遺書代筆人は、名前を売る店を許さない

妙原奇天/KITEN Myohara

第1話 遺書代筆人、開業

 雨は細く、落ちる音が途切れない。路地の石畳は濡れているのに、光を返さない。水が張る前に、どこかへ吸われていく。


 古い長屋の二階。階段は狭く、踏み板が軋むたびに湿った木の匂いが立った。手すりは冷たく、指の腹にささくれが引っかかる。皮膚が薄く裂け、じわりと熱が滲んだ。


 扉の前に表札はない。郵便受けもない。鍵穴だけが黒い口を開けている。


 弔一は鍵を回し、扉を押し開けた。


 室内は六畳ほど。天井が低く、雨の匂いがそのまま入ってくる。机と椅子、背の低い棚、ランプ。余計な飾りはなく、紙の白さだけが浮いている。


 弔一は鞄を床に置き、袖をまくった。布巾を取り、机の天板を拭く。水分が薄く延び、木目の筋に沿って残った。乾かない。乾かないというより、乾く前に薄くなる。


 引き出しを開ける。硯は入っていない。筆もない。代わりに細長い箱が一つ。黒い万年筆が一本、鈍い金具と一緒に眠っている。


 弔一は万年筆を取り出し、掌で転がした。雨に当たった石のような温度。キャップを外すと、金属の匂いが短く鼻の奥を刺した。インクの甘さはない。鉄と油が混じった古さだけがある。


 机の端に、事務用品を並べる。


 便箋。封筒。細い定規。朱肉。乾いたスタンプ台。薄い紙の控え。二枚複写の用紙。紙留め。糸で綴じた帳面。ページを開くと、乾いた紙粉が指につく。指先の割れ目が、紙粉を抱えて白くなる。


 弔一は帳面の一頁目に、今日の日付を書く。数字を置くたび、ペン先が紙を掴む音がした。紙は白い。白いのに、触れると温度が低い。机の木よりも低い。


 紙の右上に、細い枠が印刷されている。依頼番号、依頼種別、署名位置、証人欄。文字は小さい。読み慣れた大きさだ。


 弔一は用紙を揃え、クリップで留めた。契約条文の紙を上に載せる。条文は長い。けれど、読む部分は限られている。目線が自然にそこへ落ちるよう、赤い下線を引いてある。


 ランプの紐を引く。明かりが灯り、机の上に黄色い円ができた。湿り気を含んだ空気が、灯りの中だけ少し薄くなる。


 窓の外で雨が続く。雨樋が詰まったのか、一定の間隔で水が落ちる音がする。規則正しいのに、どこかで一拍だけ遅れる。


 その遅れに合わせるように、部屋の端が冷えた。


 弔一は振り向かずに言った。


「そこ、濡らすな」


 返事はない。けれど窓辺の暗さが、わずかに濃くなった。


 次の瞬間、ミズハが窓際に立っていた。


 濡れていない。髪も、袖口も、水滴を持っていない。だが、雨上がりの石の匂いだけが濃い。川の底のような冷たさが、床板を伝って足首に触れた。


「開いたんだ」


 短い声だった。


「見れば分かる」


 弔一は帳面から目を離さず、ペン先を紙から上げた。インクが滲まない。滲まないのに、紙の冷たさが指に移る。


「趣味が悪い」


 ミズハの目が机の上の条文に落ちる。細い文字列を、音もなく読んでいく視線。


「神様のくせに、言葉が荒いな」


「神って呼び方、やめろ」


 ミズハの声は乾いている。乾いているのに、部屋は湿る。矛盾が、当たり前みたいに居座る。


「終わらせる段取りを、道具みたいに並べて」


「段取りがないと、書けない」


「書かなきゃいい」


「書けないやつが来る」


 弔一は条文の紙を軽く叩いた。紙は鳴らない。音が出る前に吸われる。


「呼ばれなくなったやつは、自分の署名が置けない」


 ミズハの眉が動く。ほんの少し。


「言葉の穴を、商売にする」


「穴があるなら、埋めるやつがいる」


「埋めるって言い方が嫌い」


 ミズハは窓枠に腰を預けた。外は暗い。路地の奥に人の足音はない。雨だけが、一定の速度で地面を叩いている。


 弔一は紙束を揃え直した。契約条文を一番上にし、次に依頼内容の用紙、最後に控え。封筒は右に置く。封緘用の糊が乾いていないか、指で確かめる。指の割れ目が、糊に触れて鈍く痛んだ。


