路地から、声が流れてくる。朝の声。噂の声。はっきり聞こえない。けれど、言葉の核だけが耳に刺さる。


 買えば。

 手に入る。

 どんな死も。


 ミズハが言った。


「聞いたな」


 弔一は言う。


「聞こえた」


 少年も聞いている。聞いているのに、顔は動かない。動かない顔のまま、胸の札を指で押さえた。押さえた指が震える。震えはすぐ止まる。


 弔一は少年へ言った。


「外で」


「はい」


「余計な話を」


 弔一はそこで止めた。止めた言葉の先を、紙に書かない。紙に書くと、手順じゃなくなる。


 少年は立ち上がり、靴を履いた。履くときも揃えすぎる。揃えすぎるほど丁寧に、踵を合わせる。玄関の板が鳴り、少年は一瞬だけ肩を硬くする。


 扉を開ける前に、少年が振り返った。


「もう一つ」


 少年が言う。


 弔一は短く返す。


「何だ」


「呼ばれ方が」


 少年の唇が乾く。乾いた唇が擦れる。


「薄くなると」


「何だ」


「楽です」


 弔一は返事をしない。返事をすると、肯定になる。肯定は仕事じゃない。確認だ。


 少年は小さく頭を下げ、出ていった。外の空気が室内より少し温かい。少年が降りる足音が、階段の軋みと混じって遠ざかる。


 扉を閉めた瞬間、机の上の封筒が一枚、わずかに滑った。滑ったのに、風はない。滑ったのは、紙の下の空気が動いたからだ。


 弔一は机へ戻り、控えを所定の棚へ入れる。棚の木が乾いた匂いを出す。乾いた匂いの中に、わずかに雨の匂いが混じっている。


 ミズハが言った。


「消えないんだな」


 弔一は短く答える。


「まだな」


「まだ」


 ミズハが繰り返す。


「先に抜けるのは」


 ミズハの目が、少年の胸の札を思い出すように宙を見る。


「呼ばれ方」


 弔一は頷かずに言った。


「札の文字だ」


 そのとき、玄関の下から紙の擦れる音がした。封筒の擦れる音。誰かが、差し入れ口に何かを押し込む音。音は短く、すぐ止まる。


 弔一は立ち上がり、玄関へ行った。床板が鳴る。鳴る音が現実を押し返すみたいに響く。


 差し入れ口には封筒が一つ。差出人欄は空白。封はされている。封緘の糊が、乾き切って硬い。触れると、指の割れ目が痛む硬さだ。


 弔一は封筒を机へ持ち帰り、刃物を使わずに開けた。刃物を使うと、紙が余計に傷む。紙が余計に傷むと、文字が乗らない。文字が乗らないと、読む側の手が迷う。


 封筒の中には、紙片が一枚。

 紙片には、一文字だけ。


 返。


 黒い字が、滲まずに置かれていた。

 置かれているのに、紙の温度が低い。


 ミズハが言った。


「来たな」


 弔一は紙片を机に置き、指先の割れ目を布で拭った。黒い線が布へ移る。移った線は薄い。薄いのに、冷たさだけが残る。


 弔一は短く言った。


「噂が早い」


 外の路地で、また声が流れた。今度ははっきりしている。朝の乾いた声が、雨の匂いを引きずってくる。


 呼び方を買えば、どんな死も手に入る。


 弔一は紙片の一文字を見たまま、封筒を閉じずに置いた。


 指先の割れ目が、また開く。

 血は出ない。熱だけが遅れて来る。


 ミズハが言った。


「止めろ」


 弔一は言った。


「止めない」


 机の上の白が、朝の光を受けて眩しい。眩しいのに、冷たい。冷たい紙の上で、黒い一文字だけが妙に重い。


 弔一は帳面に今日の追記を入れた。依頼二件目。少年。札の文字が薄くなる。差出人不明。紙片一枚。返。


 書き終えた万年筆を閉じ、箱へ戻す。金具が冷たい。冷たさが割れ目へ入る。痛みが鈍くなる。鈍くなった痛みの奥に、熱だけが残る。


 そして弔一は、机の白を見下ろしながら、最後に一つだけ思った。


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