第8話 遺品整理を拒む家

 封筒の紙は薄い。薄いのに、指先に残る。


 印字された電話番号だけが黒い。黒さが均一で、機械の黒だと分かる。分かると、息が一段浅くなる。浅くなる息は、室内の匂いを拾う前に喉を乾かす。


 一条が紙を指で弾いた。弾く音が軽い。軽い音のわりに、彼の目は軽くない。


「遺品整理を拒む家」


 一条が読み上げた。


「拒むって言い方が嫌だな。拒んでるのは、遺品じゃなくて終わりだろ」


 私は記録帳に、封筒の到着時刻を書いた。書くことで現場になる。現場になると、私の手が動く。手が動けば、余計なことを考えない。


「連絡する」


 私は電話番号を押した。呼び出し音は短い。短い呼び出しの後、男の声が出た。第六話のスーツの男に似た声だ。似ているのではない。同じだ。


「こちら、文化財管理課の」


 名乗りが最後まで言い切られない。言い切られないのは、こちらが名を知っていると踏んでいるからだ。


「朔です」


 私は名乗りを返す。相手は一拍だけ黙った。その一拍は確認の一拍だ。電話の向こうで、紙をめくる音がした。資料の音。


「早いですね」


「依頼ですか」


「そうです。家が一軒。町家で、私祠がある。撤去と整理を提案したが、当主が拒否している」


「当主」


「高齢の女性です。近所との摩擦も出ている。火の始末が危ういと」


 火。線香。蝋燭。閉じた空気。煤が増える条件が揃う。


「現場の場所」


 住所が告げられた。聞き終えて、私は簡単に復唱した。復唱すると手順になる。手順になると、相手の言葉が整う。


「こちらの条件は」


 男が言う。


「記録は渡しません」


 私の返答が早かった。一条が私を横目で見た。止めない目だった。


「現象のみの報告書なら出す」


 男は小さく息を吐いた。吐き方が腹の底で止まる吐き方だ。納得していない。


「分かりました。では、現場で」


 電話が切れた。


 町家を出ると、京都の冬の空気が肺に入った。石畳が湿っている。湿りは夜の湿りだ。昼でも夜の湿りが残る路地は、陽が当たりにくい。陽が当たりにくい場所は、匂いが残る。


 一条が先に歩いた。いつもは私が先に歩く。今日は彼が先だ。先に行く人は、風を割る。割った風の後ろは楽だ。楽にされるのは落ち着かない。落ち着かないのに、今は助かる。


「お前、昨日の病院のやつ、引きずってる」


 一条が言った。歩きながら言う声は軽いが、内容は軽くない。


「仕事です」


「お前の便利な言葉」


 皮肉が戻っている。戻っていること自体が、彼の中に余裕が少し戻った証拠だ。余裕があるなら良い。余裕がない皮肉は刃になる。


 路地の奥、古い町家が並ぶ区画に入った。観光の通りから外れている。人の声が薄くなる。薄い声の中に、線香の匂いが濃くなる。


 匂いが重い。甘い。甘さは供物の甘さだ。供物の甘さは、腐ると甘くなる。甘くなると澱む。澱んだ匂いは鼻の奥に残る。残る匂いは、息を遅らせる。


 家の前に立つと、戸が半分開いていた。開いているのに、風が出てこない。風が出てこない家は、空気が動いていない。動かない空気は、終わりを固定する。


 玄関で靴を脱いだ。畳の匂いがする。畳の匂いがするのに、空気が温い。冬の町家は冷たいはずだ。温さが妙だ。妙な温さは、火の温さだ。火の温さは、閉じた場所で危険になる。


 廊下が長い。長い廊下の先に、仏間に似た部屋がある。襖が閉じられている。襖の隙間から、線香の煙が薄く漏れている。煙は上がるはずなのに、横に漏れている。横に漏れる煙は、空気が重い証拠だ。