 ミズハが言った。


「終わらせるな」


「終わらせるって、誰が決める」


 弔一は言い、口の中が乾いているのに気づいた。唾が引っかかる。喉が一度動き、音にならずに戻る。


「お前が決めるんだろ」


「俺は書く」


「書くのが決める」


 言葉が短く、部屋に落ちる。落ちた言葉が床で跳ね返らない。


 玄関の鈴は鳴らなかった。


 それでも空気が増えた。


 机の上の紙が、わずかに沈む。重さが乗ったのではない。重さが「増える前の気配」が、机の脚に伝わる。


 次の瞬間、床に小さな音が落ちた。


 石だった。


 手のひらに収まるほどの大きさ。角は丸く、表面は乾いている。乾いているのに、古い墨の匂いがする。寺の軒下で嗅ぐ匂いに似ているが、そこには線香の甘さがない。湿った土と、擦れた石だけの匂い。


 石は自分で動かない。けれど机の上に転がり上がってきた。誰かが持ち上げたわけではない。床と机の間の空気が、瞬間だけ押し上げた。


 弔一は椅子から立たず、石を見た。


 石の表面が、微かに震えている。音は出ない。震えだけが、机の木目に伝わる。


「依頼か」


 石は震えを止める。


「声がないな」


 返事はない。代わりに墨の匂いが濃くなる。濃くなるのに、湿り気は増えない。紙が湿らない。紙が湿らないまま、匂いだけが乗ってくる。


 弔一は鼻から息を吸い、喉の奥が空振りする感覚を確かめた。音にならない咳を飲み込むと、舌の裏が乾いた。


「呼ばれなくなってる」


 石が、わずかに机の上で擦れた。砂粒が一つ、紙の端に落ちる。細い音だけがした。


 弔一は依頼用紙を取り、上段の枠を指でなぞった。依頼種別欄の横に、三つの小さなチェック欄がある。弔一はそのうち一つに、短い線を引いた。


 ミズハが言う。


「やめろ」


「聞く」


 弔一は石に向けて、便箋を一枚差し出した。紙は冷たい。冷たさが指の割れ目に入り、痛みが鈍くなる。


 石から、言葉が落ちた。


「署名だけでも」


 声ではない。空気の中に、短い文が置かれる。置かれた文の周りが、ほんの少し乾く。


「残したい」


 弔一は便箋を机の中央に置いた。封筒も並べる。封筒の宛名欄は空白。宛名を書かない型だ。


「手順を言う」


 弔一は条文紙を取り上げ、読み始めた。声は低く、淡々としている。読み上げることで、紙が仕事の道具になる。儀式ではなく、事務処理に近づく。


「依頼者は遺書本文を自署できない場合に限り、代筆を依頼できる」


 ミズハが鼻で息を吐いた。窓際の冷たさが増す。


「代筆者は、本人の意思確認ができない場合、依頼を受けない」


 弔一はそこで一度止めた。石を見る。震えはない。逃げない。


「意思確認」


 弔一は短く言った。


「今、ここで拒否できるか」


 石の周りの空気が、少し動いた。拒否の動きではない。留まる動きだ。


 弔一は次の条文を読む。


「代筆完了と同時に、依頼者はこの街から退く」


 ミズハが机を叩いた。


「それを読むな」


 叩いた手の音は鈍い。木が鳴る前に、湿り気が飲み込む。


「読む」


 弔一は視線を上げない。


「読まなきゃ契約にならない」


「契約って言い方が」


「言い方じゃない。書式だ」


 弔一は条文紙の余白を指で押さえた。紙が浮かないように。浮くと、線がずれる。


 石の周りが、ほんの少し冷える。冷えるのに、濡れない。水は見えない。匂いだけが残る。


 弔一は続ける。


「退くことに伴う物理的変化は、外部から観測されない」


 ミズハが言った。


「観測って言葉も嫌い」


「条文だ」


 弔一は淡々と読んだ。紙の字を追うだけで、喉の乾きが増す。唾が戻らない。喉が動くのに、音が出ない。


「代筆者は、署名欄に依頼者の署名を置く。ただし署名は、依頼者の呼び方が街のどこかに残っている場合に限る」


 ミズハの目がわずかに細くなる。


 弔一はそこで止め、石を見た。


「呼び方が残ってないと、署名が成立しない」


 石の震えが、ほんの一瞬だけ戻った。机が、微かに鳴る前の気配を見せる。鳴らない。鳴る前に止まる。


 弔一は依頼内容の用紙を取り、上段に短い文を書いた。依頼目的欄に、三語だけ。


 署名の確定。


 次に、確認項目欄へ移る。そこには四つの枠がある。自署不可確認、意思確認、署名成立条件、証人。


 弔一は一つ目の枠に線を入れた。自署不可確認。石の前に便箋を置き、万年筆を差し出す仕草をする。石は動かない。書けない。書けないことが、そのまま確認になる。


 弔一は二つ目の枠に線を入れた。意思確認。拒否できるか。留まった。留まることが確認になる。


 弔一は三つ目の枠に、ペン先を止めた。署名成立条件。ここだけは、代筆者の側の確認がいる。


 ミズハが口を開く前に、弔一は言った。


「お前、知ってるだろ」


「知らない」


「知ってる」


「言わない」


 ミズハの声は短い。短いのに、窓辺の空気が重くなる。水の匂いが、少し苦くなる。


 弔一は石に向けて言った。


「署名だけでも、でいいな」


 返事はない。けれど便箋の端が、ほんの少し揺れた。紙が揺れたのではない。紙の上の空気が動いた。


 弔一は便箋を一枚、新しく出した。白い。冷たい。触れた指先が、短く痺れる。痺れが抜けないまま、万年筆を持つ。


 まず書くのは、本文だ。書式がある。短い遺書は、短いままでいい。ただし、空白を残す位置が決まっている。署名のための空白。証人欄のための余白。封筒に入れたとき、折り目が字を切らないよう、行間を調整する。そういう手順が、仕事になる。


 弔一は一行目に、短い文を書いた。


 ここに在った。


 文字が滲まない。

 ペン先の音が、紙に引っかかる。引っかかる音が、雨音の中で妙に目立つ。


 二行目は、続きだ。けれど、そこで弔一は止めた。止めた瞬間、喉が動いた。乾いたものが引っかかり、吐き出せない。


 石の墨の匂いが、ほんの少し薄くなる。薄くなる代わりに、机の上の冷たさが増す。


 弔一は、書く。書かなければ、仕事にならない。けれど書けば、条文通りに進む。条文通りに進むことが、いつも同じ感触を残すわけではない。


 弔一は二行目の途中まで書いた。


 呼び方は——


 そこで止めた。止めたペン先が、紙に触れたまま震える。指が割れたところに力が入る。割れ目が開き、鈍い痛みが戻る。


 ミズハが言った。


「やめろ」


 弔一は言い返す。


「黙れ」


 声は丁寧ではない。けれど語尾は乱れない。乱れると仕事にならない。乱れると、字が崩れる。


 ミズハが言った。


「それは、署名が」


 弔一は答える。


「分かってる」


 石の周りの空気が、少し薄くなる。薄くなるのに、寒くなる。寒さは、水の寒さではない。乾いた寒さだ。


 弔一はミズハを見る。ミズハの目は、便箋の空白を見ている。空白の奥を見ているように。


「証人欄」


 弔一が言った。


「お前が置ける」


「置けない」


「置ける」


「言いたくない」


 ミズハの指先が、窓枠を掴む。掴んだ木が鳴らない。鳴る前に止まる。代わりに窓の外の雨音が一拍だけずれる。


 弔一は淡々と、証人欄の説明を続けた。説明ではない。手順だ。


「証人は二つある」


 弔一は用紙の下段を指で叩く。紙が鳴らない。


「一つは人間の証人。もう一つは土地の証人」


 ミズハが目を逸らす。


「土地の証人は、呼び方を一度だけ口にする。口にしたら、それは書面に残る」


「残るって言うな」


「残るだろ」


 弔一の口の中がさらに乾く。舌の裏が紙みたいに貼りつく。喉が動き、音が出る前に止まる感覚が続く。


 弔一は石に向けて言った。


「署名は、呼び方があって初めて置ける」


 石は震えない。逃げない。拒否もしない。留まっている。


 ミズハの沈黙が長い。長いのに、部屋の音は少ない。雨音だけが続き、ランプの灯りだけが机に落ちている。紙は白いまま。白いまま、冷たい。


 ミズハがようやく言った。


「昔」


 一語だけ。


 弔一は聞き返さない。聞き返すと、仕事じゃなくなる。誘導になる。誘導は契約違反だ。


 ミズハは続けた。


「川の分かれ目で」


 声が低くなる。低い声が床に落ち、跳ね返らない。


「そう呼ばれてた」


 弔一は、その一語を待っていた。待っていたのに、指先の割れ目が広がる。痛みが遅れてくる。遅れてくる痛みは、押し込めると字が揺れる。弔一は呼吸を整えるような動作はしない。代わりに椅子の位置を一センチだけ直し、肘の角度を変えた。手首が安定し、ペン先の揺れが収まる。