 スーツの男が先にいた。靴下が新しい。家の畳に対して靴下が白すぎる。白すぎると、場に馴染まない。馴染まないものがいると、家の人は硬くなる。


「こちらです」


 男が襖の前で私たちを迎えた。名刺を出す動作は丁寧だが、目が焦っている。焦りは時間の焦りだ。近所との摩擦の焦り。役所の焦り。


「火の始末が危ういというのは」


 私が聞くと、男は頷いた。


「毎日、供物と線香を絶やさない。夜も消さない。ご近所が」


 男の言葉の途中で、襖の向こうから声がした。女の声。年寄りの声。声が小さい。小さいのに、硬い。


「誰やの。勝手に来んといて」


 男が襖越しに言った。


「整理の専門の方です。お願いして」


「お願いしてへん。うちの神さんは死なはらへん」


 死なない。断言の仕方が家族の断言だ。信仰の断言ではない。


 一条が小さく舌打ちした。舌打ちの音が乾いている。乾いた音は、彼の喉も乾いている証拠だ。


 私は一条の方を見ずに、袖を軽く引いた。止める合図だ。言葉ではなく合図で止める。言葉にすると、その場の温度が上がる。温度が上がると火が増える。


 男が襖を開けた。開けた瞬間、匂いが押し寄せた。線香の煙、供物の甘さ、古い木の湿り、そして、閉じた人の息。閉じた人の息は、外に出ない。出ない息は澱む。澱みは、煤を呼ぶ。


 部屋の中央に、小さな社があった。仏壇のように置かれている。布がかけられている。布は新しい。新しい布が古い木にかかっていると、そこだけ別の時間になる。別の時間は歪みの入口だ。


 老女が正座していた。背中が丸い。丸い背中は長年の姿勢だ。姿勢は人の生き方を表す。生き方が硬い。


「誰」


 老女が私を見た。目は澄んでいる。澄んだ目は頑固だ。


「遺品整理の者です」


 私は名を言わない。名を言うと家に名が残る。残る名は縛りになる。縛りは現場を歪める。


「遺品ちゃう。生きてはる」


 老女は社に目を向けた。社に向ける目が、家族を見る目だ。家族を見る目は、終わりを受け入れない。


 私は反論しない。反論は言葉の戦いになる。言葉の戦いは、相手を固くする。固くなると、家の空気がさらに閉じる。


「状況を確認します」


 私は言った。事実の手順に入れる。


「いつから、この部屋で祀られていますか」


「昔からや。戦争の前からや。あんた、何知りたいん」


 昔から、という言葉は時間の説明ではない。拒否の言葉だ。


「火の始末は、いつも」


「消さん。神さんが寒いやろ」


 神が寒い。寒いのは本当は人だ。人が寒いと火を消せない。火を消せない家は、終わりを固定する。固定された終わりは、繰り返す。


 一条が息を吸った。吸い方が鋭い。鋭い吸い方は怒りの吸い方だ。怒りは熱になる。熱はここでは危険だ。


 私は一条の前に半歩出た。半歩の差で、彼の言葉が届きにくくなる。届きにくくなると、衝突が遅れる。遅れると手順に戻れる。


「社の中のものを、見せてください」


 私は言った。


 老女が笑った。笑いが短い。短い笑いは軽蔑の笑いだ。


「見せたら、持って行くんやろ。持って行かせへん。あの子はうちにおる」


 あの子。神が家族になっている。家族になっているものは、遺品になれない。遺品になれないものは、終わらない。終わらないものは苦しい。


 社の布の下から、鈴の音がした。


 小さな鈴。鈴は鳴る。鳴るはずだ。音が聞こえる。聞こえるのに、耳の奥が遅れる。遅れる音は反響だ。反響は、鳴っていない音を鳴っているように感じさせる。


 一条が小さく言った。


「鳴ってない」


 彼の声は低い。低い声は真実の声だ。真実を言うと、老女が固くなる。固くなると火が増える。火が増えると、遺品が暴れる。


 私は一条に視線を向けずに、手順に入った。


「結界を確認します」


 私は道具袋から札を出した。床に四枚。部屋の四隅。畳の縁。札が畳に触れると、畳の湿りが紙に移る。移ると紙が重くなる。重い紙は良い。軽い紙は風に舞う。舞う札は役に立たない。


 老女が「何してんの」と言った。言葉が怒りだ。怒りは熱だ。熱は線香の火を強くする。


「安全確認です」


 私は短く言った。


 社の前に置かれている御幣が揺れた。風はない。揺れは空気の重さの揺れだ。重い空気が自分で動くとき、歪みがある。歪みは死を認めない歪みだ。


 私は手袋を外さない。まずは観察だ。観察で手順を立てる。立てないと触れられない。


 社の周りに、供物がある。果物。甘い菓子。水。水が濁っている。濁りは埃ではない。濁りが薄い膜のように張っている。膜は、息だ。老女の息が、水に積もっている。


 社の扉の隙間から、紙が覗いている。札だ。札は新しい。新しい札が何枚も重なっている。重なる札は、名前を固定する札だ。固定する札が多いほど、終わりは押し戻される。


 私は手袋の口を見た。外すべきか。外すと匂いが指に残る。残る匂いは夜に戻る。戻る夜は、過去を連れてくる。連れてくる過去は、仕事を遅らせる。


 それでも触れないと手順が立たない。


 私は手袋を外した。指先が空気に触れた瞬間、空気が温いのに冷えた。冷えたのは皮膚の内側だ。内側が冷えると、喉が乾く。乾いた喉で唾を飲む。飲み込みが遅れる。遅れが、私の身体の警告だ。


 御幣に触れた。


 紙が固い。固い紙は、乾いている。乾いているのに、紙の奥に湿りがある。湿りは人の息の湿りだ。息が紙に染みている。


 最後の記憶が走る。


 暗い部屋。今と同じ部屋。社は同じ場所。老女が若い。若いのに目が同じだ。目が同じまま時間が変わるのは、執着が強い証拠だ。


 社の中には、薄い影がある。影は輪郭がない。輪郭がない影は、すでに終わりに近い。終わりに近い影は軽い。軽い影は風に溶ける。


 影が一度、消える。消える瞬間が静かだ。静かに消えるのが、この世界の神の終わりだ。大事件にならない。誰も叫ばない。鈴も鳴らない。ただ、薄くなる。


 薄くなった直後に、老女が社の前に座る。供物を置く。線香を立てる。名前を呼ぶ。


 呼ぶ声が、三回ではない。十回でもない。数えられない。数えられないほど呼ぶ。呼ぶと、影が戻る。戻るのではない。戻ったように見える。見えるだけの影が、反響として立ち上がる。


 影は動かない。動けない。動けないのに、老女の声に合わせて揺れる。揺れは生きている揺れではない。反響の揺れだ。


 影が、声を出そうとする。出る言葉は、名前だけだ。名前しか出ない。名前しか出ない影は、もう神ではない。家族の人形だ。人形は終われない。終われないものは、同じ最後を何度もなぞる。