 弔一は証人欄に、その呼び方を置いた。置いた瞬間、便箋の冷たさが少し増す。紙が冷える。冷えるのに湿らない。


 弔一は本文に戻る。二行目の続きを書く。呼び方は——の空白を埋める。文字は小さい。小さく、固く、崩さない。崩すと、読めなくなる。読めなくなると、署名の意味が落ちる。


 弔一は最後の行に移る。署名欄。ここだけは、字の大きさを決めてある。大きすぎると嘘になる。小さすぎると消える。そんな感触がある。感触でしか分からない。だから手順が必要になる。


 弔一はペン先を置く前に、条文紙をもう一度読み上げた。確認は儀式ではない。責任の順番を決めるだけだ。


「代筆完了と同時に、依頼者はこの街から退く」


 ミズハが言った。


「救いみたいに言うな」


 弔一は言う。


「言ってない」


 ペン先を署名欄へ置く。

 紙が鳴らない代わりに、指の割れ目が熱くなる。熱くなるのに、手は冷たい。冷たい手で、熱い痛みを押さえ込む。


 署名を置いた。


 その瞬間、石は砕けない。崩れない。粉にもならない。


 ただ、重さだけが抜けた。


 机の脚がわずかに軋み、次に沈黙が来る。部屋の湿度が一段下がる。雨音が遠ざかる。遠ざかるのに、雨は止んでいない。外は降っている。ここだけが乾く。


 弔一は便箋を封筒に入れない。すぐには封をしない。封をしたら、手順が終わる。終わる前に、控えを取る。


 弔一は複写用紙を下に敷き、控えの欄に同じ文を写す。ペン先は同じ線をなぞるのに、紙の冷たさが変わる。控えの紙は普通だ。普通の紙の温度が、逆に温かく感じる。


 控えを外し、帳面に依頼番号を書き入れる。黒い数字が、帳面の乾いた紙に沈む。沈むのに、インクは広がらない。広がらない線が、ひどく固い。


 弔一は封筒の口を指で押さえ、封緘の糊を薄く塗る。糊は湿っているのに、指先に水は残らない。指先の割れ目にだけ、粘りが引っかかる。


 ミズハが言った。


「礼も言わないのか」


 弔一は言う。


「礼は契約にない」


 ミズハが言った。


「ひどい」


 弔一は言う。


「仕事だ」


 封筒を閉じた。

 封を閉じた音はしない。音が出る前に止まる。


 机の上に、何かが残っていた。


 砂粒が一つ。湿っている。湿っているのに、濡れてはいない。指で触れると冷たい。冷たい粒が、指の割れ目に刺さるように当たる。


 砂粒の横に、小さな字が置かれている。


 道。


 弔一はその字を見下ろし、何も言わずに引き出しを開けた。そこには木の札が一枚ある。表にも裏にも何も書かれていない。書かれていないのに、触れると紙より冷たい。


 弔一は札を机の端に置き、万年筆で一画だけ足した。

 線は短い。短いのに、ペン先が妙に重い。重いのはペンのせいではない。手首の奥が引かれる感覚。


 ミズハが言った。


「看板もないのに」


 弔一は言う。


「ある」


「誰が見る」


「見るやつが来る」


 路地の外で、遠くの誰かの声が流れた。雨音に溶ける声。言葉は聞き取れない。けれど一つだけ、耳に引っかかる響きがあった。


 売る。


 弔一はランプの明かりを落とさずに、窓の外を見た。路地の奥は暗い。暗いのに、濡れた石が一箇所だけ白く光る。光っているのに、灯りが当たっているわけではない。


 ミズハが言った。


「噂が動く」


 弔一は言う。


「動くだろ」


「売る店」


「聞いたか」


「聞こえた」


 ミズハの声が少し硬い。硬いのに、水の匂いが増す。増すのに湿らない。矛盾が、また当たり前に座る。


 弔一は帳面を閉じ、万年筆を拭いた。ペン先を布でぬぐうと、黒い筋が残る。筋は薄い。薄いのに、布の温度が一段下がる。指の割れ目が、布に触れて鈍く痛む。


 机の上を片づける。契約条文は所定の場所へ。控えは封筒の脇へ。朱肉は蓋を閉める。蓋が密着する音はしない。密着する前に止まる。


 ミズハが言った。


「次は来るな」


 弔一は言う。


「来る」


「来るな」


「来る」


 同じ文が、机の上で行ったり来たりする。行ったり来たりするだけで、答えは増えない。


 ミズハが一歩、窓枠から離れた。濡れていない足が床に触れるのに、床板が冷える。冷えるのに、水はない。


「次の依頼は」


 ミズハが言った。


「神じゃない」


 弔一は言う。


「分かった」


「人間だ」


 ミズハの視線が、机の封筒へ落ちる。封筒は静かだ。静かなのに、そこだけ空気が薄い。


「しかも」


 ミズハが言い、そこで止めた。止めた瞬間、雨音が一拍だけ遅れた。


「死ねない」


 弔一の喉が一度動く。唾が戻らない。舌の裏が乾いたまま、音が出る前に止まる。


 弔一は短く言った。


「面倒だな」


 ミズハは答えない。答えない代わりに、窓の外の暗さが少し濃くなる。雨の匂いが濃くなる。濃くなるのに、湿らない。


 机の端に残った砂粒を、弔一は指で拾い上げた。指先の割れ目に刺さる冷たさが、しつこく残る。弔一はそれを札の上に落とす。砂粒は跳ねない。音もない。


 ランプの明かりの中で、札の一画が黒く光った。光るのに、濡れてはいない。


 弔一は万年筆を箱に戻し、引き出しを閉めた。

 閉まる音はした。音が出る前に止まらなかった。普通の音がした。その普通さが、今は少しだけ耳に痛い。


 扉の鍵に手をかける。金属が冷たい。冷たさが指先に移り、割れ目の痛みが鈍くなる。鈍くなった痛みの奥に、熱だけが残る。


 ミズハが言った。


「それでも書くのか」


 弔一は言った。


「書く」


 答えは短い。短いのに、机の上の封筒だけが、妙に重く見えた。重く見えるのに、持ち上げれば軽いはずだ。重いのは、紙の重さではない。


 路地の奥で、また声がする。今度は少し近い。雨の中を急ぐ足音が混じる。足音は水を踏んでいるのに、跳ねる音が小さい。水が薄い。


 弔一は扉の前で立ち止まり、鍵を回さずに耳を澄ませた。

 足音が一度、止まる。止まった場所が、ちょうど長屋の下だと分かる。木の軋みが、階段の下から上がってくる。


 弔一は鍵を回した。金属が鳴る。鳴った音が、雨音に紛れずに残る。


 扉の向こうで、誰かが息を吸う気配がした。吸う気配だけで、吐く気配がない。吐く前に止まっている。


 弔一は扉に手を置き、冷たい木の感触を確かめた。指の割れ目が、木目に引っかかる。引っかかった皮膚が、ほんの少しめくれる。血は出ない。熱だけが出る。


 弔一は扉を開けた。


 外の雨が、室内より少しだけ温かい。濡れた空気が、頬に触れる。路地の暗さの中、傘を差さない影が立っている。


 影の輪郭が、雨の中で薄い。

 薄いのに、目だけがはっきりしている。目の中に、白い灯りが映っている。ここには灯りが少ないのに、映り方だけがはっきりしている。


 弔一は言った。


「用件は」


 影は答えない。

 代わりに、胸のあたりから紙の擦れる音がした。音が出る前に止まらない。普通に擦れる音だ。


 封筒だ。別の封筒。

 誰かが、濡れた手で持っている封筒。


 弔一はそれを見て、喉が一度動く。音が出る前に止まる。舌の裏が乾く。乾くのに、雨が頬を濡らす。矛盾が、また当たり前に座る。


 弔一は影に向けて、短く言った。


「上がれ」


 影は一歩、階段へ足をかけた。

 木が軋み、湿った匂いが上がる。


 弔一は扉を閉める前に、机の上の札を見た。黒い一画。砂粒。道の字。


 その小さな字だけが、妙にくっきりしている。


 弔一は扉を閉め、鍵をかけた。


 そして机へ戻り、封筒をもう一つ置く場所を作った。


 最後に、帳面の余白へ小さく書き足す。


 今日、開業。


 紙は冷たく、文字は滲まない。


 それでも、名前は残る。

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