 影の中に、ひとつだけ意志が残る。残る意志は、終わりたい意志だ。終わりたい意志があるのに、終われない。終われないことが、歪みだ。


 歪みが、黒い線になって床に落ちる。線が煤だ。煤が風のように舞う。舞う煤が、老女の袖に付く。老女は気づかない。気づかないまま、名前を呼び続ける。


 終わりが押し戻される。押し戻されるたびに、終わりの瞬間だけが繰り返される。


 私は御幣から手を離した。離した指先が痺れている。痺れが、社の形に沿っている。社が指に残る。残るのは、終わりの反復だ。


 老女が私を見た。私の顔を見る目が鋭い。鋭い目は、何かを察している目だ。察するのは、私が終わりを知ったからだ。


「見たんか」


 老女の声が低くなった。低くなる声は、守りに入る声だ。


「この方は、すでに終わっています」


 私は言った。言い方は淡々とした。淡々としないと、言葉が慰めになる。慰めはここでは刃になる。


「嘘や」


「嘘ではありません」


「うちが呼んだら、鈴が鳴る」


 鈴が鳴る。鳴っているのは反響だ。反響を否定すると、老女は火を強くする。強くすると、煤が増える。増える煤は、家の外に出る。出ると近所が巻き込まれる。


 一条が前に出そうになった。私は袖をまた軽く引いた。止める。止めることで、私の手順を守る。


「捨てて、なんて言わへんで」


 老女が先に言った。言い方が強い。強い言い方は恐れの裏返しだ。


「捨てません」


 私は言った。捨てない。捨てる行為は消す行為だ。私の仕事は消すことではない。歪ませずに残すことだ。残すためには、終わりを終わらせなければならない。


 私は道具袋から、白い紙を出した。無地の紙。文字がない紙は、これから書く紙だ。書くのは説明ではない。手順だ。


「手順を提案します」


 私は紙に番号を書いた。数字は四つ。四つは覚えやすい。覚えやすい手順は、生者に渡せる。


「一、最後に一度だけ供物を置く」


 老女が鼻で笑った。笑いが乾いている。


「いつも置いてる」


「一度だけです」


 私は繰り返した。繰り返すのは強制ではない。設計のためだ。設計は繰り返しで伝わる。


「二、名前を呼ぶのは三回まで」


「三回で足りるわけない」


「足りなくても三回です」


 老女の目が潤んだ。潤みは涙だ。涙に言葉を添えると慰めになる。慰めると、老女は手順を守れない。守れないと歪みが続く。


 私は潤みを見ない。見ない代わりに、紙を見た。紙を見ることで場の温度を下げる。


「三、鈴が鳴らなくても、鳴ったことにする」


 ここで一条が小さく息を吐いた。吐く息が、線香の煙を少し揺らした。揺らした煙が、社の前で一瞬だけ途切れた。途切れは風の通り道だ。風が通れば終わりが進む。


 老女が言った。


「鳴ってへんのに、鳴ったことに」


「鳴ったことにします」


 私は言った。事実ではない。けれど、設計として必要だ。鳴らない事実に執着すると、老女は鳴るまで呼ぶ。呼び続けると歪む。歪みは暴れる。


「四、明朝、社を開けて風を通す。その後、遺品を私に渡す」


 老女の肩が小さく揺れた。揺れは拒否の揺れではない。崩れる揺れだ。崩れる揺れは、支えが要る。支えを言葉でやると慰めになる。慰めは禁句寄りだ。代わりに、手順を差し出す。


「明朝、私が来ます」


 私は付け足した。付け足しは救いではない。作業者としての立ち会いだ。立ち会いがあると、老女は最後の手順を一人でやらなくていい。一人でやると、呼びたくなる。呼びたくなると歪む。


 老女が唇を噛んだ。噛む唇が白くなる。白くなる唇は、堪えている唇だ。堪えは、受け入れの入口だ。


「うちの神さん、寒いやろ」


 老女が小さく言った。小さい声は本音だ。


「寒くないようにします」


 私は言った。優しいと言わない。優しいは禁句寄りだ。代わりに、布を出した。薄い布ではなく、少し厚い布。社の上に掛ける布を新しいものに替える提案だ。布は物だ。物は言葉より確かだ。


 一条が老女の方を見た。目が柔らかい。彼は橋渡しの目を持っている。持っているのに、今日は黙っている。黙ることで、私の手順を守っている。


 老女は布を見て、紙の手順を見て、社を見た。視線の往復が遅い。遅いのは、決めるのが重いからだ。


 やがて、老女が頷いた。頷きは小さかった。小さい頷きほど確かだ。


「三回だけ、呼ぶ」


「はい」


「鳴らんでも、鳴ったことにする」


「はい」


「明日、来るんやな」


「来ます」


 私の胸の内側が少しだけ緩んだ。緩むと息が入る。入った息が喉を通り、乾きが少し戻る。戻る乾きは、仕事の乾きだ。


 スーツの男が安堵した顔をした。安堵は彼の仕事の安堵だ。彼の安堵の温度が上がると、場の温度も上がる。上がる温度は線香の火を強くする。私は男に視線を向けて首を横に振った。余計な言葉を挟むな、という合図だ。


 男は黙った。黙ることも仕事だ。


 帰り際、老女がふと一条を見た。


「……あんた」


 老女の声が止まった。止まるのは、見えてしまったときの止まり方だ。


「名前が」


 言いかけた瞬間、一条の影が畳の上で薄くなった。


 薄くなる影は、第四話の神の影と似ている。似ていると分かるのは、嫌だ。嫌だという言葉は使わない。代わりに、指先が痺れる。痺れが一条の方へ走る。


 私の手袋の内側が熱くなった。熱は煤の熱だ。煤が滲む。滲んだ煤が、手袋の縫い目から外へ出ようとする。出ようとする煤が、一条の方へ引かれている。


 引かれるのは、境界が薄いからだ。薄い境界は、名を奪う。名を奪うのは、誰かだ。


 一条が老女に笑った。笑い方が軽い。軽い笑いは、隠す笑いだ。


「名前なら、あるよ。適当に呼んで」


 老女の目が揺れた。揺れは恐れだ。恐れは口に出すと増える。増えると歪む。歪ませないために、私は手順に戻す。


「明朝、来ます」


 私は老女に繰り返した。繰り返しは、終わりの設計だ。


 家を出ると、外の冷気が頬を刺した。刺す冷気は現実だ。現実は助かる。


 一条が路地で立ち止まった。立ち止まると、彼の肩が少し落ちた。落ちる肩は、重さの肩だ。


「来るぞ」


 一条が言った。声が低い。


「俺の番が」


 私は返事をすぐにしなかった。返事が遅れると、喉が乾く。乾いた喉で、私は言った。


「終わらせる方法を探します」


 これは慰めではない。仕事の宣言だ。宣言は刃物だ。刃物は温度を奪う。奪った温度の中で、私たちは歩き出した。


 手袋の内側で、煤がまだ滲んでいる。滲み方が、糸のような線から、影の縁のような薄い膜に変わっている。膜は名を覆う。覆う膜は奪う膜だ。


 次の依頼は、もう届いている。封筒の黒い印字が、机の端で待っている。

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